内藤先生のYoutubeチャンネルを見たら、読書案内シリーズが始まってました。「読書会」についての問い合わせがあるとかで
←電車乗らないので読書は進みません
内藤晃の読書案内(1)モーツァルト
第一回はモーツァルト。
モーツァルトの手紙 (日本語) 単行本
そういや、のだめがお城でのリサイタル前日に、執事さんが貸してくれたモーツァルト書簡集を読んでいる(千秋に読み聞かせしてもらっている)とき、下ネタにウケまくってたところがありましたね(のだめ15巻)…モーツァルトさん、おちゃらけた文章を書きますけど、お父さんには(元々、お父さんに音楽習ったわけなので)音楽活動の報告を事細かに書き送っていたようです。
作曲家本人が書いたもの(手紙など)、家族、弟子、友人など近しい人が書いたものを読んでいくと、作曲家の人となりがわかるだけでなく、ある曲を作曲した状況や、意図などが書かれている場合もあるわけで、それは知らないより知ってるほうがピアノを弾くのにもいいだろう…と、
ピアニストとして(あるいはピアノの先生として)納得のセレクトの本といえましょう。
この動画がアップされたのは昨日ですけど…
同じく昨日、artomr先生と私が交わしていたLINEはなぜだかちょうどこちらも読書案内(?)でございました。
artomr先生「最近面倒くさい本読んでて」
私「いつもめんどくさい本読んでるんでは」
先生「…それ。」
その、めんどくさい本てのはコレ: 「芸術作品の根源」(マルティン・ハイデッガー)
--- 先生曰く
まさに芸術を鑑賞する人と創作する人どちらも作品を「見守る」ことが要求されている みたいなことが書いてるんですよね
この「見守る」ってのはハイデガーの用語で難解です 普通の意味じゃなさそう
ただ双方向性っていうんですかね 創作者や鑑賞者の一方的な方向性だけでは成り立たないもんなんだなぁというのはよくわかります
こういう風にある程度深く考える以外、言葉によって芸術を指し示す方法はないだろうなぁと最近思いました。
まぁ言葉で説明しなきゃいいわけなんですけど
体験の共有は直接的ですが 体験の共有まで持っていくために、どうしても 言葉はある程度必要な感じはするんですよね
--- (ここまで)
私はこの、LINEでは例外的な長広舌にどう突っ込んでいいかさっぱりわからないというか、何もハイデッガーじゃなくてもいいんじゃないか…
ちなみにこの話になる直前はこんなでした。

そもそも先生の関心事は、(シンプルにいえば)「クラシック音楽ってなんで決まったもんを何度も再現するのか?」という(かなり根源的な)疑問だったようで、
しかし、たとえば私とか、あまり物事を突き詰めて考えないタイプの生徒からいえば、
決まったもんを何度再現しても生身の人間が考えながら感じながら弾いてたらその都度なんか違うに決まってるし、
聞くほうも生身の人間でコンディションも気持ちもその都度違うわけで、
演奏から受け取るものはそのバリエーション無限大。
というふうに了解していて、それ以上の説明が必要だと思っていない。
(実数はそりゃ連続してるだろうしいちいちイプシロンデルタ論法持ち出して証明してくれなくていいわ、みたいな)
まぁ先生がよりよいレッスンできるように言葉を探しているのかなというのはなんとなくわかるんですがね。
という調子で、読書案内を聞いている限りではartomr先生と私が「先生と生徒」として相性いいかどうか甚だしく疑問なのですが、
(先日の「暗黙知の次元」もそうだけど)
でも私はartomr先生のレッスンすごくわかりやすいし実用レベルで役に立つと思うんですよね。
つまり先生はポランニーやハイデッガーやいろんなところからリクツや言葉を仕入れながら
結局は自分の中で咀嚼したのちいろいろ生徒に合わせて組み替えて…
レッスンのときの言葉を選んでいるんでしょうね。
でもハイデッガーの読書会に付き合ってくれる生徒は(あんまり)いない、と。
artomr先生がわざわざ「今日の文言は機会があればぜひブログでお使いください」といってくれたのでご紹介してますけど…これで生徒さん増えるでしょうか…
