履 歴 稿 紫 影子
香川県編
第四の新居 3の1
私が四年生になった春に、私達は第四の家に引越した。
この第四の家は、嘗て私達が住んで居た第二の家から約50米程離れた所に在って、その第二の家から右に行き当った所に門を構えた東向きの家であった。
門を這入った所の左側には亭亭とした五葉の松が1本あって、門から本屋までが、敷石伝いに5米程で玄関になって居た。
また、玄関を這入ると其処は、1坪の土間になって居て、その右側に6畳間があった。
そしてその奥が10畳間の座敷になって居て、父はその10畳間を居室にして居た。
この家の座敷も、第一の家と同じ程度に凝った造作をしてあったが、築庭は縁側から外塀までが5米程しか無かったので、きわめて小規模な庭であった。
玄関から上った6畳間の左隣が、同じ6畳の茶の間になって居て、その右隣の10畳間が、母や私達兄弟の部屋であった。
また、この家も玄関の土間が一間幅で、そのまま勝手口へ通って居た。
この家の炊事場は、この突き当たった土間に設けられて居たので、台所と称する部屋は別に設けて無かった。
また、勝手口は土間を突当たった左側に在って、外塀との間隔は、ここも5米程しか無かったのだが、勝手口を出た塀ぎわには、無花果と渋柿の木が1本ずつ植って居て、その季節ごとにそれぞれ沢山の実をつけて居た。
無花果が紫色に熟す頃になると、兄と私はそれぞれその実に、これは誰、これは俺と言うように目印をつけておいて、熟した順に自分の目印のついて居るのをもぎ取って食ったものだが、その独特の味が今も私の舌に残って居る。
また、渋柿も沢山の実をつけるのだが、黄色に熟しても、渋くてとても食えなかった。
併し、枝でブアブアに爛熟をした物は、とても美味かった。
私達兄弟は、毎日のように柿が枝で爛熟するのを待って居たのだが、全部の実がそうなるのでは無くて、その数が、きわめて少数であったことと、烏がその爛熟するのをいつも狙って居たので、その烏に先を越されて、私達にはいくらも食べられなかった。