(Goo古地図・明治期から)
森鴎外と西周の関係について
前回 鴎外の結婚の媒酌人として触れた。
もう少し掘り下げてみたい。
西神田二丁目3番(西神田公園)にある
町内会の説明文には
「江戸時代のこの界隈は、
武家屋敷が立ち並ぶ地域でした。
当時の武家地には正式な
町名がありませんでしたが、
江戸城の北西一帯は、小川町という
俗称で呼ばれていました。
明治時代に入ると、武家地だった場所にも
町名が付けられるようになります。
明治五年(1872年)、ここに「猿楽町」や
「中猿楽町」「今川小路三丁目」
「西小川町一丁目」「西小川町二丁目」
といった町が成立しました。
このころ町内には、
哲学者で啓蒙思想家でもあった
西周(にしあまね)の屋敷がありました。
その屋敷に明治五年から数年間、
寄宿していたのが、
小説「高瀬舟」などで知られる森鴎外です。
ふるさとから上京したばかりの鴎外にとって、
多感な少年時代を過ごした西周邸での生活は、
忘れられないものだったに違いありません。
(以下略)
西神田町会 」
西家は 津和野町の典医で
森家とは親戚関係にあった。
西周の父は 森鴎外の祖父の弟・森覚馬で
西家に養子に入って
周が1892(文政12)年に生まれている。
この関係で 鴎外と父は屋敷に寄寓していた。
このときの西周は陸軍大丞 宮内省侍読であり
鴎外の33歳年上でもあった。
鴎外は寄寓ときの模様を
「ヰタ・セクスアリ」に記している。
「同じ年の十月頃、僕は本郷壱岐坂にあった、
独逸語を教える私立学校にはいった。
これはお父様が僕に鉱山学をさせようと
思っていたからである。
向島からは遠くて通われないというので、
その頃神田小川町に住まっておられた、
お父様の先輩の東先生という方の内に
置いて貰って、そこから通った。」
注)「東先生」は西周
「ヰタ・セクスアリス」は
1909(M42)年に発表された。
題名はラテン語で性欲的生活を意味する。
あらすじは 主人公の哲学者である父親が、
高等学校を卒業する長男への性教育の
ための資料として、
自らの性欲的体験についてその歴史をつづる内容。
大胆な性欲描写が問題となり、
陸軍の上官から懲戒処分を受けた。
掲載された文芸誌「スパル」7号は
発刊から1か月後に発売禁止の処分となる。
この処分は当時軍医総監という立場に
あった鴎外に対する非難を受けての対応であった。
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