あるBOX(改)

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追悼:アンディ・フレイザー(4)

2015年03月23日 | 英国ロック
「ハイウェイ」と「ザ・ステイーラー」の売上不振に関しては
なんとか急造したシングル「マイ・ブラザー・ジェイク」がスマッシュヒットして
息を繋いだFREEだったが。

※「マイ・ブラザー・ジェイク」も良い曲だけど、ピアノ伴奏が中心の軽目の
 ナンバーで。FREE本来のヘビィなブルースロックとは掛け離れていたが、
 「オールライト…」で飛び付いた新規ファンにとっては、こちらの方が 
 彼らのイメージする「FREE」だったんでしょう・・・。

レーベルから掛かるヒットの重圧、休みなきツアーとレコーディングによる疲弊、
メンバー間の不仲、コゾフのドラッグ癖は、いよいよ深刻となり。
フリーは袋小路へと追い詰められてしまう。



特にロジャースのフレイザー間の仲は険悪だったとか。
コゾフはヴォーカリストとベーシストに音数を減らすことを半ば強要され、
弾きまくる機会はライヴのみ・・・と言った有り様。

スタジオでは年下のフレイザーに弾き方の「指図」さえされたコゾフ、
フラストレーションが溜まりまくり、逃避のために薬を身体に入れる日々だった
・・・とか。

※ソリストだったコゾフは、早くからカッティングなどをフレイザーに
 教わっていたらしいが、フレイザーがピアノの腕前を上げる事になり、
 楽曲によってはメロトロンも導入されたコゾフは「伴奏の出番も減らされた」と
 落胆。(それはそれで効果的なのだがコゾフには辛かったのだろうか・・・)
 ジェスロ・タルやR・ストーンズのギタリスト・オーディションを受けたり
 したとの事。

ギターの腕前を上げたロジャースは一人で作曲する事も増え、フレイザーも
自分で歌詞を書く自信を得て、「ロジャース&フレイザー」コンビの曲と
いいつつ、実際はバラバラで曲を作っていたとか。

※フリー創設当時はフレイザー宅に居候していたロジャースとアンディで
 多くの曲を書き上げて行ったというのに・・・。



4人が対等となって、それぞれのパートで唯一無二の存在となり、音を奏でたFREEが
そのバランスをエゴの衝突で崩していった。

ロジャースは「自分でもバンドを仕切れる」と思い始めたというし、
若さゆえに足りない部分を補い合ってたメンバーが成長する事によって
他者を求めなくなった結果・・・の悲劇。

年下ながらレコーディング知識にも長け、プロデューサー的な能力も
発揮してきたアンディは、必死に押さえ込もうとしたんだろうが、
かえって逆効果となり、メンバーの反発を招く結果に。

温厚で知られるサイモン・カークが、後のインタビューで
「アンディの才能はピカイチだったが、人を見下すようになっていた」と
言う程だから余程の事だったんでしょう・・・。



音楽への若き情熱に溢れていながら、その熱心さ、溢れる才能ゆえ、アンディは
グループの崩壊を自ら推し進めてしまったのか。

結局フリーは、1971年の初来日公演の後に解散してしまう。

決定済みだったアメリカツアーも追い打ちになったとの事。
疲れ切った彼らは「とても回れない」と、米ツアーもキャンセル・・・。
※来日前、すでにグループ内で解散は決まっていたんだそうな。