さてさて
15歳でブルースブレイカーズの元べーシストという肩書を得たアンディ。
※原因に関しては「ハイズマンのヤロー!」と、ちょっとムカついたが。
良く考えれば、そこから「コロシアム」「フリー」という英国ロックの重要バンドが
2つ出来上がっていくワケだがら、今にして思えば「ハイズマン、 グッジョブ!」と
言ってイイんでしょうかねぇ・・・
もっとも当のアンディは「そもそもハイズマン以前に組んでたドラムの
キーフ・ハートレーと合わなかったんだ。なんでだか分からないけど」と
ハイズマンへの恨み節は語っていない。
ハートレーとも単にプレイの相性だけだったみたいだし。

※フレイザー在籍時のブレイカーズ
左からディック・ヘクトール・スミス、ジョン・メイオール、ミック・テイラー
キーフ・ハートレー、フレイザー、ヘンリー・ロウザー(後にハートレーの
グループに参加。ホーンとバイオリン担当)。
鼻の下に髭を生やしたフレイザー。精一杯、大人ぶってる印象。
一方その頃、やはり10代のブルース・ロックの若武者がベーシストを探していた。
ポール・ロジャース(Vo)と、元ブラック・キャット・ボーンズの初期メンバー
ポール・コゾフ、サイモン・カークの3人だった。

※ボーンズの初期フォト。一番左がカーク、次がコゾフ。
まだ少年のようなポール・コゾフなれど、英国俳優デヴィッド・コゾフ氏の
息子で、早くからロンドンの楽器店でバイトしており、店を訪ねたジミヘンと
会った事を自慢する、いっぱしの「顔」だったそうな。
アレクシス・コーナーの紹介で合流した彼らは、ブルースロック・バンド「FREE」を
結成する。
全員が若いメンバーだけに、いきなり結成みたいな印象もあったが
キーフ・ハートレーの伝記によると、ロジャース(Vo)とコゾフ(g)、ハートレー(Dr)と
ゲイリー・セイン(後にハートレーバンド~ユーライア・ヒープのベース)で録った、
デモもあったというし、それまで様々なアーティストとセッションして“相性”を確認した
結果、「FREE」に至ったんだよなぁ・・・と思うと感慨深いモノがあります。

リハ初日、現場に現れたアンディは、一人だけタクシーで乗り付け、しかも
「領収書」まで切ったというのだがら、これにはメンバー全員が度肝を
抜かされた・・・とか。
※アマチュアに毛の生えたようなキャリアしかなかった他のメンバーに比べ、
アンディは既に「プロ」だったのだ。
音出しして意気投合した4人だったが、1番小僧のクセに「自分が仕切る」と
言い出したアンディに驚きつつ「じゃあ、やってみれば」と任せたんだそうな。
その後の英国ツアーではマネージャー役まで如才なくコナし、経費から
メンバーのギャラまで管理したというアンディ、さすがではあった。
メイオールの元で学んだのは、楽器や音楽だけじゃなかったのね・・・。

まずは「ロード」で腕を磨き、知名度を得る・・・というのが
当時の英国バンドの方法論。安い車に楽器を積んで街から街へ。
当然、カネは無く泊まったホテルの厨房に「1番小柄な」アンディが忍び込んで
冷蔵庫の食料をくすねた・・・なんて逸話も残っております。
※若気の至り・・・ですな。まぁ、普通に盗人なんですが。
フリーの巡業ライブは各地で評判を呼び、レーベル契約の話も出たが
当初アイランドの役員は「彼らは荒々しすぎる」と渋った・・・とか。
※その中にはスペンサー・デイヴィス・グループを辞めて音楽ビジネスに
転じたマフ・ウィンウッドの顔もあったという。

