吉野ヶ里遺跡は、700年間も続く弥生時代の集落の跡。
日本の城の起源ともされる吉野ヶ里は、
日本100名城の一つに数えられています。
「城」がなぜ生まれたのかを考えさせられる遺跡です。
広く稲作が行われるようになった弥生時代。
水の権利などをめぐって戦いが起きるようになり、
外敵から集落を守るために、周囲に濠を巡らした
「環濠集落」が作られるようになったそうです。
これが城のルーツと考えられているのです。
吉野ヶ里を治めていた歴代の王の墓と考えられています。
弥生時代中期、紀元前2世紀のもので
見つかった甕棺に玉や剣が一緒に収められていました。
祀堂は、先祖の霊に毎日お供え物を捧げ、
お祈りをするための施設と考えられています。
北内郭は、神聖で最も重要な場所と考えられています。
田植えや稲刈りの日取り、お祭の日を決めたり、
大きな「市」を開く日を決めるなど
儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていました。
まっすぐ入ってこられないような構造をし、
周囲を囲む2重の環濠となっています。
主祭殿の2階では、吉野ヶ里のクニの重要な会議が開催中。
吉野ヶ里の王やリーダー、周辺の村々の長が、
集まっているようです。
この建物が主祭殿、
3階は祖先の霊のお告げを聞く祈りが行われ、
結果は従者により、2階で会議中の
王やリーダーに伝えられます。
東祭殿は、太陽の動きを知るための建物。
季節ごとのまつりがおこなわれていたと考えられています。
南内郭は、王やリーダー層の人々が住んでいた場所。
当時としては極めて貴重な鉄製品が数多く見つけられたり、
物見やぐらや竪穴住居が中心のためにそう考えられています。
竪穴住居が王の家です。
屋根は炉の煙をぬく穴があり、煙でいぶされた屋根は丈夫で長持ち、
夏は涼しく冬は暖かい半地下、まわりに溝があるので、
雨が降っても水が入りにくい工夫もされています。
弥生時代のファッション、オシャレな感じがします。
今もチュニックの流行は続いていますが、
弥生時代の王族の服装と変わらないのですよね。
城地種類:平城(環濠集落)
築城年代:弥生時代
吉野ヶ里歴史公園
佐賀県吉野ヶ里町田手1843
2012.3.3