あかない日記

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中欧旅行(75) 火薬塔

2012-05-16 | 中欧5カ国紀行

 

 

   旧市街広場から東に延びるツェレトゥナー通りを行く
     この道「王の道」ともいう。

 
  旧市街の火薬塔からカレル橋を渡って対岸のプラハ城まで続く

  約2.5kmにおよぶ歴史的な道で 1458年~1836年の約4世紀に渡り
    時代が変わるたびに歴代の王が戴冠パレードを行ってきた道だそうだ。

 その道を 今逆に歩いていくと 正面に黒にくすんだ大きな塔が
     立ちはだかっている。 

   これが “火薬塔”で 「王の道」の起点になっている。
    少々異様な雰囲気が漂うが 1475年にゴシック様式で建てられ
     旧市街を守っていた城壁の門のひとつで 17世紀に火薬倉庫として
      利用されたために こう呼ばれるようになった。

 18世紀の半ばに戦災で大きな被害を受けた後が 
   19世紀末になって修復されて現在に至っており
    塔の高さは65m 186段の階段を上がると44mの高いところから
      旧市街やプラハ城の景色を見られそうだ。

 


中欧旅行(74) 治安

2012-05-15 | 中欧5カ国紀行

 



 

  プラハの夜の街を歩き 警官や 救急車を見かけた。
   警らの中の警官は 道路上に這い蹲る物乞いに 立ち去るよう促し
    旧市街広場には救急車が駆けつけていた。

  『これから行く プラハの繁華街では 多くの日本人が スリ 置き引き
     ニセ警官などの犯罪被害にあっています。
       十分に注意してください。』 と
ガイドが注意をしていたが。

   チェコの治安状態は 日本よりは悪く犯罪発生率は高く
    
 日本からも年間13万人ほどが訪れており 
            被害にあう日本人は多いとか。

  かつてトルコツアーに参加した時に ツアーの一人がスリの被害に
      あったのを
見ている。 

   因みに 日本と違って ヨーロッパ諸国は 救急車は有料だそうだ。

  そういえば 日本の救急車の出動状況が先日ニュースになっていたが
  「虫歯が痛い」「水虫がかゆい」「爪を切りすぎた」などの軽症でも
       出動要請があるとか 信じられません。 
            やはり有料化すべきですね!

 

 


中欧旅行(73) チャスフラフスカ

2012-05-14 | 中欧5カ国紀行

     

 

  「プラハの春」で忘れてはならないのが 「チャスラフスカ」という人
    といっても どなたか お分かりになる方は 少なくなっている。

  1964(昭39)年 東京オリンピックで チェコスロバキアの女子体操の
     人気の選手だった。

  東京オリンピックの特集号を引っ張り出して あらためてページを
    捲って見ると
 平均台 跳馬そして個人総合の金メダルに
      団体でも銀メダルを獲得していた。
       優美な演技は
 「オリンピックの名花」「体操の名花」ともある。
 
  後に 1968(昭43)年のチェコスロバキアの「プラハの春」の支持を
   表明して
 「二千語宣言」に署名したため 
     その年開催のメキシコオリンピックへの
参加が危ぶまれたが
      本番では 抗議の意を示すため濃紺のレオタードで
       出場したり
 授章式でも抗議の意思表示などしている。

  また 競技では 政治的事情が絡んで微妙な判定等がある中で
    跳馬 段違い平行棒 床
とまたも個人総合で金メダルを
     そして 平均台と団体種目で銀メダルをと

        女子体操の6種目すべてに メダルを獲得している。

  その後も 「二千語宣言」への署名撤回を拒否し続けたので
    苦境にあったようだ。


  しかし 1989(平元)年のビロード革命によって 
    ハベル大統領ののアドバイザーや

      チェコ・日本協会の名誉総裁にも就任し
       1992(平4)年4月には大統領が
 
        国賓として来日の際 随行して来ている。

  大統領府を辞した後には、チェコオリンピック委員会の総裁も
   勤めたりして
  これらの功績により 2010(平22)年秋の叙勲で
     日本の「旭日中綬章」を受章している。

      そのときのニュースを見たが 当時とは違がって 
         大分“風格や威厳“が加わったように見受けたが。


  


中欧旅行(72) プラハの春

2012-05-13 | 中欧5カ国紀行

  