それでも社長のクリス・ブラックウェルの意見で、フリーは晴れてアイランド・
レーベルの所属ミュージシャンとなった。
ジェスロ・タルやトラフィック、スプーキー・トゥース、キング・クリムゾンを
排出した急進的なインディーズ・レーベルである。
15歳でブルースブレイカーズの元べーシストという肩書を得たアンディ。
※原因に関しては「ハイズマンのヤロー!」と、ちょっとムカついたが。
良く考えれば、そこから「コロシアム」「フリー」という英国ロックの重要バンドが
2つ出来上がっていくワケだがら、今にして思えば「ハイズマン、 グッジョブ!」と
言ってイイんでしょうかねぇ・・・
もっとも当のアンディは「そもそもハイズマン以前に組んでたドラムの
キーフ・ハートレーと合わなかったんだ。なんでだか分からないけど」と
ハイズマンへの恨み節は語っていない。
ハートレーとも単にプレイの相性だけだったみたいだし。

※フレイザー在籍時のブレイカーズ
左からディック・ヘクトール・スミス、ジョン・メイオール、ミック・テイラー
キーフ・ハートレー、フレイザー、ヘンリー・ロウザー(後にハートレーの
グループに参加。ホーンとバイオリン担当)。
鼻の下に髭を生やしたフレイザー。精一杯、大人ぶってる印象。
一方その頃、やはり10代のブルース・ロックの若武者がベーシストを探していた。
ポール・ロジャース(Vo)と、元ブラック・キャット・ボーンズの初期メンバー
ポール・コゾフ、サイモン・カークの3人だった。

※ボーンズの初期フォト。一番左がカーク、次がコゾフ。
まだ少年のようなポール・コゾフなれど、英国俳優デヴィッド・コゾフ氏の
息子で、早くからロンドンの楽器店でバイトしており、店を訪ねたジミヘンと
会った事を自慢する、いっぱしの「顔」だったそうな。
アレクシス・コーナーの紹介で合流した彼らは、ブルースロック・バンド「FREE」を
結成する。
全員が若いメンバーだけに、いきなり結成みたいな印象もあったが
キーフ・ハートレーの伝記によると、ロジャース(Vo)とコゾフ(g)、ハートレー(Dr)と
ゲイリー・セイン(後にハートレーバンド~ユーライア・ヒープのベース)で録った、
デモもあったというし、それまで様々なアーティストとセッションして“相性”を確認した
結果、「FREE」に至ったんだよなぁ・・・と思うと感慨深いモノがあります。

リハ初日、現場に現れたアンディは、一人だけタクシーで乗り付け、しかも
「領収書」まで切ったというのだがら、これにはメンバー全員が度肝を
抜かされた・・・とか。
※アマチュアに毛の生えたようなキャリアしかなかった他のメンバーに比べ、
アンディは既に「プロ」だったのだ。
音出しして意気投合した4人だったが、1番小僧のクセに「自分が仕切る」と
言い出したアンディに驚きつつ「じゃあ、やってみれば」と任せたんだそうな。
その後の英国ツアーではマネージャー役まで如才なくコナし、経費から
メンバーのギャラまで管理したというアンディ、さすがではあった。
メイオールの元で学んだのは、楽器や音楽だけじゃなかったのね・・・。

まずは「ロード」で腕を磨き、知名度を得る・・・というのが
当時の英国バンドの方法論。安い車に楽器を積んで街から街へ。
当然、カネは無く泊まったホテルの厨房に「1番小柄な」アンディが忍び込んで
冷蔵庫の食料をくすねた・・・なんて逸話も残っております。
※若気の至り・・・ですな。まぁ、普通に盗人なんですが。
フリーの巡業ライブは各地で評判を呼び、レーベル契約の話も出たが
当初アイランドの役員は「彼らは荒々しすぎる」と渋った・・・とか。
※その中にはスペンサー・デイヴィス・グループを辞めて音楽ビジネスに
転じたマフ・ウィンウッドの顔もあったという。

それでも社長のクリス・ブラックウェルの意見で、フリーは晴れてアイランド・
レーベルの所属ミュージシャンとなった。
ジェスロ・タルやトラフィック、スプーキー・トゥース、キング・クリムゾンを
排出した急進的なインディーズ・レーベルである。