井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

LP時代の常識を復習(伝承か?)

2011-04-22 23:12:16 | ヴァイオリン

私達が常識と考えていたことが古くなるのは当然のこと。現代には現代の常識がある。昔の常識にとらわれる必要はない。そんなこと知らないで良い,と思っていた。

ところが「知らない」がゆえに,とんでもないことが起きていることも知った。

なので「昔の常識」をここで復習したい。

DVD「アート・オブ・ヴァイオリン」の解説によると、20世紀のヴァイオリニストの最高峰をそれぞれで思い浮かべても、奇妙なほど意見が一致するとのこと。例えば声楽では「あり得ない」とされている。ヴァイオリン関係者からすれば、以下のヴァイオリニストが最高峰なのは「当たり前」なのだが。

・ハイフェッツ

・オイストラフ(ダヴィッド)

・ミルステイン

・メニューイン

それに、時々スターン

全員ユダヤ人だ。

この皆さんが神格化されているのは当然なのだが、皆さんオールマイティではなかったのも、昔の常識である。

例えば四大協奏曲のLPで評価が高かったのはオイストラフとスターン。ハイフェッツは入ってこない。敢えて言えばチャイコフスキーが映像も残っていて有名だが、アウアー版をもとにしたオリジナル・ヴァージョンなので、ちょっと比較が難しい、というのが理由かな。

ハイフェッツの真骨頂の代表は「チゴイネルワイゼン」、と言っては言いすぎだろうか。もちろん、今はやりのコルンゴルド、私が心酔しているウォルトンはハイフェッツの独壇場・・・などと言いだすときりがない。閑話休題。

常識の話に戻ると、上記の巨匠たち、バッハとモーツァルトに関しては不評であった。誰もあからさまには言わない。これも当然である。世間はそこまで神様であることを要求しなかったし、そんなこと恐れ多くて言えたものではない。

たとえばオイストラフのバッハやモーツァルトはちょっと重すぎの感があり、ハイフェッツやミルステインのバッハは軽すぎの感があった。

で、常識は・・・

・バッハはシェリング

・モーツァルトはグリュミオー

この常識は、1980年代の古楽器奏者達によって、徐々に崩れていく。バッハは途轍もなく速いテンポも可、モーツァルトはガサガサした音色も有りになってきた。その感覚だと、ハイフェッツやミルシテインはそれを先取りしただけだし、クレーメルのモーツァルトだって普通に聞えてしまう。

だけど、ですよ、昔の録音を聴くのならば、上記の常識にのっとって、まずは聴いていただきたいものである。特にコンクールでも受けようなどと考えるのであれば、審査員はその常識で育っている人が大半なのだから、尊重して下さいね。

ああ、おじさんの説教癖が止まらない・・・

コンクールが出たついでに・・・

サンサーンスの協奏曲はグリュミオーの録音を絶対聴いてほしい。これが本来の「フランコベルギー」的解釈なのだ。いまやフランコベルジアンはデュメイが何とかがんばってくれているけれど、ユダヤ勢に今にも消されそう。

ユダヤ的解釈のサンサーンスも決して悪くない。しかし本来のサンサーンスでないことは明らかだ。1ページ目は「自由なテンポで」などとはどこにも書いていない。本来まっすぐ進むべき音楽である。

世間のサンサーンスが、そのユダヤ流とフランス流が半々であるならば文句をつける筋合いではない。が、現状はほとんどユダヤ流というのが、私にとっていびつに映る。

ただ、これは「常識」ではないので、フランス流に弾いたからといって、コンクールの点が良くなるということではない。でも、グリュミオーのサンサーンス、端正でかっこいいですよぉ。


すっきりした音楽

2011-04-19 22:52:16 | 指揮

ある指揮者の方とお話していて・・・

「日本人の指揮者って、割とみんな似ているでしょ? OさんとかAさんとか、みんなすっきりした音楽を作るじゃない? そういう音楽を表現するのにサイトウ・メソードというのが合っていると思う」

うーん、Aさんは確かにすっきりしているけれど、Oさんはそうだとは認識していなかったので、この方はそのような認識なのだな、と思ったところで、その場の会話は終った。

ただ、その後「すっきりしている」ことに関して、様々な考えが頭をよぎった。

「すっきり」という言葉は、日本人にとって大抵はほめ言葉だ。「すっきり」の反対を考えればわかる。「どろどろ」「もやもや」「不明瞭」など、いろいろ考えられるが、いずれもマイナス・イメージがつきまとう。

一方「すっきり」とか「端正」、「淡麗」などはプラス・イメージでとらえられることがほとんどだ。

だったら、すっきりサウンドで良いではないか・・・

とはいかないのである。すっきりの反対ではないが、「ねばり」のある表現、これは「すっきり」ではないが、マイナス・イメージでもない。ドイツ・ロマンティシズムやユダヤ的サウンドは「すっきり」ではないし、すっきりしていては物足りないかもしれない。

実際には「波状平均運動」「引き延ばし」「引き出し」等、ねばりの表現もサイトウ・メソードには存在している。が、習得するのがとても難しい。それよりも「わかりにくい棒」の方が所期の目的を簡単に果たしてくれたりする。

