古くからイスラム圏で使われてきているが
膨大な手間を要する職人技術であることから
きちんと継承されているのは
この国の人の気質から モロッコだけだそうだ。
イスラム教では 偶像崇拝が禁止されていることから
モスク内部を モザイクタイルで幾何学模様に飾り
宗教的空間を演出することにより 神の存在を実感し
次第にそのデザインは 精細複雑になって
芸術的な装飾になってきたのではないかという。
その作品は 王宮 モスク リヤドなどの
伝統的な建物に
身近には 街角の水飲み場にも見られた。
古くからイスラム圏で使われてきているが
膨大な手間を要する職人技術であることから
きちんと継承されているのは
この国の人の気質から モロッコだけだそうだ。
イスラム教では 偶像崇拝が禁止されていることから
モスク内部を モザイクタイルで幾何学模様に飾り
宗教的空間を演出することにより 神の存在を実感し
次第にそのデザインは 精細複雑になって
芸術的な装飾になってきたのではないかという。
その作品は 王宮 モスク リヤドなどの
伝統的な建物に
身近には 街角の水飲み場にも見られた。
直接 メディナに向かうのかと思ったら
新しい街にある陶器工房に案内される。
陶器の製作過程も見学でき
直接売店で安く買い物もできる。
フェズの陶器は 土産品として人気が高く
特に独特の濃い群青色の模様の陶器は
「フェイズ・ブルー」として有名。
工場内に入ると
"ロクロ"を足でけって回し
タジン鍋をつくる伝統工芸職人。
これは やって見せただけで
工程が終わると 即壊してしまった。
絵付けの部屋では女性が
細かい柄を 筆で巧みに描いている。
素焼きが終わった製品に
釉薬(ゆうやく)をかけることを
施釉(せゆう)という。
いろいろと製作の工程を見せられたが
いずれも精細で職人技を必要としているので
根気と経験の世界のようだ。
我が家には 絵皿とマグカップを土産とした。
王宮から 南の丘ボルジュショッドの砦のある高台
フェズの街が一望できる要塞に案内された。
小高い丘の上からゆるやかな斜面にかけて
密集して家々が広がっている。
8世紀末から9世紀初めに興ったと伝えられ
モロッコで一番歴史のあるこの古都は
その後 幾度かの王朝の興亡が繰り返され
そのたびに 新しい街がつくられて
1000年以上も経て 今も生活が営まれている。
フェズの街は
旧市街(メディナ)のフェズ・エル・バリと
フェズ・エル・ジェディド
そして 新市街 の3つの地区に分けられる。
俯瞰したフェズの街を頭に入れ
いよいよ中世のアラビアへワープだ。
王宮の正門のすぐ隣に
ユダヤ人街(メラー)があった。
車窓からの眺めになったが
石造りの建物の1階が店舗
2・3階が木造のテラスや窓枠の住居が
統一的に軒を並べているのが特徴のようだ。
14世紀に キリスト教徒による
レコンキスタ(国土回復運動)が始まると
イベリア半島(スペイン・ポルトガル)から
逃れたユダヤ人がモロッコの各地に移り住み
ユダヤ人街を形成し その一つがここで
塩の取引等で財産を得て
国王に多くの寄付をして保護されていた。
そのためかユダヤ人街は
王宮の近くにある。
しかし イスラエルが建国されると
大方のユダヤ人はここを去ったという。
現在ここには多くは残っていないが
在住のユダヤ人は
モロッコとイスラエルの
両方の国籍を持っているという。
ツアー4日目 フェズ一番目の見学は
フェズ・エル・ジュディド
(新フェズと言う意味)地区にある「王宮」
かつては スルタンと呼ばれる国王が住んでいたが
現在は 現 国王がフェズ滞在の時に
ここが使用され 中央の扉から出入りするそうだ。
ということで
広大な敷地は 厳重に守られており
観光は 入場できず
この銅製の門の見学だけとなり 記念撮影です。
しかし この門は 金箔で彩られ彫刻され
幾何学的に彩られたタイルも
イスラム文化の象徴し見事です。
ユダヤ人に一番好まれる色は
ブルーとのことで 多く使用されており
当然 ダビデの星は ブルーになっている。
ようやく 3日目の宿泊先
フェズの中心部にある
ホテル「RAMADA」に
陽が落ちたころ到着。
今夜と明日の連泊を予定している。
世界に展開しているホテルチエーンの
このホテルは 2004年にオープンし
2008年に 全面的に改装されて
部屋数は 130室 5ツ星だ。
我々の部屋は 白と茶に統一されて
落ち着いた雰囲気があって くつろぎ
旅の疲れを 癒してくれている。
1月10日 思想家・政治家・教育者で
早稲田大学の創設者
大隈重信 が亡くなっている。
1838(天保9)年―1922(大正11)年 享年78歳
肥前国佐賀藩の藩士の子として誕生する。
7歳で藩校弘道館に入学するが 教育方針に反発し
のちに 改革運動を起こした。
また 国学 蘭学を熱心に学び
蘭学に関しては 後に教授となり
藩校弘道館で講義したほか
藩校英学塾で英語やアメリカの
文物・思想を学んでいる。
海外の思想・文化・教育に精通し
さらに語学にも堪能であったことから
明治政府が誕生すると外国事務局判事として
対外諸問題を担当したのをきっかけに
1873(明治6)年 参議兼大蔵卿の要職に
就くなど 政府の中枢で活躍した。
しかし 国家構想を巡り 財政上の問題や
閣僚との対立が原因で
明治14年の政変で下野する。
その後 1882(明治15)年に
政党(立憲改進党)を結成し
また同年に「学門の独立」の精神を基として
東京専門学校(早稲田学校と別称された)を創設する。
1888(明治21)年には 政府の求めに応じて
