備 忘 録"

 何年か前の新聞記事 070110 など

団塊世代の生き方

2010-09-12 20:57:10 | 評論

Kodak DC4800

'07/08/20の朝刊記事から

団塊世代の生き方
残りの人生 老いる見本に            作家 高村 薫


2007年もすでに8月を迎え、ひところ騒がれた団塊世代の大量退職時代という危機は、産業界からも一般社会からもしばし遠ざかった感がある。
かくして世の関心は移り変わり、生産現場のニーズも移り変わるが、団塊世代が1日1日年を取り、老いてゆく事実が消えたわけでなく、彼らの抱える厖大なエネルギーが新たな行き先を得たわけでもない。
ただ問題が潜在化し、社会から消し去られただけである。

そもそも、団塊世代の大量退職は、主に生産現場において、彼らのもつ技術が次世代に継承されていないという危機が表面化したことで注目された。
これは、短期的な利益にとらわれて十分な若手の採用を怠ってきた企業の、深刻な経営戦略の失敗であり、とりあえず定年延長や嘱託雇用というかたちで当面の危機は回避されているが、長い目で見れば、日本のモノ造りの斜陽を予感させる憂鬱な現実ではある。

また一方、団塊世代の大量退職は、彼らの受け取る退職金を当てにした投資ブームや、「セカンドライフ」なる新たな消費によって注目されもした。
そこでは、定年後の人生は豊かで明るく、現役時代にできなかった趣味やレジャーを楽しむ充実した60代が、これから社会に大量に出現するといったイメージがつくられたのであるが、企業が描いたそのバラ色のイメージには、老いも病気も死もない。

社会へ影響大
団塊世代がもつ社会的な意味とは、何事につけその数の多さによって、その事柄が社会的な影響を持たざるを得ないほど大きくなる、ということである。
彼らのもつ資産はたしかに厖大であり、総体的に見れば企業にとって巨大なマーケットにはなろう。

しかしまた、彼らは早晩、社会福祉の対象となる層であり、人口減少社会で労働力にならない高齢者の山を築くのである。
しかも行財政の制度疲労がたまり、産業構造の本格的な転換もそう簡単には進まないこの国の過渡期に、彼らは老いてゆく。

このように団塊世代の今後は、まさにすべての世代にかかわってくるのであり、21世紀前半の日本社会の姿を決定づける現象としてとらえなければならない。
彼らの運命は、下の世代すべての運命である。
彼らが幸福に生きることができなければ、わたくしたちも幸福にはなれない。

さて、団塊世代の立場に立ってみると、その実態はメディアが一括りにするほど均一ではない。
仮に満額の厚生年金を手にしても、この世代は子どもの自由を尊重したため、まだ子どもが独立していない人も多い。
30代で家を購入した人はまだまだローンに追われ、「セカンドライフ」を楽しむ余裕はない。
また、国民年金の受給者層は60を過ぎても働かざるを得ず、悠々自適とは生涯縁がないと思われる。

生活も縮小へ
またさらに、なけなしの貯金は介護が必要になったときの資金に置いておかねばならず、貯金がない人は、早晩自宅の処分も考える必要に迫られよう。
この国は老いにお金がかかる社会であり、将来的にこの傾向がさらに進む現実から目をそらすことはできない。
安定した老いは大部分、老いる者自身の責任である。

しかしまた、こうした経済的条件以上に、団塊の世代が考えなければならないのは、残りの人生の長さである。
病気や老衰で身体が動かなくなる年月を5年ぐらいとしよう。
それを差し引くと、彼らが社会的存在でいられる年月は、平均寿命から考えて10数年である。
これを長いと見るか、短いと見るか。
60にして己が人生の残りを数えるのは厳しいことだが、これを数えずして60からの生き方などはない。

定年後に再就職する人も、一念発起して起業する人も、残りの人生の長さを考えたとき、それなりの働き方が生まれるはずである。
定年後も第一線にしがみつくのではなく、むしろ下の世代の隙間を埋めるような働き方に変えてゆくのが第一歩だろうと思う。
そうして自身の社会的役割を縮小すると同時に、生活全体のサイズをも少しずつ縮小し、物理的にも身軽になってゆくべきである。

数の多い団塊の世代が一斉に老後に突入してゆくとき、わたしたちはこの国で老いることの見本を目の当たりにすることになる。
これが、団塊の世代がもつ最大の社会的意味である.


コメント
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