あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

巨木探訪・妻田薬師のクス

2019年02月06日 15時45分40秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2019年2月3日訪問。小田急のお得きっぷ、丹沢大山フリーきっぷBを使ってまた巨木探訪をしました。またというのは去年6月に巨木探訪日向薬師の幡かけ杉
巨木探訪・宝城坊の二本杉(2018年7月4日)の記事・飯山観音のイヌマキ
巨木探訪・飯山観音のイヌマキ(2018年7月8日)の記事でも丹沢大山フリーきっぷBで巨木探訪しました。
8時58分発小田急相模原発で本厚木駅へ9時17分着。5番のりばのバスは便数が少ない。9時40発厚20宮ヶ瀬行きで及川バス停に9時55分着。目の前は小鮎川が流れていて、遠く丹沢の山並みが見えた。山は雪をかぶっている。
さて、徒歩で東へ。実は目的地の妻田薬師にはもっと近いバス停もありますが、そっちは丹沢大山フリーきっぷは使えないんだな。ってなことで、歩くこと約20分、10時20分妻田薬師に到着です。

感動してたら目の前をロッキーのテーマをガンガンに流しながら選挙カーが通り過ぎた。

山門をくぐったら左手にけやきの大木があった。思わず撮影。

正面に薬師堂。「市指定有形文化財で、薬師如来を安置してます。永禄12年(1569)の二増合戦の時に、武田信玄によって焼かれたと記録に残ってます。現堂は宝暦8年(1758)の再建ですが、内部の須弥壇とその両脇の2本の来迎柱は旧堂のものです」以上説明板より。
そして右手に訪問目的の巨木妻田のクスです。
かながわの名木100選の説明石碑発見:妻田のクス
県指定天然記念物 昭和29年3月30日指定
樹高:22メートル 胸高周囲:11メートル 樹齢:約800年(伝承)
県下有数の太さを誇る巨木・古木である。かつては幹に残る火傷の跡があり、武田信玄が小田原攻めの帰路、社堂に放った火が燃え移った名残と言われている。
昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選出されている。」

まずは西から東へクスノキの全景を撮影。

この木の特徴的な空洞を。旦那にはハイライト代わりに横に立ってもらいました。この木は幹周囲に囲いがあるので、直接幹の触れません。真横にも立てないので、上の画像で旦那は木の手前にいます。

実際目の前で見ると、空洞は大きくて、中に安置した石造りの地蔵像も巨木の本で見た画像で想像してたより大きいと思いました。

なんとか大きさが分からないかな?と少し下がって撮影してみた。

ついでに空洞の裏側からだとこんな感じ。

満足して10時34分出発、及川バス停に引き返したら11時7分発のバスに間に合った!11時25分ちょい過ぎに本厚木駅に到着。次はいつでも行ける〜とパスしてた鶴巻温泉駅から徒歩10分の鶴巻の大ケヤキです。
鶴巻温泉駅に初下車。びっくりしたのは駅が木製なんです!

木の壁に触れてみた!本物の木だった!!何気に驚いた〜。
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海老名市立郷土資料館

2019年02月05日 21時07分23秒 | 展覧会&観光施設&能楽
相模国分寺跡に隣接するレトロ建物は海老名市立郷土資料館だった。入場無料だったので寄ってみた。すると、職員さんがついて展示物の説明をしてくれるスタイルだった。最初は若いお姉さんが説明してくれてたのだけれど、途中からベテランのおじさんにバトンタッチした。これがとっても面白かったのだ。なんと!1時間も聴き続けてしまいました〜。

何はともあれ、資料館前にある相模国分寺跡地の再現フィギュアから入る。
ってか、基本の基本。全国あちこちにある、もしくは地名になってる国分寺ってご存知ですよね?念のため説明しておきますね。
「国分寺・国分尼寺は奈良時代に聖武天皇が国ごとに立てされた寺院です。当時、日照り・地震などの天災や飢饉、伝染病、貴族の反乱などに苦しむことが多かったので、仏教の力で国家がやすらかに納まるようにと、天平13(741)年、聖武天皇が詔を出して国分寺を建てさせました。国分寺は僧寺、国分尼寺はあまでらで、それぞれの正式名称は国分寺は「金光明四天王護国之寺」国分尼寺は「法華滅罪之寺」といい、大和国(奈良県)の東大寺と法華寺が総国分寺・総国分尼寺とされました。国分寺の僧(お坊さん)は20名、国分尼寺のあまは10名と決められてました。国分寺は68か国に建てられてました。(以上、いただいたチラシより)
そうなのです。資料をいただいてしまいました。

