「ハイウェイ」と「ザ・ステイーラー」の売上不振に関しては
なんとか急造したシングル「マイ・ブラザー・ジェイク」がスマッシュヒットして
息を繋いだFREEだったが。
※「マイ・ブラザー・ジェイク」も良い曲だけど、ピアノ伴奏が中心の軽目の
ナンバーで。FREE本来のヘビィなブルースロックとは掛け離れていたが、
「オールライト…」で飛び付いた新規ファンにとっては、こちらの方が
彼らのイメージする「FREE」だったんでしょう・・・。
レーベルから掛かるヒットの重圧、休みなきツアーとレコーディングによる疲弊、
メンバー間の不仲、コゾフのドラッグ癖は、いよいよ深刻となり。
フリーは袋小路へと追い詰められてしまう。

特にロジャースのフレイザー間の仲は険悪だったとか。
コゾフはヴォーカリストとベーシストに音数を減らすことを半ば強要され、
弾きまくる機会はライヴのみ・・・と言った有り様。
スタジオでは年下のフレイザーに弾き方の「指図」さえされたコゾフ、
フラストレーションが溜まりまくり、逃避のために薬を身体に入れる日々だった
・・・とか。
※ソリストだったコゾフは、早くからカッティングなどをフレイザーに
教わっていたらしいが、フレイザーがピアノの腕前を上げる事になり、
楽曲によってはメロトロンも導入されたコゾフは「伴奏の出番も減らされた」と
落胆。(それはそれで効果的なのだがコゾフには辛かったのだろうか・・・)
ジェスロ・タルやR・ストーンズのギタリスト・オーディションを受けたり
したとの事。
ギターの腕前を上げたロジャースは一人で作曲する事も増え、フレイザーも
自分で歌詞を書く自信を得て、「ロジャース&フレイザー」コンビの曲と
いいつつ、実際はバラバラで曲を作っていたとか。
※フリー創設当時はフレイザー宅に居候していたロジャースとアンディで
多くの曲を書き上げて行ったというのに・・・。

4人が対等となって、それぞれのパートで唯一無二の存在となり、音を奏でたFREEが
そのバランスをエゴの衝突で崩していった。
ロジャースは「自分でもバンドを仕切れる」と思い始めたというし、
若さゆえに足りない部分を補い合ってたメンバーが成長する事によって
他者を求めなくなった結果・・・の悲劇。
年下ながらレコーディング知識にも長け、プロデューサー的な能力も
発揮してきたアンディは、必死に押さえ込もうとしたんだろうが、
かえって逆効果となり、メンバーの反発を招く結果に。
温厚で知られるサイモン・カークが、後のインタビューで
「アンディの才能はピカイチだったが、人を見下すようになっていた」と
言う程だから余程の事だったんでしょう・・・。

音楽への若き情熱に溢れていながら、その熱心さ、溢れる才能ゆえ、アンディは
グループの崩壊を自ら推し進めてしまったのか。
結局フリーは、1971年の初来日公演の後に解散してしまう。
決定済みだったアメリカツアーも追い打ちになったとの事。
疲れ切った彼らは「とても回れない」と、米ツアーもキャンセル・・・。
※来日前、すでにグループ内で解散は決まっていたんだそうな。
なんとか急造したシングル「マイ・ブラザー・ジェイク」がスマッシュヒットして
息を繋いだFREEだったが。
※「マイ・ブラザー・ジェイク」も良い曲だけど、ピアノ伴奏が中心の軽目の
ナンバーで。FREE本来のヘビィなブルースロックとは掛け離れていたが、
「オールライト…」で飛び付いた新規ファンにとっては、こちらの方が
彼らのイメージする「FREE」だったんでしょう・・・。
レーベルから掛かるヒットの重圧、休みなきツアーとレコーディングによる疲弊、
メンバー間の不仲、コゾフのドラッグ癖は、いよいよ深刻となり。
フリーは袋小路へと追い詰められてしまう。

特にロジャースのフレイザー間の仲は険悪だったとか。
コゾフはヴォーカリストとベーシストに音数を減らすことを半ば強要され、
弾きまくる機会はライヴのみ・・・と言った有り様。
スタジオでは年下のフレイザーに弾き方の「指図」さえされたコゾフ、
フラストレーションが溜まりまくり、逃避のために薬を身体に入れる日々だった
・・・とか。
※ソリストだったコゾフは、早くからカッティングなどをフレイザーに
教わっていたらしいが、フレイザーがピアノの腕前を上げる事になり、
楽曲によってはメロトロンも導入されたコゾフは「伴奏の出番も減らされた」と
落胆。(それはそれで効果的なのだがコゾフには辛かったのだろうか・・・)
ジェスロ・タルやR・ストーンズのギタリスト・オーディションを受けたり
したとの事。
ギターの腕前を上げたロジャースは一人で作曲する事も増え、フレイザーも
自分で歌詞を書く自信を得て、「ロジャース&フレイザー」コンビの曲と
いいつつ、実際はバラバラで曲を作っていたとか。
※フリー創設当時はフレイザー宅に居候していたロジャースとアンディで
多くの曲を書き上げて行ったというのに・・・。

4人が対等となって、それぞれのパートで唯一無二の存在となり、音を奏でたFREEが
そのバランスをエゴの衝突で崩していった。
ロジャースは「自分でもバンドを仕切れる」と思い始めたというし、
若さゆえに足りない部分を補い合ってたメンバーが成長する事によって
他者を求めなくなった結果・・・の悲劇。
年下ながらレコーディング知識にも長け、プロデューサー的な能力も
発揮してきたアンディは、必死に押さえ込もうとしたんだろうが、
かえって逆効果となり、メンバーの反発を招く結果に。
温厚で知られるサイモン・カークが、後のインタビューで
「アンディの才能はピカイチだったが、人を見下すようになっていた」と
言う程だから余程の事だったんでしょう・・・。

音楽への若き情熱に溢れていながら、その熱心さ、溢れる才能ゆえ、アンディは
グループの崩壊を自ら推し進めてしまったのか。
結局フリーは、1971年の初来日公演の後に解散してしまう。
決定済みだったアメリカツアーも追い打ちになったとの事。
疲れ切った彼らは「とても回れない」と、米ツアーもキャンセル・・・。
※来日前、すでにグループ内で解散は決まっていたんだそうな。