あかない日記

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興行師 川上音二郎

2020-11-11 | 人物忌


上野谷中霊園にある顕彰碑
(台座上の銅像は戦時中の
 金属拠出により撤去されている)

 

11月11日は 明治時代の
  興行師 芸術家 新派劇の創始者

 川上音二郎 が亡くなった日

川上音二郎は 

1864(文久4)年
 博多の藍問屋に生れる。本名音吉
    維新で家業が没落
    継母とも折り合いが悪く
1878(明治11)年
    博多港から大阪に渡り歩いて
    東京まで行き  給仕や巡査などの
    職を転々としたのち
    郷里で政治運動に投じ
    自由童子と名乗って
    過激な言動により
    検挙投獄数十回にもなった。
    
   やがて  政談演説が禁止されると
    落語家桂文之助に入門
    浮世亭○○の芸名で大阪の寄席で
    時局風刺の漫談を演ずる。

1887(明治20)年
 京都の中村駒之助一座で
    川上音二郎の芸名で俳優となる。

   その後 書生芝居の一座を組んで
    巡業を始め東京の開盛座や
    中村座公演を果たしたのち
    自由民権運動をからませた
    羽織袴に陣羽織姿にハチマキ
   手には日の丸の軍扇という
   出で立ちで唄った
  「オッペケペー節」が一世を風靡した。

 1903(明治36)年
 日本で初めてのセリフ劇
  「オセロ」を日本バージョンで上演する。
    
  以後「ハムレット」「ヴェニスの商人」など
   翻訳劇を公演し演劇界に新しい潮流を作った。
1908(明治41)年
 興行師として成功し
   大阪市北浜に
 洋風の劇場・帝国座を開場する。

   同時に帝国女優養成所も創設。
1910(明治43)年
 福岡博多区に洋風劇場の
 「博多座」(初代)を建設。

1911(明治44)年11月11日
    急性腹膜炎により
    帝国座の舞台上で死去。享年48。



オッペケペー節の第一声

「権利幸福きらいな人に/
自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい/
オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー/
堅い裃角とれて/
マンテルズボンに人力車/
いきな束髪ポンネット/
貴女や紳士のいでたちで/
うわべの飾りは立派だが/
政治の思想が欠乏だ/
天地の真理がわからない/
心に自由の種をまけ/
オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー」

 

 

 

 

 



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