井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

広島大学音楽科定期演奏会

2016-12-04 12:53:00 | 大学


本番当日、午前中のリハーサル前のオーケストラの風景。

去年に続いて、今年も学生を連れて参加させてもらった。
演奏するのは、こうもり序曲とシベリウスの交響曲第5番!
私は生まれて初めて、この第5番を弾く。指揮は鈴木えりな先生。

そして、その後舞台展開をして、



学生の皆さんは吹奏楽を演奏する。曲はショスタコーヴィチの祝典序曲等。指揮は中井先生。

そして合唱も。同じ人間が歌ったり、吹いたり、弾いたりする、目まぐるしい演奏会である。



曲は大中恩の「島よ」。合唱はOBも自由に参加する。指揮は枝川先生。

ピアノや椅子を並べたり、片付けたり、大変な作業を頻繁に繰り返す。
しかし、転換は7~8分で終わる。
この手際の良さ!

それもそのはず、この会場は大学構内の建物。勝手知ったるホールなのである。

ところが、大学所有の建物ではなく、お金を払って借りているのだそうだ。

聞けば聞くほど、いろんな話が出てくるが、百聞は一見にしかず、の世界。

とりあえず3時間後の本番のシベリウス、落ちないようにがんばろう…。

タニタの学食

2016-05-25 19:46:00 | 大学
栄養士が作る食事はおいしくない、という定説がある。

身近に栄養士がいないもので、そんなものかな、と思うだけだったのだが、最近「食物」や「栄養」を専門にもつ大学の学生食堂に行く機会があり、それを実感することとなった。

A大学は食堂を「食育館」と呼んでいる。この学校の発祥が「食物」であり、隣に「体育館」「音育館」と並んでいるので、なるほどと思わずにはいられない。「音育館」も初耳だったが、むしろ何故今までその呼び名を使わなかったのか、とまで思ってしまう。

その食育館に掲げてあるスローガン?「一汁三菜」 それを乗せるトレイは、室町時代標準サイズのお膳と同じ大きさで云々とのこと。

いやはや、ここで食事すると、本当に「私は食べ物に育てられている」実感を持つ、まさに食育館、である。

片やB大学、ちょっと前まで「一汁二菜」だったはずだが、A大学を意識したか、大学の生き残りを食堂改善に託したか、わからないけれど、最近改修して、こちらも「一汁三菜」になっていた。

さらに「タニタ食堂提供メニュー」などというコーナーもできていた。食堂にかける情熱が感じられるところだ。値段は500円也。

これで、学生に大人気、ならば大成功。 しかし、実態は……

タニタ食堂のコーナーには誰もいない。

それはそうだろう。一汁三菜のランチは400円台で食べられるのだ。しかも、大半が女子学生の大学。ランチのセットでさえ量が多く、麺類程度で済ませる学生が一番多い。

栄養士養成には、とにかくそこに存在することが大事、という考え方なのだろうか。

何だかわからないけれど、いずれにしても食欲がそそられないので、400円ちょっとのカツ丼を食べる。おせっかいにもレシートに、野菜類が全く足りていない旨の表記があった。

ほっといてくれ!労働の後は、体に悪かろうが、おいしいものを食べたいのだ!

東大と芸大を卒業すること

2015-12-18 00:25:58 | 大学

今月始め、広島大学の定期演奏会というものに、半ば無理やり参加させてもらった。いわゆるサークルの定期演奏会ではなく、授業の延長線上の催しで、第41回ということなので、かなりの伝統を持っている。(かつて開かれなかった期間もあり、実際には60年以上前から開かれていたそうだ。)

ことの発端は、私が面倒を見ている学生が「よそでも演奏したい」と言いだしたことからなのだが、私自身も以前からかなり興味を持っていたのは確かだ。

教育学部で、まともなオーケストラの授業ができているところは、今や全国に10前後しかない。

オーケストラはパートによって、あるいは職務によって、負担や責任が全く異なる。必要とされる能力もかなり異なる。
その異なる同士が力を合わせて一つの音楽を作る。
これこそ、様々な異なる能力をまとめなければならない音楽の授業の最高のモデルで、本来全大学にあるべきなのだが。

その貴重な存在、成立させるだけで大変なはずなのに、演奏した曲はというと、幻想交響曲だ、レ・プレリュードだと、かなり難しい曲の名前ばかり挙がってくるので、一体どうなっているのだろう、という興味があった。

今回の曲は、フィンランディアと新世界。断っておくが、教育学部の授業のオーケストラというのは、大半が大学に入学してから楽器を始める初心者集団である。彼らも二言目には「副科のオーケストラですから」を連発していた。
それは百も承知。その初心者集団が、フィンランディアはともかく、新世界をやる!?