ということで、わざと「すっきり」を避ける指揮者もいるのである。

でも、と私は言いたい。

日本人は、やはり「すっきり」が好きなのだと思う。演奏者みんなが「すっきりサウンド」でも良いではないか。それはそれで簡単にできることではないのだから。



チョン様と高校生

2011-04-16 17:54:43 | オーケストラ

4月17日にアクロス福岡で「第3回九州・山口高等学校オーケストラフェスタ」が開かれる。西南学院、福岡女学院、福岡西陵、明光学園、明善、活水、島原、長崎北、熊本、山口中央、という学校から寄り集まって、それぞれの演奏と共に、合同のオーケストラ演奏もある。本番は別件で聴けないので、そのリハーサルを聴かせてもらった。

何と言っても指揮が、あのチョン・ミョンフンなのだ。興味津々である。

曲は3年中心のAオーケストラがドヴォルジャーク作曲交響曲第8番の1、4楽章、2年中心のBオーケストラが「フィンランディア」

各学校から選ばれて来ているから、さすがに最初から上手。若さが魅力的。ノリが良すぎて指揮者を追い越す暴走場面も時々あって、チョン様苦笑いも。

全体に、音楽の流れを重視する作り方と見た。そして流れ過ぎて印象が薄くならないように、要所要所で手綱を引く、という感じだ。

説明は英語で、通訳もついたが、かなり歌って説明していたし、チェロパートには実際に声を出して歌わせる場面もあった。

教育的側面を意識してか、指揮者としては、かなり長時間、話をしていた。 一般的な話が多かったが、一番印象的だったのは 「私は内なる声inner voiceを聴くことに興味がある」という言葉。

そのせいかどうかはともかく、非常に粘り気の強いサウンドを引き出すことに、労力を費やしていた。

いずれにせよ、高校生の頃にこんな経験ができるなんてうらやましい限り。

明日の本番の成功を祈ると共に、高校生の皆さんには、この体験をステップに、さらに羽ばたいてもらいたい。


春の音楽展2011 in 北九州

2011-04-14 00:04:04 | 井財野作品
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 去る3月27日(日)、北九州市で「春の音楽展2011 in 北九州」が開催された。久しぶりの北九州開催(小倉北区ムーブホール)、しかし今回は子供のためのピアノ作品という初の企画である。北九州市とその周辺地区在住の子供たち、総勢40名ほどにより、8会員の作品が演奏された。独奏と連弾が交互に配置されたプログラムに従い、幼稚園児から大学生にまで至る子供たちにより、まさに初々しい演奏が展開された。

 今回の演奏者は、ほぼ全員「北九州バスティン研究会」というピアノ指導者の集まりに所属する先生方の生徒さんになる。この先生方には子供たちの指導だけではなく、演奏会の運営にも携わっていただき、この協力なしでは成立しなかった。ここで改めて謝辞を述べたい。

 また特筆大書すべきは、事前に2回開かれた、会員による作品講習会である。作曲者から直接、指導を受けられるとあって、子供たちにとっても指導者にとっても貴重な機会となり、また作曲家協会としても格好のアピールができたのは大いなるメリットであった。

 講習会の様子は本番会場のロビーにも子供たちのメッセージと共に展示されたが、この講習会こそが今回最大の評価を得たと言ってよいだろう。ぜひ来年もとの呼び声が高かった。

 好評のうちに終了した春の音楽展、だが反省点も少なからずある。最大の問題は、主催である作曲家協会の存在感が運営面で希薄であること。福岡で開催すると、なぜか会員が「ゲスト化」してしまう状態が、かなり昔から続いている。会員数が少ないので止むを得ないところもあるのだが、改善の努力が必要であろう。


技術と音楽性

2011-04-10 07:48:36 | ヴァイオリン

「音楽性」という、曖昧模糊とした用語がある。欧米語にもあるから、その訳語なのだろう。一体何を指して言うのか?

おおまかには、「歌心」とか音楽の「構成力・構築力」などを総称しているようなところだろうか。音楽に対する「意欲」や「意志」も含まれるかもしれない。

このように定義が漠然としているにも関わらず、便利に使ってしまう言葉だ。

例えば先日、中学生数名の演奏を聴く機会があった。

ひらたく言って、なかなか上手い。

ところが「指弓やってみて」「マルトレは?」とやらせてみると、まるでできない。

こういう時「音楽性は優れているけれどね・・・」と言う訳だ。

つまり「技術」の対義語として扱われることがよくある。

この中学生達、技術はあまり身についていないのに、それは見事にヴァイオリンを弾くので、かなり衝撃的だった。

それなら別に、いわゆる「技術」がなくても問題ないのでは、と思っても不思議ではない。

あるところまでは、それで進めると思う。しかし、その先、どうしても本物に聞えない瞬間が出てくる。ここが技術の裏付けの有無に関わるところなのである。

いわゆる「音楽性」のみで突き進むと、技術の壁に阻まれた時のショックが大きすぎるので、やはり「技術」面での訓練も同時に進めるのが理想的だろう。

実は、私も子供の頃、「音楽性はあるから、もっと技術を」とよく言われた。

「音楽性は後でも身に付くのだから、まずは技術をみがいて」という助言もよく聞いたことがある。

一方「技術は後からでもできるから、まずは音楽性を育てて」という助言も同じくらい耳にした。どっちやねん?

多分、どちらも間違いではない。誰でも、どちらかが先行するのが世の常だから、どちらかが遅れをとるのは当たり前だ。

とにかく両方必要だし、どちらかを先に身につけておかなければ、ということは無いと考える。

練習している方々は、そのあたりのことを念頭において学習することをお勧めしたい。