あるBOX(改)

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追悼:アンディ・フレイザー(6)

2015年03月25日 | 英国ロック
周囲の期待は、FREEの楽曲を作っていたロジャースの「Peace」と、
フレイザーの「Tobby」に向けられたが、
いち早くアルバムを作ったのは「Kossoff、Kirke、Tetsu、Rabbit」だった。

コゾフは来日公演時にアラン・メリル(NY出身。来日して渡辺プロと契約、
日劇ウェスタンカーニバルにも出演)と知り合い、元サムライのテツ山内と
ジャムセッションを体験しており、いみじくも一番早く新グループの準備を
進めていたのだ。
※深酒して皆で彷徨いたりしてたそうだが。勿論コゾフはクスリもやってたと…

一方ロジャースは新バンドで作った曲を英国国営(BBC)ラジオで演奏したり
していたが、リードギター兼任が予想以上に重荷になっていた。



フレイザーは「バンドを固め、自分の喉も鍛える必要もあった」と慎重に事を
進めており、アルバム発表も演奏お披露目も成し得ていない状況。

そんな中、カークやラビットは
「誰が歌う?誰がやってもロジャースと比較されるぞ。オレは歌いたくない!」
と言いつつ、なり手がいないと見るや居直って歌い切り、アルバム1枚分の
曲を作ってしまったのだ。



アルバムはフリー不在の寂しさもあってかファンに支持された。
しかし、その成功の反面、ポール・コゾフの薬物摂取量は増えて行き、
ヤク中まっしぐらとなっていた。

アイランドのスタッフは「コゾフにとってFREEは総てだった。全宇宙だったんだ」
・・・と、後に述べたが。
転げ落ちるようなコゾフを救う手立ては無かった。

それでも「なんとかコゾフを立ち直らせたい!」という思いから、
「FREEの再結成」の提案がなされた。

それはフレイザーからとも、ロジャースからとも言われる。
確かにポール・ロジャースも、アンディ・フレイザーも、新しいグループが
上手く行ってるとは言い難かった。

そしてFREEはファンの歓迎を受けて再結成された。

しかし、コゾフの薬物障害は深刻だった。
マンドラックスという、コゾフが目がない薬物は後遺症もキツく、突然
てんかん症状が現れたりするという。

そんな症状がステージでも控室でも現れるコゾフではあったが、なんとか
好調時を見計らって再結成アルバム「FREE AT LAST」は制作された。



もうフレイザーもロジャースもコゾフに指図しなかったというが、サウンドは
中低域をサポートする役割を放棄したかのようなコゾフのギターが
泣き叫ぶような物で、ある意味で聴いていて辛い1枚でもある。

楽曲はそれぞれが持ち寄ったが、共作の形がとられた。
良い曲は揃っていたが、シングルカットされた「リトルビット・オブ・ラブ」は
スマッシュヒットに終わった。



結局「FREE AT LAST」は、オリジナルFREE最後のアルバムとなった。
FREEを再編してもコゾフの状態は良くならなかったのだ。

例えれば、酒に溺れる夫から離れた家族がいたとしよう。
それによって自暴自棄になった夫の元へ、見かねた妻と家族が
戻ったとしても どうなるのだろう。
やはり夫は酒を飲むだろう。根本的な問題は家族が揃っていた時期から
始まっていたのだから。

「FREEをもう一度やりたかった。でも、やさられてるだけのような気もした」
コゾフの心情は簡単では無かった。

FREEを再編するだけで救えると思ったロジャースとフレイザーは余りにも
若かった。
薬物をやめられないコゾフがステージ上で倒れ、コンサートをキャンセル
せざるを得ない事も度々となった。

ポール・ロジャースとアンディ・フレイザーに再び仲違いが始まった。
緩衝役を務めてきたカークにも限界が近づいた。