正直言って、演奏水準の点では全く期待していなかった。そこをどこまで切り抜けていくのか、という様子を見たかったのだ。

ところが、予想に反して、演奏水準は結構高かった。立派に一般的アマチュアオーケストラのレベルに届いていた。これはショックだった。

私は、弦楽器が難しい曲は基本的に取り上げない。なので、今年はホルストの木星やラヴェルのボレロをやったけれど、両方とも弦楽器はかなり易しい。実質数カ月の授業では、これが精いっぱいだろうと思う。

一方、広島大学では年間を通した授業が開かれ、学生が自主的に週1回のパート練習をしているという。これが大きい、と彼らが言っていた。

なるほど、私のところの4倍以上の時間をかけて練習すれば、ここまでできるということか。

驚いたのはこれだけではない。
この定期演奏会、最初に吹奏楽があって、次に合唱があって、最後にオーケストラなのだ。
私の隣のヴァイオリン学生は、その前アルトを歌い、そのまた隣のヴァイオリン学生は、最初にサックスを吹いていた。

管楽器専門の学生も、余ってしまったら弦楽器をやるのである。

これはさすがに、それだけの楽器を保有している大学でしかできない芸当だ。

ここで思い出されたのは、かつていらしたハヤカワ先生のこと。
東大管弦楽団に所属されていた時に、全ての楽器を演奏経験したと聞いている。
そして、東大を卒業されると芸大の作曲科へ進まれた。

ところで昔、指揮者の故岩城宏之さんが「芸大を出てから東大に行くなら凄いけど、東大出てから芸大に行くやつは○○」みたいなことを、あちこちでおっしゃっていた。

少なくとも昔は、東大出て就職先が無いことは考えられなかった。そして芸大出て就職できないのは昔も今も変わらない。

そう考えると、何を好んで芸大へ、というのは当然の考え方である。

が、この期に及んで、このような場所の先生としては最高の人材だと言うしこないことを悟らされた。

学校の音楽の先生は何でもできるのが理想型だ。となると、その理想をさらに追求していくと、東大も芸大も出るというのが究極の姿になる。

それの後代の学生への影響はさすがに大きい。東大と芸大を卒業する意義を改めて深く考えさせられた体験だった。


料理に例える音楽と音楽に例える料理

2015-12-09 20:04:00 | 大学
入試の日、問題点検という作業をすることがある。

例えば英語教育。英文を英文で要約せよ、などという問題を、大して読めない自分も含めて、数人で点検をするのである。

一応読むと、グーグル翻訳について、そのチームのオックという人のコメントを取材したものだった。

911の時にアラビア=英語のトランスレイターがいなくて、アメリカでは往生したらしい。そこから翻訳開発は急務になる。

やはり親戚同士のような言語、例えばセルビア語とクロアチア語みたいなものはかなり精度を上げられるけれど、アラビア=英語みたいなものは、まだまだとのこと。

最後の方に、インタビュアーが「それではいつか通訳者がいらなくなる日がくるのか」と問うと「オー、それは20年後か、いや50年後、いやいや500年後かも」

と、日本語ならば要約できるのだけれど…。

「そもそも国語とは何を教える教科なのか」とは国語教育の問題文。

例えば数学や音楽など、絶対国語教育ではないというものを除いていった残り、と消去法で考えた方がわかりやすい、とあった。
そして、まず他教科では取り上げられない「文学」が、読本の教材として主流になった…。

こんなことが問題になる分野なんだ…。

家政教育の食物学、「○○という料理を、テクスチュアまで含めて解説しなさい。」

食べ物のテクスチュア?!

ピアノ曲と室内楽曲やオーケストラ曲で、テクスチュアという言葉を時々使う。主に声部が絡み合うときに、テクスチュアが明瞭だとか透明感があるとか表現する訳だが、率直に言って、問題点を指摘する時にしか使わないような言葉だから、ちょっとドキッとする訳だ。

その場にいらした家政教育の先生に、これは何かと尋ねたら、知らない、と言われてしまった…。

が、すぐに携帯電話で調べてくれてわかったのは「舌ざわり、噛みごたえ」、いわゆる食感のことらしい。

そうか、それを文章で説明するのは難しそう。

音楽を料理に例えることは時々ある。楽章で構成されるのはフルコースの料理みたいだとか、テンポルバートは砂糖みたいなもので、入れりゃいいというものではないとか。
そしてdolce(甘く)は立派な音楽用語だ。

では、その逆はあるのか?