             ”戦車に占領されたヴァーツラフ広場”の資料により プラハ城内でのガイドの説明


  
1918年に独立したチェコスロバキア共和国は 
    その後 ヒトラーにより解体するが
 
      第2次世界大戦後 社会主義の国となった。

  60年代に入り 共産党一党支配の政治経済体制への批判が高まり
    自由な社会を
目指す改革運動がおきた。
      この民主化と自由化への1968年の春から夏にかけての

         動きを「プラハの春」という。

  新任のドプチェク党第一書記の下に 一連の自由化政策がとられた
    民主化運動だが
 6月になるとソ連の軍事介入が始まったが
     市民たちは
 「二千語宣言」を発表して民主化への支持を表明した。
  8月20日深夜 突然 ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が侵攻し
    チェコスロバキア全土を占領され 
      “プラハの春”は一瞬にして消えてしまった。

          これを「チェコ事件」という。

  その時の 生々しい資料を見せながら ガイドはプラハ城内で
    一連の事件を説明してくれた。

  
      帰国後 あらためて 保存している 当時の新聞を読み返して見る。

     *追 次に「春」が訪れたのは 21年後の1989年だった。
     ソ連の東欧諸国に対する指導制を放棄したことにより
      
 学生と多くのインテリ層が中心となって 流血を招くことなく 
         権力の委譲があり ビロードのような滑らかさで
          改革を進められたので
      
     「ビロード革命(無血革命)」と呼ばれている。

 


中欧旅行(71) ヴァツラーフ広場2

2012-05-12 | 中欧5カ国紀行

               車窓から見る ヴァーツラフ像とヴァーツラフ広場


   昨夜は 逆方向から 見たが 
    翌々日の朝 移動のバス 国立博物館側から見た
     チェコの歴史の現場ともいうべき ヴァーツラフ広場
       中央に立つ騎馬像は チェコの守護聖人・ヴァーツラフ像。

    1918年 チェコのハプスブルグ家からの独立宣言が
     この像の前で読み上げられ
 その後、ナチス軍の占領を経て
       旧ソ連の事実上の支配下に置かれた。


   1968年 ドブチェク大統領らが ソ連の従属から
     民主化路線への脱却を図った「プラハの春」では
       この広場が公開討論の場になったが
         しかし ソ連軍(ワルシャワ機構軍)の戦車が
           この広場を埋め尽くしてしまった。
 

   その時から43年が経ったが 焼身自殺を図って
     死をもって抗議した 学生ヤン・バラフの慰霊碑も
       ヴァーツラフ像の傍らにある。

   1989年 20数年の時を経て 共産主義体制崩壊の流れに乗って
    チェコでは 非暴力によって遂行された「ビロード革命」が達成され
       ハヴェル大統領は 数万人の市民が集まったこの広場で、
          ”チェコの解放”を宣言している。


   

  


中欧旅行(70) ヴァーツラフ広場

2012-05-11 | 中欧5カ国紀行

 

   自由時間になったので 先ほど プラハ城で
    現地ガイドが 説明してくれた 「プラハの春」 の舞台となった
      「ヴァ-ツラフ広場」へ行って見たいと思い 
       旧市街広場から 狭い路地を抜けて行くと
               突然 目の前が開かれ道路に出た。

         ここが「ヴァ-ツラフ広場」だ。

   広場といえども 幅60m 長さ750mもあり 中央に緑地帯のある
        道路で
 少々坂道になっている。
      「プラハのシャンゼリゼ」とも呼ばれ 
              プラハ随一のショッピング街であるので
   両脇には クリスマス飾りが輝き ホテル 銀行 デパート
        レストランなどが建ち並ぶ。

      突き当たりに見える重厚な建物は 国立博物館

   その前には 広場の名の由来となっている 聖ヴァ-ツラフという
         9世紀の
王様の像も小さく見える。

   1989年11月のビロード革命の時も 何十万人もの市民が
        この広場に集まったそうだ。

    時代の変化と社会の革命を見てきている広場だ。

 

 


中欧旅行(69) ミクラーシュ教会

2012-05-10 | 中欧5カ国紀行

 

 

 

 

