有名な数学ジョークがあって、曰く、「すべての奇数は素数である」。
←結局、何の話だったんだ!?
----
工学者は次のようにして「すべての3以上の奇数が素数である」ことを証明する。
3は素数である。
5は素数である。
7は素数である。
9は素数ではない。しかしこれは例外である。
なぜならその後に続く11も13も素数ではないか。
以上より「すべての3以上の奇数が素数である」ことが示せた。
----「役に立たない数学用語事典」より
これは、演繹的であることを好む数学者が、なんでもかんでも帰納的に論じようとする工学者を揶揄するジョークだそうだ。
別に、工学者の頭が悪いのではなくて、フィールドの性質が違うだけなんだけど。
ちなみに、この「役に立たない数学用語事典」では、「演繹法」「帰納法」についても、たいへんわかりやすくまとめられている(いやぁ、けっこう役に立つんじゃないですか?)。
ということで、数学というフィールドにおいては、「あらゆる定理や法則は、なんらかの公理からスタートして演繹的に証明されなければならない」というお作法に基づいて話が進められるので、演繹的に作られたユークリッド幾何学は2000年以上経ってもゆらぐことがないし、一方、帰納的に作られたニュートン力学は、すごくうまくいってるように見えたのに、「20世紀初頭に発見された反例によりその根底を揺るがされることになった。」(ニュートン力学が役に立たなくなったという意味ではないですが)
数学的研究における「勝負どころ」は、その演繹的な道筋であり、
工学的研究における「勝負どころ」は、その帰納的結論の元となったデータの真正性である。
ケプラーさんが、無事「ケプラーの法則」を導き出せたのも、そしてさらには万有引力発見につながったのも、ティコ・ブラーエさんが天体の動きを観察して残したデータが、膨大かつ精密であったおかげですね。
そういう観点でいえば、フェルマさんは、ちとひどい:
「余白がないので書けない」(同じく、「役に立たない数学用語事典」より)
ほんと、紙ぐらいいくらでもあげるから書いといてよ!! である。その後、三百何十年もひっぱって…でも、それで決着がついたってのはすごいことですね。真なのか偽なのかどちらの証明もできないまま、世界を江戸時代レベルの期間ずっとひっぱれる着眼点を思いつくこと自体はすごい。
数学者さんからいえば、演繹的なほうが帰納的なのよりエライというのは当たり前なことかもしれないけれど、フィールドが違えばそうともいえないわけで。
先日、話題にした「メカニズム派の呪縛(SIDSの例より)」なんかでいうと、むしろ帰納的(エビデンスベース)のほうが、演繹的(この成分はこういう働きがあるからこうなる、みたいな)より科学的といえるって話になってくる。
これは、演繹とかなんとかいっても、人間の体の働きとかを、数学でいう演繹と同じ精度でできるわけがないから、当たり前っちゃ当たり前なんだろうけれども。
「帰納的」のやっかいなところは、迷信・呪術レベルの「経験者は語る」的ないい加減さと、すぐ地続きになってしまいやすいところ。もちろん、「科学」であるためにはいろんな手法があって、どのくらいの「数」があればどのくらい確かといえるのか、そもそもサンプルを選ぶにはどんなルールが必要なのか、とか、そういうノウハウがあって、科学と「えせ科学」を峻別している、はずなんだけれど…
そこに、人間の妙な意図がからむと、データの真正性なんてものは、外部の人からは見えなくなってしまうので、たとえば、製薬会社の息のかかった人を送り込んで、この人はかくかくしかじかなのでデータから除外、なんて、都合の悪いデータを省いたりしていけば、形のうえでは正しく科学的手法を使っているようであっても、非科学の結論は出せてしまう。
そういう非科学の結論を出すときに、論文の表面上がきれいに作られていれば、それを読んだだけでは嘘を見破ることなどできないかもしれない。でも、いつか別の人が同じ実験あるいは疫学的調査をしたときに、同じ結論に至らず、おかしいということになる。たとえば、安全といわれたはずの薬や予防接種が安全でなかったり。そのとき、元の論文に戻って、インチキがばれれば、それはもう気まずいことになってしまうわけだ。
嘘のデータを使って表面上きれいな論文を作ることと、論文上を精査するだけでもおかしいとわかる間違いがあることは、かなり違うレベルの話だと思うんだけどなぁ…なんか釈然としない今回の騒動。研究ノートが2冊しかない、とかをつっこまれているのを見て、ちょっとだいぶ違うけど「余白がないので書けない」を思い出した私。論文がちゃんとしてなくても、いろいろ別の人が試しまくった結果、根っこのネタがまともだったりしたら、なんていうロマンをつい持ってしまう人が多いあたりが、「女子力」のなせるわざなのか…ということを、昨日、「あれは女子力のイベントだった」を読みながら思った。
(ところで、上記では「えせ科学」を、科学的手法にのっとっていないもののこと、「非科学」は科学的手法にのっとり嘘データから嘘を導くこと、という意味で使っています。「えせ科学」って、結論は大嘘であっても、悪意がまったくなかったりするところが、別次元でやっかいだよなぁと思ったり)
