あるBOX(改)

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追悼:アンディ・フレイザー(2)

2015年03月21日 | 英国ロック
さてさて
15歳でブルースブレイカーズの元べーシストという肩書を得たアンディ。

※原因に関しては「ハイズマンのヤロー!」と、ちょっとムカついたが。
 良く考えれば、そこから「コロシアム」「フリー」という英国ロックの重要バンドが
 2つ出来上がっていくワケだがら、今にして思えば「ハイズマン、 グッジョブ!」と
言ってイイんでしょうかねぇ・・・

 もっとも当のアンディは「そもそもハイズマン以前に組んでたドラムの
 キーフ・ハートレーと合わなかったんだ。なんでだか分からないけど」と
 ハイズマンへの恨み節は語っていない。
 ハートレーとも単にプレイの相性だけだったみたいだし。


※フレイザー在籍時のブレイカーズ
 左からディック・ヘクトール・スミス、ジョン・メイオール、ミック・テイラー
 キーフ・ハートレー、フレイザー、ヘンリー・ロウザー(後にハートレーの
 グループに参加。ホーンとバイオリン担当)。
鼻の下に髭を生やしたフレイザー。精一杯、大人ぶってる印象。

一方その頃、やはり10代のブルース・ロックの若武者がベーシストを探していた。
ポール・ロジャース(Vo)と、元ブラック・キャット・ボーンズの初期メンバー
ポール・コゾフ、サイモン・カークの3人だった。


※ボーンズの初期フォト。一番左がカーク、次がコゾフ。
 まだ少年のようなポール・コゾフなれど、英国俳優デヴィッド・コゾフ氏の
 息子で、早くからロンドンの楽器店でバイトしており、店を訪ねたジミヘンと
 会った事を自慢する、いっぱしの「顔」だったそうな。

アレクシス・コーナーの紹介で合流した彼らは、ブルースロック・バンド「FREE」を
結成する。

全員が若いメンバーだけに、いきなり結成みたいな印象もあったが
キーフ・ハートレーの伝記によると、ロジャース(Vo)とコゾフ(g)、ハートレー(Dr)と
ゲイリー・セイン(後にハートレーバンド~ユーライア・ヒープのベース)で録った、
デモもあったというし、それまで様々なアーティストとセッションして“相性”を確認した
結果、「FREE」に至ったんだよなぁ・・・と思うと感慨深いモノがあります。



リハ初日、現場に現れたアンディは、一人だけタクシーで乗り付け、しかも
「領収書」まで切ったというのだがら、これにはメンバー全員が度肝を
抜かされた・・・とか。

※アマチュアに毛の生えたようなキャリアしかなかった他のメンバーに比べ、
 アンディは既に「プロ」だったのだ。
 音出しして意気投合した4人だったが、1番小僧のクセに「自分が仕切る」と
 言い出したアンディに驚きつつ「じゃあ、やってみれば」と任せたんだそうな。
 その後の英国ツアーではマネージャー役まで如才なくコナし、経費から
 メンバーのギャラまで管理したというアンディ、さすがではあった。

 メイオールの元で学んだのは、楽器や音楽だけじゃなかったのね・・・。



まずは「ロード」で腕を磨き、知名度を得る・・・というのが
当時の英国バンドの方法論。安い車に楽器を積んで街から街へ。

当然、カネは無く泊まったホテルの厨房に「1番小柄な」アンディが忍び込んで
冷蔵庫の食料をくすねた・・・なんて逸話も残っております。
※若気の至り・・・ですな。まぁ、普通に盗人なんですが。

フリーの巡業ライブは各地で評判を呼び、レーベル契約の話も出たが
当初アイランドの役員は「彼らは荒々しすぎる」と渋った・・・とか。
※その中にはスペンサー・デイヴィス・グループを辞めて音楽ビジネスに
 転じたマフ・ウィンウッドの顔もあったという。



それでも社長のクリス・ブラックウェルの意見で、フリーは晴れてアイランド・
レーベルの所属ミュージシャンとなった。

ジェスロ・タルやトラフィック、スプーキー・トゥース、キング・クリムゾンを
排出した急進的なインディーズ・レーベルである。