資料紹介で画像をベランダで撮影してたのですが、強風で仕方なく足でチラシを抑えました。
さて、再現フギュアを見ながらふと疑問を抱いたので聞いてみた。
「どの建物にもたっぷり瓦が乗ってますが、本当にこんなにたくさんの瓦を使ってたのですか?」
すると「本当に瓦を使ってたんですよ。発掘したらいっぱい出てきましたから!」と。それでも疑り深い私は質問を重ねる。
「瓦って重いですよね?この近くで作ってたのですか?」と尋ねたところ。
「実は10年ほど前にようやく確定できたんですっ!」と答え、嬉しそうに地図を見せてくれた。
「ここ、逗子から葉山の辺りに窯があるのは分かってたんですが、相模国分寺の軒丸瓦と同じものが発掘されて確定出来ました」と。
「え!?葉山って?逗子って??ど〜やって海老名まで運んだの?あ!相模川!船ですか?」と答えながら気づく私。でもその答えは十分じゃなかった。
「途中までは正解ですが、途中から目久尻川を使いまして」
「え?でも相模国分寺跡から目久尻川って小高い山を挟みますよね??」
「途中から切り通しを作ったんです。数メートル掘って、幅は3メートル」
「凄いっ!それ運河?水路ですか。でも川下から遡って〜〜!あ!分かった!両岸で人力で引っ張ったんだ。そうでしょう?」
「そうです。で、その頃の船着場がこの辺にありました。昔ある大学の先生が、出来たばかりの相模女子大学の生徒と一緒に見つけたんです」
「凄いですねっ。で、今残ってますか?」
「切り通しは少し残ってる場所もあります。今から見にいかれますか?」
「無理!今、南の本郷の有馬のハルニレから歩いてきたから今日は無理です〜」と。
わくわくと目を輝かしてると、私が歴史好きだと伝わったようで、次に見せてくれたのが古い直刀と赤い勾玉のついた玉の首飾りでした。
「これはわずか3年前にここで(とても低い丘の上に数本の木が生えた写真)見つかったものです」
ん?とても遺跡に見えないんですけど?
「日曜日、歴史好きの人が見つけ、当日は日曜だったので市役所とか閉まってたから持ち込んでくれて」
「凄いっ!その時に居合わせたんですか?」
「〜〜〜」どうやらベテラン解説員のおじさんは不在だった模様。その日の当番だった人が急いで確認に行き、写真撮影して、見つかった勾玉を確保して。で、この刀は実は鉄製で、鞘は杉で出来てます」
「凄い凄いっ!」
でもなんで今頃突然?
「豪雨で表面の土が流れ現れた」
「保護する石棺とかなかったの?」
「ありません」
「埋葬者は〜〜あ。溶けたか?」
「ええ。この辺りは酸性の土なので、骨はあっても溶けます」
「で?この赤い勾玉はどこ産か、判明したのですか?」
「なんと!出雲です」
「ええっ!?本当に?どうやって??」
「どうやってかは分かりません」
古墳時代にまさかの海老名まで運ばれたなんて!
実は説明してくださったベテランのおじさんの話で、海老名には秋葉山古墳群が存在し、まさかの円方後円墳なんだと教えてもらう。しかも造成された時期は、邪馬台国の卑弥呼が生きてた時代!それっていつだよ!?と思われた方の為に、3世紀半ばと答えておきましょう。
私、生まれは四国は香川県の西部なんですよ。近所に小さいけど母神山という古墳群がありまして、大学の夏休みの宿題というか提出物のために調べたことがありまして。その時に前方後円墳って西日本に多いと。ってかぶっちゃけ何で海老名にあるんじゃ!?と魂消ました。
最近ウォーキングで渋沢駅近くとか、小田原のフラワーセンター見に行ったらすぐ近くに久野古墳群があったり、田園調布の多摩川台公園でも古墳を見たりで、神奈川にも結構あちこちにも古墳あるんだ!と混乱してたらば。ベテラン解説員のおじさんが、「海老名には縄文土器も弥生土器も出土します」と教えてくださり、更に「相模川段丘の上はあちこちに古墳が点在してるのだ」と自慢。
そっか〜、相模原は縄文時代のが近所の勝坂にあるので見物に行ったけども。弥生はなかったなあ〜。と。
そして、と。歴史好きな私を案内してくださったのが石器コーナーです。「これは香川ではサヌカイトで作る石器です」と。え!?何を言ってるんだ?このおじさんは??と思ったら「海老名ではサヌカイトで作った石器を別の石で作成してます」と言う。
つまりだね。石は違っても、石器を作る技法が香川のサヌカイトの石器と同じということだ。
サヌカイトは石の名前で示すように香川=讃岐の狭い範囲で取れる石です。ぶっちゃけ五色台でしか採れん!となると、古墳時代に四国香川から海を越え、神奈川県海老名まで旅した職人がいたか?もしくはサヌカイトの石器を作った人が作った石器を、陸路か海路で運んだ商人がいたという証明でもある。
凄いわ〜!!昔の日本人も凄いっ!わくわくが止まらないぜ。
ってなことで、気付ば説明を聞き始め1時間が過ぎてました。ヤバいっ!実はわくわくから正気に戻った理由がありまして、右足の大腿部がじんわり痛み始めたんです。うわ〜〜!!まだ私の右足治ってないっ!痛み始める前に対処しろ!と言われ続けてるのに懲りてない私。説明員さんにお礼を言って退散〜〜の前に、資料館2階で開催してる「記念の盃〜ハレの器・ケの器〜展」を見学に寄る。

