あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

武蔵国分寺跡僧堂金堂・尼寺

2013年12月05日 05時09分46秒 | 歴史散歩
「天平13年(741)、聖武天皇は鎮護国家を祈念して、諸国に国分寺(僧寺【金光明四天王護国之寺】と尼寺【法華減罪之寺】)を建立するように命じました。武蔵国では国府(現府中市) 武蔵国府跡(2011年4月22日)の記事 に近く、都へ通じる東山道武蔵路沿いの広大な平地と東西に連なる国分寺崖線の麓、豊かな湧水をもつ現在の西元町一帯が好所として選ばれました。
国府とともに政治・文化の中心として栄えましたが、鎌倉時代末に分倍河原の戦いで焼失しました。
武蔵国分寺跡と関連する遺跡は、東西1、5キロ。南北1キロにおよび、諸国の国分寺跡と比べ規模が大きく、歴史的に指定されました。現在は、僧寺中枢地区の史跡整備を行っています。(国分寺の歴史と観光マップより)」
トップ画像は、昨日の記事最後に出て来た真言宗国分寺から南へ徒歩数分の所にある武蔵国分寺跡僧寺金堂跡です。
柱が乗っていた基盤の石しか残ってない。や。これだって、元からあったかわからない。
再現図解のある説明板発見:

金堂は本尊仏を安置する重要な建物です。現在は、基壇の高まりとともに19個の礎石が往時のまま残っていました。」
おおっ!この石は国分寺がこの地にあった頃に実際に使われてた石なのですね。それは凄いです。
「金堂は桁行7間(東西約36、1メートル)梁行4間(南北約16、6メートル)の四面庇建物です。
軒の出は、16~17尺と推定され、組み物を多用した大きな屋根がかかっていたと考えられます。

基壇
深さ1、3メートル程の彫り込み地業を伴う版築工法により積み上げられ、外装は河原石による乱石積です。規模は東西約45、4メートル。南北約26、2メートルを測り、外周には雨落石敷がめぐります。高さは北東部分で約95センチ。北面中央で約80センチ。東西で約125センチと場所により異なります。

礎石
本来は36個の礎石が存在していましたが、後世に持ち去られ、19個の礎石が残存しています。礎石は多摩川上流から運ばれたものと思われます。」
画像に写っている生徒達は、校外学習中の…中学生かな?校外学習は複数班に別れて実施中。
私の田舎にも母神山という古墳群があります。ンでもきちんと保存されてなく、あんまり学習には役立たない。ちゃんと遺跡調査発掘してなおかつ保存してる国分寺市は偉い。キミ達がどんなに恵まれてるか大人になり『我がふるさとの歴史』に興味が出た頃にたぶん気付くよ。
さて、金堂を見た後、どっちへ行けば…。
あ。校外学習の別の班が西伸びる道からやってきた。あっちに何かあるんだな。
行ってみた。
と。中学校の校舎の一角に、文化財資料展示室発見!
国分寺市文化財資料展示室は入館無料。(休館日:月曜・9:00-17:00)。
中学校内から出土した瓦・土器・鉄製品などが展示されています。ここからすぐの国分尼寺の整備事業を紹介する資料もある。

上の画像は、今から20年前の国分寺市の空撮写真に、天平の国分寺史跡を重ねたらかつての国分寺がとても大きかった事がわかります。ちなみに、上の画像の上部1/3程の所を横に連なる緑の部分、だいたいこの辺りに国分寺崖線があると思って下さい。あと、画像中央に四角が二重・三重に重なっている部分が先ほど見て来た金堂跡です。
資料展示室でとても丁寧に説明して下さったおじさんに感謝です。ちなみに、昨日・今日の記事に何度も登場する『国分寺歴史・観光マップ』はここでいただきました。先に手に入れる事が出来ていたら、真姿の池湧水群の所で崖線を上ってました!くう~~。
さて、おじさんに教えてもらった武蔵国分尼寺跡に向かいます。
JR武蔵野線の線路の下をくぐるとすぐに見えて来た。
「平成19年に日本の歴史公園100選」に選定されました。
尼寺は東山美道武蔵路の西側に建立されました。現在は史跡の保存整備も終了。

公園には尼寺の主要伽藍の規模、基礎工事の様子を見学出来るように、堀立柱塀の一部復元や、東門、中門の位置表示、尼坊の礎石復元、指定金堂跡の基壇復元。基壇版築のはぎ取り標本の観察施設などがあります。(国分寺歴史・観光マップより)」
復元図もありました。