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工学者は次のようにして「すべての3以上の奇数が素数である」ことを証明する。
3は素数である。
5は素数である。
7は素数である。
9は素数ではない。しかしこれは例外である。
なぜならその後に続く11も13も素数ではないか。
以上より「すべての3以上の奇数が素数である」ことが示せた。
----「役に立たない数学用語事典」より
これは、演繹的であることを好む数学者が、なんでもかんでも帰納的に論じようとする工学者を揶揄するジョークだそうだ。
別に、工学者の頭が悪いのではなくて、フィールドの性質が違うだけなんだけど。
ちなみに、この「役に立たない数学用語事典」では、「演繹法」「帰納法」についても、たいへんわかりやすくまとめられている(いやぁ、けっこう役に立つんじゃないですか?)。
ということで、数学というフィールドにおいては、「あらゆる定理や法則は、なんらかの公理からスタートして演繹的に証明されなければならない」というお作法に基づいて話が進められるので、演繹的に作られたユークリッド幾何学は2000年以上経ってもゆらぐことがないし、一方、帰納的に作られたニュートン力学は、すごくうまくいってるように見えたのに、「20世紀初頭に発見された反例によりその根底を揺るがされることになった。」(ニュートン力学が役に立たなくなったという意味ではないですが)
数学的研究における「勝負どころ」は、その演繹的な道筋であり、
工学的研究における「勝負どころ」は、その帰納的結論の元となったデータの真正性である。
ケプラーさんが、無事「ケプラーの法則」を導き出せたのも、そしてさらには万有引力発見につながったのも、ティコ・ブラーエさんが天体の動きを観察して残したデータが、膨大かつ精密であったおかげですね。
そういう観点でいえば、フェルマさんは、ちとひどい:
「余白がないので書けない」(同じく、「役に立たない数学用語事典」より)
ほんと、紙ぐらいいくらでもあげるから書いといてよ!! である。その後、三百何十年もひっぱって…でも、それで決着がついたってのはすごいことですね。真なのか偽なのかどちらの証明もできないまま、世界を江戸時代レベルの期間ずっとひっぱれる着眼点を思いつくこと自体はすごい。
数学者さんからいえば、演繹的なほうが帰納的なのよりエライというのは当たり前なことかもしれないけれど、フィールドが違えばそうともいえないわけで。
先日、話題にした「メカニズム派の呪縛(SIDSの例より)」なんかでいうと、むしろ帰納的(エビデンスベース)のほうが、演繹的(この成分はこういう働きがあるからこうなる、みたいな)より科学的といえるって話になってくる。
これは、演繹とかなんとかいっても、人間の体の働きとかを、数学でいう演繹と同じ精度でできるわけがないから、当たり前っちゃ当たり前なんだろうけれども。
「帰納的」のやっかいなところは、迷信・呪術レベルの「経験者は語る」的ないい加減さと、すぐ地続きになってしまいやすいところ。もちろん、「科学」であるためにはいろんな手法があって、どのくらいの「数」があればどのくらい確かといえるのか、そもそもサンプルを選ぶにはどんなルールが必要なのか、とか、そういうノウハウがあって、科学と「えせ科学」を峻別している、はずなんだけれど…
そこに、人間の妙な意図がからむと、データの真正性なんてものは、外部の人からは見えなくなってしまうので、たとえば、製薬会社の息のかかった人を送り込んで、この人はかくかくしかじかなのでデータから除外、なんて、都合の悪いデータを省いたりしていけば、形のうえでは正しく科学的手法を使っているようであっても、非科学の結論は出せてしまう。
そういう非科学の結論を出すときに、論文の表面上がきれいに作られていれば、それを読んだだけでは嘘を見破ることなどできないかもしれない。でも、いつか別の人が同じ実験あるいは疫学的調査をしたときに、同じ結論に至らず、おかしいということになる。たとえば、安全といわれたはずの薬や予防接種が安全でなかったり。そのとき、元の論文に戻って、インチキがばれれば、それはもう気まずいことになってしまうわけだ。
嘘のデータを使って表面上きれいな論文を作ることと、論文上を精査するだけでもおかしいとわかる間違いがあることは、かなり違うレベルの話だと思うんだけどなぁ…なんか釈然としない今回の騒動。研究ノートが2冊しかない、とかをつっこまれているのを見て、ちょっとだいぶ違うけど「余白がないので書けない」を思い出した私。論文がちゃんとしてなくても、いろいろ別の人が試しまくった結果、根っこのネタがまともだったりしたら、なんていうロマンをつい持ってしまう人が多いあたりが、「女子力」のなせるわざなのか…ということを、昨日、「あれは女子力のイベントだった」を読みながら思った。
(ところで、上記では「えせ科学」を、科学的手法にのっとっていないもののこと、「非科学」は科学的手法にのっとり嘘データから嘘を導くこと、という意味で使っています。「えせ科学」って、結論は大嘘であっても、悪意がまったくなかったりするところが、別次元でやっかいだよなぁと思ったり)
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