某甲子園常連校が組み合わせ抽選後の出場辞退。夕方の通勤時に駅の売店の夕刊紙の見出しに「辞退」の二文字。何事か・・・と帰宅してすぐにネットで確認すれば、要するに不祥事を隠して出場しようとしていたら、外部から投書されて不祥事が明るみになり、結局は辞退せざるを得なくなったということ。
監督の涙は筋違いだ。
結局「悪いことは悪い」という考えでなく、「要はバレなければOK」という判断が破綻したのだ。この学校、あるいは野球部には、甲子園に出ることが一番の正義という風土があるに違いない。
「生徒達が可愛そうだ。」という言葉の裏に、生徒を出汁にした己の正当化が透けて見える。監督として権限と責任をもち、時に生徒の将来の人生にまで影響を与えていたかもしれない人間がこの期に及んで言うべき言葉ではない。生徒を可愛そうな目に合わせたのは自分の誤った判断の故なのだ。
「生徒達に申し訳ないが、悪いものは悪い。」と、どうせ辞めるなら、大会前に潔く辞めるべきだった。それが高野連が偉そうに繰り返し吼える「高校野球は教育の一環」なのだから。
とはいえ、何かというと「連帯責任」として一部の過ちを部全体を罰するのもいかがかと思う。高野連は「チーム競技」、「教育の一環」だからというお考えなのだろうが、一方で教育として大切な観点、個々の自律性、個々の責任感といったものに必ずしも良い影響をもたらすとは思えない。特に有名校の人数が多く、野球部内の競争も厳しいところなどはなおさらだ。
せめて、替わりに出場する学校には郷土の誇りを取り戻せるよう、潔く精一杯頑張って欲しいものだ。
監督の涙は筋違いだ。
結局「悪いことは悪い」という考えでなく、「要はバレなければOK」という判断が破綻したのだ。この学校、あるいは野球部には、甲子園に出ることが一番の正義という風土があるに違いない。
「生徒達が可愛そうだ。」という言葉の裏に、生徒を出汁にした己の正当化が透けて見える。監督として権限と責任をもち、時に生徒の将来の人生にまで影響を与えていたかもしれない人間がこの期に及んで言うべき言葉ではない。生徒を可愛そうな目に合わせたのは自分の誤った判断の故なのだ。
「生徒達に申し訳ないが、悪いものは悪い。」と、どうせ辞めるなら、大会前に潔く辞めるべきだった。それが高野連が偉そうに繰り返し吼える「高校野球は教育の一環」なのだから。
とはいえ、何かというと「連帯責任」として一部の過ちを部全体を罰するのもいかがかと思う。高野連は「チーム競技」、「教育の一環」だからというお考えなのだろうが、一方で教育として大切な観点、個々の自律性、個々の責任感といったものに必ずしも良い影響をもたらすとは思えない。特に有名校の人数が多く、野球部内の競争も厳しいところなどはなおさらだ。
せめて、替わりに出場する学校には郷土の誇りを取り戻せるよう、潔く精一杯頑張って欲しいものだ。