    聖ミクラーシュ教会は
       旧市街広場とプラハ城側のマラーストラナ広場の2箇所にあり

          どちらも18世紀にバロック様式に建て替えられている。

    こちらは 旧市街に建っている聖ミクラーシュ教会で
    旧市街広場の北面にある。
    
  ティーン教会とは 対角にあたるところに位置している。

  白壁とエメラルドグリーンの屋根 正面はバロック様式の華麗な
    姿を誇っている。

   内部も 聖ミクラーシュの生涯などを題材にした天井画や 
    バロック様式の彫刻が配されているとのこと。

     同じ旧市街広場にあって ティーン聖母教会に知名度で負けているが
       当方は こちらの教会のほうが 優しさを感じたが


中欧旅行(68) ティーン教会

2012-05-09 | 中欧5カ国紀行

                   正面がティーン教会 左は旧市庁舎・からくり時計

 

   旧市街広場はクリスマスの後だが 市が立ち 混雑している。
     その一角に 15世紀前半に フス派の拠点になった
     「ティーン聖母教会」がある。

   この場所で フスやルター派のトマス・ミュンツァー(1489~1525)など
     宗教改革者が
説教をしている。

    「ティーン」は「税関」の意味だが 教会の裏手に税関があったので
    「ティーンの前の聖母マリア教会」と呼ばれたのが始まり。

    この広場を中心に、商いをする外国商人たちが宿泊する施設の
    付属の」教会だった。

         建造されたときはロマネスク式で 
       1365年に現在のゴシック様式に改築された。

      プラハは「百塔の都」といわれるほど数多の塔があるが
     対岸のプラハ城からの遠望でも
  ティーン教会の塔は
       良く見える。

       金の飾りを持つ2本の塔の高さは、80mあり
           塔の4隅には、さらに4つの尖塔がある。
        
  


中欧旅行(67) からくり時計

2012-05-08 | 中欧5カ国紀行

 

     後わずかで午後5時を指そうとしている。
   塔の下部の天文時計をお目当てに 観光客が群れている。
   1410年に造られたもので世界最古の天文時計だ。
     (1948年からは電動により動いている。)
   
   上盤は 地球を中心に太陽が回る天動説に基づいて造られ
     年月日 時間 日の出
 日の入り 月の出 月の入りを示しながら 
      1年かけて1周する仕組みの「プラネタリウム」と呼ばれるもの。

     
    両脇の4つの彫像は 骸骨=死神 楽器を持った男=煩悩
      鐘の青年=虚栄 
 金袋を持った男=欲 を表している。

   
   下盤は 旧市街の紋章を真ん中にして周りを星座が
    更に12か月のボヘミアの農民生活で表している絵が
      取り囲む暦で、1日に1目盛り動く「カレンダリウム」。


    午後5時になった。 仕掛けが動き出す 

   盤の両横にある4つの彫像が動き出し 死神が鳴らす鐘にあわせて
    上の二つの小窓に
 12使徒が順次現れる。
      最後に盤の上の鶏が鳴いて 鐘が時刻を告げ 終了。
 

    この間1分足らずだった。 このようなショーに
       数百の人々が時計を見上げている。 

          どこへ行っても「からくり時計」は 人気がありますね!

    正面の尖塔は  この天文時計には伝説があり
     1490年に「奇蹟の器械」を修繕した 技師ハヌシュの技術は
       確実に時を刻む時計が素晴らしかったので、
         プラハの人々の賞賛を浴び それが政治家に妬まれ
           
ある夜 暴漢に襲われ 目をつぶされた。
      それでも 彼は時計の管理を続けたが 彼の死と同時に
       仕掛け時計は止まってしまったと。


中欧旅行(66) カレル橋門塔

2012-05-07 | 中欧5カ国紀行

          旧市街側の橋門塔


   橋の両端 小地区側と旧市街側に橋門塔が建っている。
 
   旧市街側の橋門塔は 1380年聖ヴィート大聖堂を建てた
     建築家ペトル・パルレーシュにより建造されたという。

   橋門塔にはいくつかの役割があって 通行料の徴収 橋の見張り
     特に、要塞としての役割が重要であった。
       かつては鉄格子の遮断扉があり 
         1648年のスウェーデン軍との戦いでは

