先日、久しぶりにドヴォルザークの新世界を演奏した。
実にユニークな解釈で、オーケストラ側は徐々に不満がつのり、ひょっとしたら最悪の事態かも、と私を含め多くの人間がそう感じた。
しかし、
本番前日になって、急に面白くなってきた。デフォルメした部分が、ようやく様になってきた感じがした。
相変わらず、抵抗を示す人が大半だったけど、
「盛り上がっているじゃない。だから良いよ。」
「新世界で盛り上がらないってありますか?」
あるんだなぁ、これが。
1回だけあった、盛り上がらない新世界。今となってはある意味貴重な体験だが、その時の聴衆には迷惑な話かもしれない。
とは言え、これはアマチュアオケの話。
さすがにプロオケでこういうことはない、と思うが、私が子供の頃は若干あったのである。
昭和40年代中頃、世界文化社というところが豪華装丁の名曲全集みたいなものを出していた。
名曲の解説、背景を中心にグラビア写真をたっぷり使った贅沢な作りで、その文章から得た知識が、今日の私の基礎になっている。
それに1枚のLPレコードが付いている。出版社のキャッチフレーズだとモントゥーやミュンシュ、ギレリス、シェリング等の世界の一流の演奏をご家庭に届ける、とか何とか書いてあったように思う。
その20数年後にはカラヤン、バーンスタインがもっと安い値段で家庭に入り込むことになろうとは、当時想像もつかなかったはずだ。
それでミュンシュの「幻想交響曲」が聴けるのなら万々歳なのだが、そのような世界の一流が演奏しているのはシリーズの范文雀、ではなくて半分弱。残りは日本人演奏家によるものになっているのが、いかにも「昭和の企画」という感じがする。(そうやって日本人は仕事を作ってきたのだ。)
そしてベルリオーズ作曲「幻想交響曲」を演奏しているのは若杉弘指揮読売日本交響楽団(だったと思う)。
おっ、なかなか素晴らしい演奏者ではないか、というのは1980年代にはいってからの評価、1970年の若杉=読響は、
大阪万博ではグレの歌を日本初演していたりするのだけれど・・・
一言で言えば「かゆい所に手が届かない」演奏。別の表現をすれば「盛り上がらない」のである。そしてミュンシュ=ボストン響などを聴くと、日本人って全然及ばないんだな、などと生意気な中学生はため息をついたりした・・・。
そのわずか10年後には、自他共に認める名演として三石=読響が幻想のLPを売り出したりするのだ。その頃はすでに「本番で燃える読響」になっていた。
経済だけではなく、文化も高度成長を遂げていた、それがあの時代だった訳だ。
「幻想で盛り上がらないってあるんですか?」
あったんです、ちょっと昔。そういうことを訊いてくる人がいるほど、日本は成熟した、と考えよう。