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第一回はモーツァルト。
モーツァルトの手紙 (日本語) 単行本
そういや、のだめがお城でのリサイタル前日に、執事さんが貸してくれたモーツァルト書簡集を読んでいる(千秋に読み聞かせしてもらっている)とき、下ネタにウケまくってたところがありましたね(のだめ15巻)…モーツァルトさん、おちゃらけた文章を書きますけど、お父さんには(元々、お父さんに音楽習ったわけなので)音楽活動の報告を事細かに書き送っていたようです。
作曲家本人が書いたもの(手紙など)、家族、弟子、友人など近しい人が書いたものを読んでいくと、作曲家の人となりがわかるだけでなく、ある曲を作曲した状況や、意図などが書かれている場合もあるわけで、それは知らないより知ってるほうがピアノを弾くのにもいいだろう…と、
ピアニストとして(あるいはピアノの先生として)納得のセレクトの本といえましょう。
この動画がアップされたのは昨日ですけど…
同じく昨日、artomr先生と私が交わしていたLINEはなぜだかちょうどこちらも読書案内(?)でございました。
artomr先生「最近面倒くさい本読んでて」
私「いつもめんどくさい本読んでるんでは」
先生「…それ。」
その、めんどくさい本てのはコレ: 「芸術作品の根源」(マルティン・ハイデッガー)
--- 先生曰く
まさに芸術を鑑賞する人と創作する人どちらも作品を「見守る」ことが要求されている みたいなことが書いてるんですよね
この「見守る」ってのはハイデガーの用語で難解です 普通の意味じゃなさそう
ただ双方向性っていうんですかね 創作者や鑑賞者の一方的な方向性だけでは成り立たないもんなんだなぁというのはよくわかります
こういう風にある程度深く考える以外、言葉によって芸術を指し示す方法はないだろうなぁと最近思いました。
まぁ言葉で説明しなきゃいいわけなんですけど
体験の共有は直接的ですが 体験の共有まで持っていくために、どうしても 言葉はある程度必要な感じはするんですよね
--- (ここまで)
私はこの、LINEでは例外的な長広舌にどう突っ込んでいいかさっぱりわからないというか、何もハイデッガーじゃなくてもいいんじゃないか…
ちなみにこの話になる直前はこんなでした。

そもそも先生の関心事は、(シンプルにいえば)「クラシック音楽ってなんで決まったもんを何度も再現するのか?」という(かなり根源的な)疑問だったようで、
しかし、たとえば私とか、あまり物事を突き詰めて考えないタイプの生徒からいえば、
決まったもんを何度再現しても生身の人間が考えながら感じながら弾いてたらその都度なんか違うに決まってるし、
聞くほうも生身の人間でコンディションも気持ちもその都度違うわけで、
演奏から受け取るものはそのバリエーション無限大。
というふうに了解していて、それ以上の説明が必要だと思っていない。
(実数はそりゃ連続してるだろうしいちいちイプシロンデルタ論法持ち出して証明してくれなくていいわ、みたいな)
まぁ先生がよりよいレッスンできるように言葉を探しているのかなというのはなんとなくわかるんですがね。
という調子で、読書案内を聞いている限りではartomr先生と私が「先生と生徒」として相性いいかどうか甚だしく疑問なのですが、
(先日の「暗黙知の次元」もそうだけど)
でも私はartomr先生のレッスンすごくわかりやすいし実用レベルで役に立つと思うんですよね。
つまり先生はポランニーやハイデッガーやいろんなところからリクツや言葉を仕入れながら
結局は自分の中で咀嚼したのちいろいろ生徒に合わせて組み替えて…
レッスンのときの言葉を選んでいるんでしょうね。
でもハイデッガーの読書会に付き合ってくれる生徒は(あんまり)いない、と。
artomr先生がわざわざ「今日の文言は機会があればぜひブログでお使いください」といってくれたのでご紹介してますけど…これで生徒さん増えるでしょうか…
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