驚いたのは日清・日露戦争の記念盃です。戦争の絵付けのつけられた盃は見たことなくて見入ってしまいました。
さてと、帰ろう!と坂を降りる。駅に向け歩く。

ビナウォークを突っ切っていこうとして相模国分寺にあった七重塔を1/3サイズで再現したものを眺める。元は推定65メートルの高さだったんだって。そういえば資料館のベテラン解説員のおじさんに「相模国分寺の塔はいつまで建ってたのですか?」と質問したら「実は正確には分かってません。平安後期まではおそらくあったと思ってます」と教えてくれた。そもそも国分寺は奈良時代の天皇の国家事業でできたから、律令政治が崩壊したら続かないよな〜。でも見てみたかったかも?
ビナウォークの海老名中央公園では何かの催しをやってました。

海老名のゆるキャラえび〜にゃが踊ってたし。海老名特産のいちごも色んな商品に加工したり鉢入り苗にして売っていた。まああっちもこっちも店じまいにとりかかってましたが。

時刻は15時ちょうど。う〜ん。私資料館でどんだけいたんだ。我ながら呆れてしまう。

資料館には相模国分寺の再現モデルを展示してあります。記事の構成上どうしても瓦の多い状況を見せたかったので貼り付けましたが、「個人的に撮影はOK です」と許可をいただいたものの、記事に掲載してはイカンのでと画像処理してぼかして瓦が多いのが分かる程度の劣化させようとしました。前に持ってたPhotoshopなら出来たけど、前のMacが壊れた時に中味が全部消えてしまい、今は持ってない!今のMacにある画像処理はせいぜい白黒にして画素数を落として暗くしてと加工を頑張ったけどもこれが限界でした。もしかしたらしばらくしたら再現モデルの画像は記事から削除するかもしれません。
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史跡相模国分寺跡地

