先ず、女性自身のジェンダーの内面化の現象の一つとして、結婚後、妻が夫の姓を名乗ることが通例となっていることに注目したい。現在法的には姓の選択は夫婦が対等に行うことができる。明治の民法制定時には、女性が夫の姓を名乗ることは、夫という個人のもつ姓ではなく、夫の属する「家」がもつ氏を継ぐという意味を持っていた。しかし、敗戦後、「家」制度は否定され、結婚後の姓の決定に際しては、夫と妻の権限は対等であり、両者の姓を選択する比率はほぼ一対一になるはずである。しかし、実際には、婚姻後妻が姓を夫の姓に変えるのが通例で、首都圏では97%、東海92%、関西98%となっている(リクルート・ゼクシィ事業部、1998年)。自由な恋愛が主で対等平等の関係を発展させる恋人同士の間にも男性優先の「家」文化の名残は強く残っている。一方、姓に関わる「家」意識においても、次第に変化が表れてきている。「夫婦別姓を望む人には許されるべきだと思う」という肯定派がほとんどである。しかし、実際に法律によって別姓が認められた場合、別姓にする意向のある人は17%程度にとどまっている、と坂西友秀は捉える。別姓にしない理由として、「結婚した証として」「家族の一体感のため」「子供のことを考えて」「同じ姓なのが当たり前だから」などがあるが、これらの理由には心理的な意味が強く含まれていると考えられる。「新しい姓のほうが好き」という女性も一割いる。こうした態度は法的な制度によって女性の内面に作り出されてきた一つの心理であり、不変とは考えられない。[1] 夫婦の名字についても一人一人が多様な生き方を選べるようにと、女性の側から強く求められている。夫婦別姓の容認の傾向は、第五章の最後に記した家族の「個人化」の現象のひとつとして捉えることができる。NHKの『現代日本人の意識構造[第5版]』によれば、夫の姓に統一しなければならないという考え方は徐々に後退し、反対に夫婦別姓でもよいという考え方がじわじわと増えている。男女別に見ると、特に女性では5年間に急増し、98年の調査では四割を超え男性を上回っている。夫婦の姓は必ずしも夫の姓でなくてもよいと考える女性が増えてきているのである。年代別では、1943年以降に生まれた人に「脱・夫の姓」を支持する人が増えている。1980年後半から夫婦別姓の導入を求める声が高まってきた。その理由としては、姓を変えることで自己喪失感を持ったりすることが考えられる。夫婦の名字をどのようにするかということは、実は姓と何か、個人とは何か、結婚とは何か、家族とは何かなどの根本的な問題と深く関わっている。夫婦別姓を容認する傾向は、「家族とは同姓でなければならない」という家族観の揺らぎであり、結婚したら女性が改姓するというこれまでの「常識」に対しての疑問の投げかけである。「夫婦別姓にすると家族の一体感が損なわれる」という意見があるが、家族の絆はなにから生まれるかという質問に、「苗字や戸籍が同じであること」「血がつながっていること」と答えた人は、前者は男女ともに1%、後者は男性12%、女性11%しかなく、一方「一緒に暮らすこと」は男性43%、女性38%、さらに「家族一人一人の努力」は男性34%、女性43%と、日常生活そのものによって、特に女性では同じ姓を名乗ることよりも一人一人の努力によって家族の絆は生まれると考えているのである(朝日新聞社「家族像」世論調査、1999年、全国の有権者)。[2] 第二章で、近代家族は女性の抑圧装置となったというフェミニズムの考え方に触れたが、女性にとって家族はこれまでのように自分を抑えて一体化するものではなくなってきている。個人を縛る従来の性役割に従う生き方や制度や社会に疑問を投げかけ、自分はどう生きていくのかを女性自身が問い始めている。「両性の平等」と「個の自立」という方向を目指しているのである。
憲法24条の家族生活に関する事項においては、個人の尊厳と両性の平等を掲げているが、家族・男女関係の領域における日本人の意識の変化は、まさにこの文言を体言化してきたかに見える。『現代日本人の意識構造[第5版]』の調査を開始した73年と98年の結果から家族に関する意識変化をおさらいすると次のようになる。「愛情があれば婚前交渉は可」が「不可」を抑えて最大意見となった。「結婚はしなくてもよい」が6割近くに達した。「結婚しても、子供をもたなくてもよい」が増加している。先に記したように、「脱・夫の姓」が四割に達した。「女性は子供が生まれても職業を続けたほうがよい」が最大意見となった。「父親は仕事、母親は家庭」という「性役割分担」が二割に減少した。「夫の家事・育児の手伝いは当然」が8割を超えた。「子供に干渉しない父親」を求める傾向が増加。「女性に高学歴を」が多数派に、「老後は子供や孫と」が減り、「自分の趣味に生きる」が増えた。これらは全て、家族という私的集団の中でそれをさらに細分化する個的原理が強い主張を持ち始めたことを意味する。そして、そのことは一方で人々の新しい意識が既成の家族の規格ひいては既成の社会の規格にはもはや収まり切れなくなっているという切実な問題を招来させているのである。[3] したがって、これらの新しい意識を受容し適正化していく新しい家族や社会を確立させていくことが求められている。