           この扉が閉められ 町が守られている。

    幾つかの戦いで、損傷がひどかったが 修復を重ねて
       ゴシック様式の
門塔として今日まできている。


中欧旅行(65) カレル橋2

2012-05-06 | 中欧5カ国紀行

    カレル橋の中ほどからプラハ城を望む 立像は聖ヤン・ネポムッキー

 

          

         カレル橋の両側の欄干には30体の聖人や歴史上の
           人物の彫刻が並んでおり
 「野外美術館」ともいわれる。

        聖人像は17~19世紀にかけて造られているので
           バロック様式のものが多い。 

        ほとんどが18世紀の制作だが 最初に造られたのは
          キリストの十字架像の「カルヴァリ」(1629年作)。

        この場所は 橋の完成直後には十字架が建っていたが
           公開の処刑が行われたからだという。
   
       首を切られる運命の人間が 死の前に十字架に跪いて

     最後の祈りを捧げた場所とのこと

    現在の平和な世には あり得ない事実が刻まれていますね。

 

 


山菜天ぷら

2012-05-05 | 出来事・行事

  

   

    せっかくの連休なのに 4日の天候がすぐれない 

     桜咲く北地方の行楽地は大雨 さぞかし残念なことに!

       当方も 「山菜とり」をと思っていたが 断念してしまった。

         しかし 現地から 初夏の山菜 ”こごみ”  

                    地元からは”うどの芽” が届けられる。

           早速 「天ぷら」にして 食す。 

               ”アク”がなく これが美味!であった。

  


中欧旅行(64) カレル橋

2012-05-04 | 中欧5カ国紀行

  
  プラハ城から下り カレル橋へ
     カレル橋は ヴルタヴァ川(ドイツ語でモルダウ)に架かり
    1402年に建造された。

     プラハ最古のアーチ型石橋で 幅9.5m 長さ516m 橋脚17本

  建造の当初は 木造で川の氾濫により しばしば流失したり破壊されたが
   12世紀になって チェコ王ヴラジスラフ1世により 石橋となった。
    王の2番目の妃の名に因んで「ユディタ橋」という名前がついていたが
      その後も洪水で壊れてしまった。

  1357年 カレル4世時代の命により 旧市街側に礎石を置き
    本格的な新しい橋
となった。
     そして500年間は ヴルタヴァ川の両岸を結ぶ唯一の道に。

      「王の道」の一部分として 歴代の王の戴冠式などの行列も渡っている。

   現在は 中世建築の大傑作として 観光のスポットにもなり
      プラハ市民の誇りもなっている。

   我々が訪れた時は 夕暮れが迫るなか
     観光客で橋の上とは思えないほどの人出

       両側には 露天店 似顔書き 楽器演奏 
         大道芸人などがパフォーマンスを
繰り広げていた。

     2002年8月には 今までにはなかった大洪水に見舞われ
       橋そのものには被害はなかったが
         橋下にある家はその被害にあい

            壁には水位が刻まれているとのこと。

 

              カルル橋下の チェルトフカ水路


中欧旅行(63) 二人づれ

2012-05-03 | 中欧5カ国紀行

 

    プラハ市内で見かけた “二人づれ

     どちらもご夫婦のようだ
  これを見て 家人から 

       『見習いなさいよ。! あなたには こういうことがなく

          サッサット いつも どこかにいってしまう・・・ 』


        と 小言めいたことを言われてしまった。
 

    これからの人生 反省を含め 気をつけましょう・・・  


スズメ蜂の巣

2012-05-02 | 出来事・行事

 

  

  我が家の庭 猫の額ほどだが 庭木の剪定は 職人に任せていた。

   しかし 当人ケガをして 来られないとういうことで 
 
    当方 ”俄かじたて庭師”として 剪定を
していたところ

      「コガタスズメ蜂の巣」を発見!

   刺されては大変と 一瞬ひるんだが 巣には既に蜂は居らず

     一安心 当方 過去に ”アシナガ蜂”に左手を刺され
      
              腕がポパイ
の腕のように腫れ上がり 病院に駆け込んだ

         ことがあるので 大きい蜂を見ると 震れ上がってしまう。

   巣の大きさは 約27cmほどあり 中は5層になっている。

     この大きさだと 蜂の数は相当のものだったようだが

       これまで こんなところに巣があるとは 誰も気がつかなかった

         それこそ 蜂がいたら 大変なことになっていたことだろう・・・