外務大臣として政界に復帰した。
後に 総理大臣(第8代・第17代)となり
1916年(大正5)年 総理大臣 辞任によって
政治の世界を退いた。
この銅像は 杖をついている姿だが
1889(明治22)年に 暴漢に襲われ
爆発物を投げつけられ 右足を切断した。
雉子橋邸跡(千代田区役所前の碑)
途中の町でカフェをみる。
この後も モロッコはどこに行っても カフェがあった。
そして必ず 表通りに面した軒先の椅子には
のんびりとした男性ばかりが座り 女性の姿はない。
女性は 忙しそうに横目で見ながら通り過ぎていく。
この国 女性は 宗教上の理由で カフェでの
長時間滞在が 禁じられているそうだ。
しかし テイクアウトは できるとのこと。
どおりで 何処へ行っても 男性ばかりなのだ。
何を飲んでいるのか ガイドに聞けば
モロッコのお茶といえば「ミントティー」だそうで
レストランやカフェ
また 家庭に招かれたときには必ず出され
コーヒーよりも 安価で親しまれ
国民的な飲み物になっている。
入れ方は 中国緑茶を
ミントティーポットで弱火ぐつぐつと沸かし
その中に 生のミントの葉と棒砂糖を
ドサッと入れ かき混ぜて出来上がり。
そして ミントティーグラスに
高い位置から 泡立てながら 注ぎ出される。
緑茶に慣れている日本人にとっては
甘すぎ また 茶漉しを使わないので
ミントの葉や茎が 引っかかり
少々飲みにくいようだ。
1月8日 中華人民共和国の政治家
周恩来 が亡くなっている。
(1898-1976年 享年77歳)
中華人民共和国が 建国された1949年以来
死去するまで 一貫して
政務院総理・国務院総理(主首)を務めた。
毛沢東の信任を繋ぎとめ 文化大革命中も
失脚しなかったことなどから
「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。
日本とのかかわりでは
周恩来が1917(大正6)年 19歳のとき
来日し日本語を学んだ学校が
千代田区の神保町愛全公園内にある。
日中平和友好条約の締結20周年
ならびに周恩来生誕100周年を記念として
「周恩来ここに学ぶ 東亞高等予備学校跡」の
記念碑が建てられている。
東亜高等予備学校は
日本の学校に進学を希望する
中国人留学生が学んだ私設の学校だった。
また 1972年に 日本国首相の田中角栄(当時)と
日中共同声明に調印したことでも知られている。
シャウエンの見学を終え
ツアーバスは225km先の「フエズ」へ
リフ山脈を越えて向かう。
途中の町で「BRIDGESTONE」のタイヤ販売店をみる。
モロッコでは 2011年にブリジストンの子会社
「ブリヂストンタイヤ セールス
モロッコ エスエーアールエルエーユー」が
営業を開始している。
モロッコは 豊富なリン鉱石をはじめとする
鉱物資源や農産物などの輸出が
EU・米国などとの間で自由貿易協定を
締結したことにより貿易が伸びており
また 北アフリカにおける物流のハブ拠点として
地中海沿岸のインフラ整備をすすめていることから
ブリジストンは モロッコを今後大きな経済成長が
期待できる重要な地域と捉えているという。
日本車の販売とともに大いに期待したいものだ。
我々のツアーバスのタイヤをみたところ
残念ながら「MICHELIN」であった。
シャウエンでの昼食は
モロッコ料理チキンのタジンでした。
「タジン」正確には
タジン鍋で作った料理のことをいう。
モロッコは 砂漠地帯のため
昔から水がとても貴重ため
わずかな水分で美味しく調理するために
考え出された調理法だ。
タジンの材料には
イスラム圏なので 豚肉は使わず
牛 羊 時にはその挽肉(ケフタという料理)があり
野菜は 玉ねぎ 人参 ナス ズッキーニ パプリカ等が入り
組み合わせで バリエーションも豊富になる。
タジン鍋は 一日 朝昼晩の3回
一般家庭の食卓に乗るそうだ。
しかし 当方 モロッコでの食事
味付けがシンプルで 少々パッとしなかった。
食材は 新鮮で豊富なのだが
暑い土地柄ながら
インドのように辛いものがなく
全体的に味付けが薄く
物足りなさを感じたが・・・。
日本での いろいろな調理法や
各種調味料を使う文化が
少々ないように思われる。
先の話題「王室」でも触れたが
王様が来日して
出された料理の味付け等に魅了され
わざわざ 日本から調理人を
呼びよせていることも頷けます。
路地を行くうち 壁に四角に囲んだ ”枠”
その中に 数字が順番に振られ
イラストも描かれている。
何だろうと思い ガイドに聞いたら
“選挙用ポスター” を貼るためにあるという。
なるほど「公正を表す秤」が描かれている。
納得!
日本のように 選挙のたびごとに
立て看板を設置するよりは
費用も掛からず 経済的な方法だ。
因みに 我々がモロッコに到着した日の2日前
モロッコでは 総選挙が実施されていた。
下院(395議席)の選挙が実施され
連立与党で ベンキラン首相率いる
イスラム穏健派の正義発展党(PJD)が
125議席を獲得し勝利し 第1党を維持した。
投票率は43%だったという。
モロッコでは
2011年の中東民主化運動
「アラブの春」の影響を受け
国王権限を縮小し議会権限を
強化する憲法改正が行われ
首相は下院の最大政党の議員から
任命されるようになったが
治安権限など多くの実権は
国王が握っているそうだ。
明けまして おめでとうございます
2017年 平成29年の 年明け
“ 健 康 第 一 ”
一日一日を大切にと
心 新たにしております。
今後とも よろしく お願い申し上げます。