2019年02月03日 06時02分02秒 | 歴史散歩
2019.1.27海老名巨木と歴史散歩のゴールは国分寺跡地です。10時10分に本郷の巨木・有馬のハルニレの最寄りバス停変電所北を出発で、今が12時51分到着。3時間のウォーキングでした。
で?去年の秋から治療してる腰痛と右足痛の回復具合はどうかな?
触ってみる。行けそう〜。いつもウォーキングするとお尻と足のジョイント部分からじんわり痛くなってたのだけども、痛くないっ!おお〜、回復してるう〜。
あ。説明板発見:史跡相模国分寺跡地
相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つです。
819年(弘仁10)と878年(元慶2)に相模国分寺が被災したという記録が残っていますが、940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の結果等から、平安時代中期ごろまでは修理や再建が行われていたようです。
しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したと言われています。
相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿絵にも遺跡が描かれているほど古くから知られていました。
明治後半から大正にかけて尋常高等海老名小学校(現市立海老名小学校)の校長であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに「相模国分寺志」という研究書にまとめました。
こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10)3月3日に相模国分寺跡は「国指定史跡」となりました。」
説明板に相模国分寺跡の整備予想図が描かれてます。

む〜ん?整備予想図にある築地塀跡の復元部分はないなあ〜。

こんなんありました!説明板発見:塔跡
ここは741年(天平13)の「国分寺建立の詔」をうけて建てられた七重塔の跡です。
1966年(昭和41)と1992年(平成4)に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、一辺の長さが20.6メートル、高さは1.3メートルの規模であったことが確認されました。残存する礎石から、塔の初重の広さは、10・8メートル四方で、塔の高さは約65メートルあったと推定されています。
塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺跡が出土しています。
また、基壇周辺で発掘された石敷きや盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われたこともわかりました。(後略)
塔の高さが65メートルって凄いわ〜。
せっかくなので塔跡の階段に座っておやつ〜。

あれ?あそこにあるレトロ建物って何?まだ足痛くないし疲れもないから行ってみようかな〜?
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巨木探訪・海老名の大ケヤキ

2019年02月02日 05時45分50秒 | 巨木・古木・ご神木・盆栽
2019年1月27日、海老名の巨木と歴史探訪ウォーキングをしました。
12時44分、3つめの巨木海老名の大ケヤキに到着です。
説明板発見:海老名の大ケヤキ 神奈川県指定天然記念物 昭和29年3月29日指定
このケヤキは、かつて船つなぎ用の杭として打ったものが発芽して大きくなり、以来、人々が保護し育ててきたものと伝えられている。
根回り:15、3メートル 目通り幹囲:7.5メートル 樹高:20メートルに達する大木である。
ケヤキはニレ科の温帯性落葉高木で、県下でも沖積地や台地斜面などに自生しているため昔から親しまれてきた。屋敷内に植栽されることも多く、しばしばケヤキの見事な屋敷林も見かける。
もともとこの辺りでは、ケヤキ林が自然植生として栄えていた。昔の人が生活の知恵から打ち付けた杭も、ちょうどこの土地に合ったものを使ったたけ、現在見られるほどの見事なケヤキに生長したものと推定される。郷土を代表する木として、長く保存する必要があり、県指定天然記念物に指定したものである」
む〜ん。確かに太くて存在感抜群なんだけどさ〜。

この木にもドアがついてるんですけど〜。
上の画像の手前の枝も既に枯死してるように見える。訪問したのが1月27日なので、葉っぱが繁ってる時に再訪すれば、生きてる枝か枯死してる枝かわかると思うけどさ〜。もうなんとか生きて欲しい!と。巨木だけども痛々しいわ。精一杯の手当てはしてるのだろうなあ。説明板には樹齢が書かれてないけど、大ケヤキが船つなぎの杭として打ったものならば、相模川段丘の下まで相模川が流れていた頃のことだろうから、何百年と生きてるのだろうなあ。太いし。でもなあ。説明版には「樹高20メートル」と書かれてるけども、そんなに高くは見えない。説明板を設置した頃にはその高さがあったんだろうなあ。
12時47分出発。さて、次はウォーキングゴールに設定した国分寺跡地です。
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海老名の神明社