近年の生殖技術の発達が子供や家族という概念に与える影響を考えたうえで、私たちはどのような選択をしていくべきなのかということについて、長沖暁子は、子供のいない家族を含めて、多様な家族のあり方を認めていく方向で考えていくしかないのではないかと述べている。その上で選択するという状況を作っていかなければ、女性に対する子供を作れという圧力は減っていかないのである。少子化は子供を産めという圧力を産んでいる。医療自体も子供を作ることが善という方向にあり、社会から子供を作って欲しいという圧力がかかっている中で、個人が選択した場合、どう考えても子供を作る方向の後押しされていることになる。多様性を認める社会をつくっていくためには、当事者が語ること、言葉に耳を傾け、経験や知識を共有化することによって、価値観を広げていく、多様性ということを実感することが第一歩である。さまざまな立場の当事者が語ることから多様性を認める自然観・生殖観・生命観を実感する。その上で、どの選択肢を選んでも圧力がない社会、何を選んでも「等価」である社会がなければ自由な選択とはいえない。子供を産まない女は価値がないと思われている社会では、産まなければ存在証明にもならない。産んでも産まなくても、母親であってもなくても同じように認められる社会でなければ、アウトローでよいと居直らないかぎり、不利な選択はできないのである。そういう社会を作っていくためには女性たちがもっと政治的・経済的・社会的な力を付けていくことが必要だ。そして、男性たちには家事や子育てに積極的に参加し、性や生殖をもっと実感して、出産に関しても自分の問題として考えるような意識改革を期待したい。[4] 女性が性役割を超えて個人として自由な選択ができるようになるには、これまでの伝統的な家族形態だけに捉われない、多様な家族のあり方を認める社会への変革が望まれる。
女性にとって家族は運命共同体ではなく、女性を取り巻く環境の一つになってきた。新たな家族の形態を確立することが必要とされている。しかし、昔ながらの男女の役割と伝統的な家族形態だけを頭に入れた教育が行われていては、男女それぞれが主体性を持てる、新しい家族関係を模索することは難しい。繰り返し見てきたように、女性は仕事をもつことによって家事労働と市場労働の二重負担に苦しむ。時には、妻が稼ぐことを疎ましく思い、自分の役割が侵されると感じる夫さえいるのである。離別、死別を問わず、単身の親の立場に立たされた時、今まで相手の役割だと思っていたことを自分がしなければならないのは、困難なことが多い。こういう時でも、男女の固定観念にあまり捉われていない人々は順応がより容易である。新たな家族形態によって、男女の役割は変わってきた。そうした現実に追いつくためには、行政面では保育所の充実は急務である。雇用の分野でも、企業内保育所や家族と共に過ごす時間を増やす制度の拡充が望まれる。今まであらゆる点で我々の社会は、変わり行く家族を受け入れる準備ができていなかった。社会の根底を揺さぶるような変化への対処の仕方などわからなかった。今や時代遅れの体制、政策をこれ以上続けても新たな家族形態、女性の生き方を受け入れるための何の解決にもならない。新しい家族生活の決まりを創り出そうとしている世代の能力を最大限に活用できるような社会政策を是非とも実現させなければならない。
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引用文献
[1] 坂西友秀「恋人たちがもつ現代的「家」意識」藤田達雄・土肥伊都子編『女と男のシャドウ・ワーク』29-30頁、ナカニシヤ出版、2000年。
[2] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第5版]』38-41頁、NHKブックス、2000年。
[3] NHK放送文化研究所編『現代日本人の意識構造[第5版]』213-214頁。
[4] 長沖暁子「家族の今をどう見るか」『三色旗655号』慶応義塾大学出版会、2002年10月。