このレタスにこのドレッシングだとサンサーンスのテクスチュアのようでとても良いとか、この煮物の味付けではモーツァルトとワグナーのテクスチュアが混在していて良くないとか…

…ある訳ないよな。

問題点検が終わると、事故が起きない限り、超ヒマな仕事なので、こんなことを考えてしまったのであった。

メッチャ気になること

2013-09-14 12:04:10 | 大学

先月の話だが、九州国立大学共同合宿授業というのがあって、そこの講師と引率を引き受けた。昔は文部省からの補助があって、九州・沖縄各県の国立大学が参加していたらしいが、現在は九州、福岡教育、佐賀、長崎、琉球の五大学で行っている。

場所は大分県の九重、国立大学の共同研修施設である。筋湯温泉というのがあって、そこからさらに少し上に上がった(標高1100m)ところにある。元は九州大学の「山の家」。昭和初期にそういうものが必要だろう、ということで九大生が道路作りから始めて作った山小屋だそうだ。さすがに老朽化したので、そこは7、8年前に建て替えられ、往時の雰囲気を残したログハウスになっている。

研修施設は、そこに隣接したコンクリート造りの立派な建物。こちらも昨年度までは九州大学が管理していたとのこと。

今年から外部に委託管理され、そのせいではないだろうが、落雷でポンプがこわれて水が出なくなったり、そのせいでトイレが使えなくなったり、風呂に入れなくなったりと、いろいろ事故もあったけれど、とにかく寒いくらい涼しかったのはありがたかった。

この合宿授業、今年で37年目、堂々たる実績を持っており、なかなか充実した3泊4日を過ごすことができた。今年のテーマは「大学で何を学べるか」、それに沿った形で4コマの講義があり、それを受けて学生達が討論する。中にはそれが深夜に及ぶこともあり(酒も飲まずに!)、そのような大学生達の姿には素直に感銘を受けた。日本人もまだまだ大丈夫!

総体的にはすばらしいのが前提で、気になったことがちょっとだけ。彼らの言葉づかいである。

ところで、琉球大学には北海道教育大学釧路校との交換留学?という制度があるそうで、今回も琉球大学から北海道教育大学の学生が数名参加していた。で、彼らは北海道民かと言えばさにあらず、山形とか群馬の出身。琉球大学本体も学生の出身をきくと、長崎とか東京とか・・・。

なので、九州の大学生の集まりと言いながら、結構全国の規模に近い様相を呈していたことになる。

その全国の学生が、当たり前のように「メッチャ」という言葉をメッチャ使っていたのである。

当たり前だろう、と思う人は関西人だ。関西方言なのだから(大阪弁かもしれない)。

少なくとも20年前、九州人は一人として「メッチャ」なんて言わなかった。目茶苦茶、は使っていたけれど。

すかさず北海道教育大学生に訊いたら、彼らも使うという。

東京でも使っているようだ。

では、沖縄では・・・

使いますね。でも「デージ」と「シーニ」も使うかな・・・

とウチナンチュの琉大生が答えてくれた。(全国の動向が瞬時にわかる合宿であった。)

「デージ」は「大事」、「シーニ」は「死にそうなくらい」の短縮か?と問えば、それはわからないと言う。語源にはあまり興味がないのだろう。私はデージ興味があるが。

「メッチャ」が、どのように伝播していったかはわからない。

ただ、それで思い出すことが一つある。いつのオリンピックだったかを忘れたが、女子水泳で銀メダルをとった選手が、試合後に「メッチャ悔しかったです」と関西弁で言っていた。言ってみれば「方言」で、正直に感情を吐露した訳で、それまでの選手とは、かなり違う印象を残したのは確かだろう。少なくとも私は鮮烈な記憶を持っている。

それまでの選手は「自分をほめたい」とか何とか言っていたなぁ。これはこれでとても日本人的なつつましやかさがあって良かったと思うが。

それに恐らく、関西のお笑い文化が後押しをしている。

以前から、関東の方言を標準語と思いこんで使っている関東以外の人間は大勢いたし、今でもいる。東京の人でも気付かない人(ほとんどの場合が他道府県人)がいるが、練馬区の言葉と大田区の言葉はほんの少し違っている。

しかし、関西の言葉が全国に広がるケースはかなり珍しいと思う。西日本の人間が総出で、ほうきで「はわいて、なおし」ても、東日本の人間は「掃いて、仕舞う」のだ。

ところが、オリンピック選手の一言が、このように強い力を持つ・・・のか・・・どうか・・・

全く確証はないのだが、私にはそう思われて仕方がない。

7年後に東京オリンピック開催が決まった。

意外なところにまで影響が残る、大イベントになるはずだ。シーニ楽しみにしていよう。