この木株もただモノではない。
尼坊跡の復元図もある。

尼坊は、尼僧(女性の僧侶)の住まいです。桁行き15間(約44、5メートル)、梁行き4間(約8、9メートル)の東西等暦石建物)の本瓦、切妻造りでした。
柱の下にあった礎石70個は全て失われましたが、基礎工事の礎石据付掘方が規則正しく並んでいます。

ナナメに突き出した丸太は、どう竿(かん)跡です。
上の画像奥に、尼寺の北側の壁の一部が再現されています。
また、尼坊跡に置いてある礎石は、整備にあたり往時と同じ多摩川産の石を新たに据えたものです。
尼寺は、奈良時代中頃、聖武展王の詔により、鎮護国家を祈願する官立寺院として国分寺(僧寺)とあわせて国分尼寺が国ごとに建立されました。尼寺の正式名称は、「法華現在之寺」と定められた。「法華経」は女人成仏を説いており、尼寺の成立には女人救済を願う光明皇后の意向が大きく働いたものとも考えられています。
尼寺は東西約150メートル。南北160メートル以上の範囲を素堀溝で区画した中に、南大門(未確認)・中門・金堂・講堂(未確認)・尼坊を中軸線上に並べてありました。
以上、説明板に詳しく書かれてました。

国分尼寺跡には公園が隣接しています。木は秋色でとても綺麗です。
さて、次は…。「国分寺の歴史・観光マップ」を取り出すと、すぐ北に伝鎌倉街道があります。
ン?鎌倉街道って、町田の薬師池公園近くにもあったよね?あれのこと??

行ってみた!
いい感じに紅葉してた。ここを歩くのも楽しそうだ。
っと…。反対側まではすぐだった!ちぇっ。

さて、またまらマップを広げてみる。と。伝鎌倉街道の両側に、伝祥応寺と塚跡というのがありました。
階段発見!上がってみた。

うん。何もないっ。しかも落葉が多くて礎石があるかどうかも分からない。
説明板発見:伝祥応寺跡(中世寺院跡)
本跡は尼寺伽藍の一部とする説もあったが、近年の調査によって、鎌倉時代末頃に建てられた寺跡と判明し、本多4丁目の祥応寺の前身にあたると考えられている。旧鎌倉街道と言われる切り通しに東面して土塁(基底部幅3メートル・高さ1、2メートル以上)と溝とで東西30メートル、南北45メートルの長方形の区画が形づくられている。現存する大小15個の礎石の分布などから、東西9メートル、南北18メートルほどの規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物だったと推定される。
とありました。階段を降りて伝鎌倉街道へ。反対側には塚跡ああるハズ…。って、つ・疲れた。最早階段を上がるのが嫌!坂道も嫌!!
なので。塚跡はパスします。つー事で、もうJR西国分寺駅を目指そうかな~??
いや。ここまで来たならば。
『ブラタモリ』でタモリさんが歩いてた道が見たい。
って事で、再び武蔵国分寺公演を目指す事に。ああ…JR武蔵野線の上部を横断する道の階段が辛い…。
 
そんなこんなで到着した市立歴史公園、史跡東山道武蔵路です。
上の画像は、東山道武蔵路の南側の延長にあります。わかりにくいのですが、画像の手前から奥に伸びる赤い線。これは画像の左側にも伸びてますね。この幅にかつて道が走ってました。一見してもわかりませんが、かなり広いです。先日、旧品川宿東海道を北品川駅から青物横丁駅まで歩きましたが、旧東海道の倍以上広いかも?これが奈良時代、天平の時代に奈良まで続いていたとはっ!!びっくりですね。
ちなみに、タモリさんが歩いていたのはこちら。下の画像のとても広い歩道の左右に、不自然な黄色いペンキみたいにあるのが、かつての東山道武蔵路の跡です。
国史跡
日陰になって分かりにくいので、説明板の上から見た写真を。
 
約340メートルの直線道路跡が復元されています。つーか…。なぜに奈良時代にこんなに広い道を作る必要があったんだろう…。こんなに広い道が必要なのってーー巨人なの?
何言ってんだ~~っ!!自分にツッコミしたものの、頭の中で進撃の巨人の紅蓮の翼が鳴り続けちゃいましたっ!!
この後、JR西国分寺駅へ向いました。最後に落し穴…。駅の入口が分からない~~。何でや~~っ!!
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東京・神奈川の紅葉2013

2013年12月5日:12月3日に撮影した新宿御苑の紅葉の画像を約20枚追加しました。
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