「アンディの腕が戻れば、あの頑ななヴォーカリストの考えも
変わるかも知れない」
「インタビューでも『弾きすぎないギタリストがいれば』と
柔軟なことを語り始めたし」・・・と、私の希望は膨らんだ。
元々、FREEの再結成は無くてよいと私も考えていた。
金のために再結成して老残を晒したバンドもあるからだ。
それにポール・コゾフの代わりは誰もおらず、
※コゾフのギターは「泣く」だけではなかった。震え、叫び、
吼えたりもした。そんなギタリストは空前絶後だ
コゾフのいないバンドがFREEと名乗るのには多くのファン・
関係者が違和感を覚えるのは間違いなかった。
それなら、「ロジャース、フレイザー&カーク」としてゲスト・ギターを
迎えてステージを踏めば良いでは無いか。
そんな事を本気で考えた。それでも充分すぎるライヴが期待できた。
2010年バッド・カンパニーで来日したロジャースの声も衰えていなかった。
最終日にFREEの曲「ビー・マイ・フレンド」を歌ったロジャースだったが
それは熱唱を超越した凄まじいものだった。
一曲だけではあったが、それは全盛期のアルバム「FREE LIVE!」に
勝るとも劣らない歌唱だった。
アンディのベース・プレイも復調してきた。
カークの「ヘロヘロになるまで叩く」姿勢も健在だった。
もし、「ロジャース、フレイザー&カーク」の日本ツアーが実現し
東京・横浜・名古屋・大阪の公演なんて決まったなら、私は仕事を休んで
全公演を追いかける!
・・・そんな夢を見た2013年の終わりだったが
まさか、その2年後にアンディの逝去ニュースが飛び込んで来ることに
なろうとは、思いもよらなかった・・・。
実のところアンディはHIVだけでなく、癌も克服していたと後から知った。
克服といっても再発の可能性が付きまとうのが癌という病だ。
最晩年の彼は、その事も考えつつ音楽活動を活発化させたのかも
知れない。
ステージでもファンや後進が望むFREEの曲を演奏し大いに
沸かせてくれた。
晩年の彼はカリビアン・ミュージックの演奏を楽しんでいたそうだが
自らが最も輝いていた頃の曲を、その頃を知るファンに届けて
くれたのだろう。
ありがとう、アンディ。
あなたが演奏する「Mr.Big」を、数メートル先で見る事が出来たのは
私にとって大きな感激だった。
私の「夢」は永遠に潰えてしまったが、あなたの名曲と名演は永遠に不滅です。
R.I.P. Andy Fraser
変わるかも知れない」
「インタビューでも『弾きすぎないギタリストがいれば』と
柔軟なことを語り始めたし」・・・と、私の希望は膨らんだ。
元々、FREEの再結成は無くてよいと私も考えていた。
金のために再結成して老残を晒したバンドもあるからだ。
それにポール・コゾフの代わりは誰もおらず、
※コゾフのギターは「泣く」だけではなかった。震え、叫び、
吼えたりもした。そんなギタリストは空前絶後だ
コゾフのいないバンドがFREEと名乗るのには多くのファン・
関係者が違和感を覚えるのは間違いなかった。
それなら、「ロジャース、フレイザー&カーク」としてゲスト・ギターを
迎えてステージを踏めば良いでは無いか。
そんな事を本気で考えた。それでも充分すぎるライヴが期待できた。
2010年バッド・カンパニーで来日したロジャースの声も衰えていなかった。
最終日にFREEの曲「ビー・マイ・フレンド」を歌ったロジャースだったが
それは熱唱を超越した凄まじいものだった。
一曲だけではあったが、それは全盛期のアルバム「FREE LIVE!」に
勝るとも劣らない歌唱だった。
アンディのベース・プレイも復調してきた。
カークの「ヘロヘロになるまで叩く」姿勢も健在だった。
もし、「ロジャース、フレイザー&カーク」の日本ツアーが実現し
東京・横浜・名古屋・大阪の公演なんて決まったなら、私は仕事を休んで
全公演を追いかける!
・・・そんな夢を見た2013年の終わりだったが
まさか、その2年後にアンディの逝去ニュースが飛び込んで来ることに
なろうとは、思いもよらなかった・・・。
実のところアンディはHIVだけでなく、癌も克服していたと後から知った。
克服といっても再発の可能性が付きまとうのが癌という病だ。
最晩年の彼は、その事も考えつつ音楽活動を活発化させたのかも
知れない。
ステージでもファンや後進が望むFREEの曲を演奏し大いに
沸かせてくれた。
晩年の彼はカリビアン・ミュージックの演奏を楽しんでいたそうだが
自らが最も輝いていた頃の曲を、その頃を知るファンに届けて
くれたのだろう。
ありがとう、アンディ。
あなたが演奏する「Mr.Big」を、数メートル先で見る事が出来たのは
私にとって大きな感激だった。
私の「夢」は永遠に潰えてしまったが、あなたの名曲と名演は永遠に不滅です。
R.I.P. Andy Fraser