2019年02月01日 19時01分41秒 | 神社・仏閣
2019年1月27日海老名の巨木と歴史散歩、2つ目の大谷観音堂のカヤを見物。11時56分出発。観音堂前の昔道を進めば、200メートルほど先でさっき降りてきた河岸段丘を再び登ることになった。あ〜、巨木と歴史散歩だけども、実は腰痛と右足痛の回復具合を確かめる散歩でもあるので、なるべく高低差のないコースを設定したつもりだったけども、相模川の河岸段丘の高低差は手強いなあ〜。
さて、道々またも「参道」の立て札を見つける。先ほど高低差をスルーすべく「南参道」を通り過ぎたらそれは外宮・豊受大神の参道でスルー出来ず表参道を登ったんだった。で?ここはどこの参道じゃ??
神明社とある。これは〜、スルーしてはいかんのでは?長い参道を歩いてると、白梅が見頃を迎えつつあった。早くも春がやって来てるのか?つい最近紅葉が終わったばかりなのに??オパさんは季節の移り変わりの早さに目眩がしそうです。

さて、神明社に到着です。とはいえ、参拝者の体力を試すような急な石段が鳥居の奥に見えてるんですけど〜?
どうすっかな〜?登りたくないなあ〜。あ、説明板発見
神明社
御祭神:天照大御神・豊受大御神
このお宮は大永8年(1528)本願勧進井田入道浄源、大檀那地頭代須田與三左門吉平等の創立によるものである。往古は渋谷荘大谷郷総社であった。
慶安2年(1649)社領8石の御朱印を附せられ、明治6年(1873)村社に列せられた。
創立以来社殿は6回建て替えられている。現在の本殿は昭和4年に再建されたものである。」
う〜ん。神明社の名前からして天照大御神が御祭神だろうと思ったけども、豊受大御神まで御祭神になってたか〜。先ほどの外宮・豊受大神繋がりでここは見ておきたいなあ〜。
ふと、神明鳥居の向こうに左右に4本並ぶ大きなイチョウが見えてつい鳥居をくぐってしまった。

階段の下に高いクスノキ。根っこが特徴的なのでいい感じに撮影出来ないかな?と端っこによって気づく。
あ、女坂がある!急な石段を回避する坂道があったのです。緩々と登ってしまった〜。

本殿。当然さっき見てきた外宮・豊受大神と同じく神明造でした。参拝しようか?と思いつつも私今喪中なんだよね?確か喪中の人って神社の参拝控えろって言うし、本当のところはどうなんだろうなあ〜?知識が不足してるので今回はパス。巨木探訪は神社仏閣のご神木になってる場所も多いので、早いとこ調べないといかんなあ。ともかく神明社さんは遠くから本殿を眺めるに止め回れ右!

下りは急な石段を下りつつ、もし大きな木ばかりでなければここで富士山が見えるんだろうなあ〜と思う。神明社さんは相模川の河岸段丘の下に参道があり段丘を石段が繋ぎ本殿は段丘の上にある。坂に多くの木があるんだけど、どれも大きすぎでせっかくの富士山ビューの眺望が台無しです。
さてと、時刻は12時18分。次行ってみよう!
あれ?この辺って「勝瀬」って言うんだ?勝瀬勝瀬勝瀬〜。何か記憶を刺激する単語だな。もしかして相模湖ダム造成で故郷が沈んだ人が海老名に移住して来たとか相模湖を歩いた時に読んだような〜?それが「勝瀬」だったような〜?もしかしてこの辺りに移住してきたのかも?まさかな〜?でも土地の名前には歴史が刻まれてること多いからな〜。アタリかもしれんな。とはいえ、説明板とかないので今は推理に止めてウォーキング再開。

昔道なので道沿いに素敵な見応えのある住宅が次々現れる。ここは庭木も素敵だなあ。楽しいウォーキング道です。とはいえ、10時10分に南の本郷にある有馬のハルニレを出発しぼちぼち疲れつつある。視線はついつい足元に。
で、こんなん見つけました〜。海老名のマンホールです。カラーマンホールはないなあ。

小学校のブロック塀。味のある絵が並んでたので、私好みのを探しつつ先へ。チョイスしたのは笑顔の1枚。
ああ!視線の先に木の枝が見える。あれがたぶん3つめの巨木大ケヤキじゃないかな?たぶんそう。そのハズだ。

アタリだった〜。12時44分到着〜。
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