履 歴 稿 紫 影子
香川県編
八幡神社 2の1
丸亀市の氏神は、亀山上からは西南方に当る郊外に鎮座して居た八幡神社であった。
その八幡神社が、亀山城からどれ程の距離に在ったかと言うことは判って居ないのだが、亀山城が軍に解放される祝祭日の日に、頂上へ登った私達が、その西南方の方向を見下すと、遥かなる彼方に鎮守の森が見えたのを私は覚えて居る。
それは、何かと封建性の強かった城下町としては一寸不思議なことのように私は今も思って居るのだが、八幡神社が丸亀の氏神さまであると言っても、往時の藩政時代は兎も角として、神社そのものが郊外の田圃の中にぽつんと建立されて居たので、その祭典の日とは言っても、市内の子供達を喜ばす催し物と言う物が一つも無くて、田舎臭い玩具や、駄菓子類を売る露天の店が5つか、6つ出る程度であったから、近郷の農家の子供達にとっては楽しいお祭であったかも知れないのだが、市内の子供達には何の興味も無かったので、祭典の日に神社へ参拝する者は、指で数える程の数でしか無かった。
私もこの丸亀市で、4歳から10歳の春まで育った者であったが、その八幡神社の祭典へ参拝したのは只の一度しかなかった。
その日の私は、「あんな遠い所へ」と言った気持ちで、とてもじゃないが行きたくなかった者ではあったが、「お前は未だ一度もお参りしたことがないのだろう」と、無理から父に連れられて渋渋ながら参拝をした者であった。
その年代については全全私は知って居ないのだが、生駒と言う大名が亀山城の城主であった時代に、田宮坊太郎と言う孝子が居て、その坊太郎が、この八幡神社の境内で亡父の仇を討ったと言うことが、言い伝えられて居た。
そして、その坊太郎の名が予讃線の丸亀駅前に、”名物坊太郎餅”として残されて居た。
大名時代の祭典には、城主を始め藩士の人達が主体になって、いとも壮厳に取り行われたそうであったが、私達親子が参拝した時には、ポツンと市街から離れて居た関係か、参拝をする人の数も疎らな、それは恰も田舎のお祭風景でしか無かったように覚えている。
併し、市内では仮装行列、ダンヂリ、花車等が市中を練歩いて、とても賑わって居た。
また仮装行列は城下町と言う特殊性がそうさせるものであったかも知れないが、忠臣蔵の赤穂義士とか加藤清正の虎退治と言った武士の万能時代を装った者が多かった。
当時、私達がダンヂリと呼んでいた物は、四輪の木車の台上に、技巧を凝らした彫刻がしてあったが、一寸小形の御堂を乗せたような感じのする車を、その堂内で囃す鐘の音に拍子を合せた、町内の若衆達が揃いの湯形に鉢巻姿で、綱を曳いて、市中を練歩くのであったが、台上の御堂の四方には、金糸銀糸で刺繍をしてあった、勇壮な豪傑の絵姿が、車の動揺につれて揺れて居たのが、私達少年にとってとても魅力的であった。