メンデルスゾーンの協奏曲のレッスンをする機会はとても多い。現在も数名にしている最中だ。こう多いと、教える側も同じ教え方では「飽きて」くる(のは私だけか?)
一時使った前述の「斎藤式」、決して悪い方法だとは思っていないが、私が「飽きて」しまった。演劇的要素が多分に入り込んでいるので、ちょっと恥ずかしいというのもあるかもしれない。
で、次には全く恥ずかしくない、実にアカデミックな説明を施すようになる。構造を解き明かし、その構造がわかるように演奏する、という方法である。
実は、これも基は「斎藤式」。以前にも「わかる演奏」について書いたが、わかることが何より大事というのは斎藤先生から学んだことだ。
さて、標題の「バールBar形式」、以前にも書いたが、1:1:2の比率による形式のことである。
日本でも「さいた さいた さくらがさいた」とか三・三・七拍子などは、同じ形態と言って良いだろう。本来は詩の形式。
この形式が「わかるように演奏する」には、まずどこがバール形式かを見極める必要がある。メンデルスゾーンの協奏曲を詳細に見てみると、実に「バール形式」のオンパレードだ。ほとんど全てのテーマがバール形式になっている。
ここまで細々とした説明、例えばチャイコフスキーやブラームスには不要だろう。両者とも一気に駆け抜けていく性質の方が強い。メンデルスゾーンの場合は、この構造を把握した上で一気に駆け抜ける必要があると思う。
第一テーマが正確には1:1:2ではなく5:4:8になっているところもユニークな点。
その「破格」も魅力の一つだ。
そして5:4:8は(2+3):(1+3):(1+4+3)になっているのだが、ボウイングと一致しない。そのために案外無視されやすいので要注意だ。
そして(1+4+3)の4の部分は、和声がサブドミナント(4度)になっていることに気をつけなければならない。サブドミナントは「拡大」のイメージを伴う。しかし旋律が下行しているので、何も考えなければ鎮静してしまう。
それは「つまらない」演奏である。
このサブドミナントは気持ちの入れどころだ。一小節間、気持ちを張り詰めなければならない。ところが通常の弓使いでは四分音符5拍分を一弓で弾くので、余計難しい。
気持ちの入れどころで考えれば、最初のトニック2小節間も、音程が上がっていく分、1小節目よりも2小節目の方がテンション高めであろう。
小節ごとのテンションを数字で示せば60,70,80,60みたいな感じかな。
以上、冒頭の数秒間、4小節間の注意事項である。
これは、残念ながらシェフチークのエチュードをいくらやってもカバーできない部分である。だから、シェフチークのエチュードをやれば、この協奏曲が演奏できる、ということにはならない。
ただし、シェフチークのエチュードをやれば指と弓の力は抜群につく。そのためには、やはりお勧めのエチュードだと言っておこう。
最近、チャイコフスキーも復刊されたようである。
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ポピュラー系の作曲の本を立ち読みした。その本には「Aメロはキャッチーでなければならない」とあった。「キャッチーであるとは、覚えやすいということ」だと説明してあった。なるほど。
四大ヴァイオリン協奏曲のテーマは、どれもシンプルで覚えやすい。キャッチーである。これをキャッチーに弾ければ問題はないのだが、実際には弾けない人が結構いる。
筆者にしてみれば、これは当然だと思っている。なぜならば我々は日本人だからだ。気持ちを入れれば歌える、というのは日本の歌に限ると思う。
でも、自然に歌えてしまう人がいるのも事実だ。うらやましい存在である。
しかし、師匠曰く、
歌い方を計算して歌えば、自然に歌える人よりも説得力のある音楽ができる。
おお、何と心強いお言葉! 以来、この言葉を金科玉条にして今日まで生きることになる。
では、どのように計算するのか。
いろいろやり方はあるだろうが、ここではまず斎藤秀雄先生の方法をご紹介しておこう。
まず感情を表に出す部分がある。「いやぁ、いい天気だねぇ。」
次にそれを裏付ける説明をする部分がある。「雲ひとつないし、太陽はキラキラと輝いているし」
そしてまた感情表現、「何だか嬉しいなぁ。」
その後、それを説明・・・
といった具合に、ほとんどの音楽は交互に、そのような構造になっている。あまりそうでなくても、あてはめていくと、結構あてはまってしまう、という次第。
メンデルスゾーンで言えば、最初の4小節が感情表現、次の4小節が説明部分、そして4小節がまた感情、その後説明、ということになる。
そして感情表現の部分はメロディーの山や谷を強調して歌い、説明部分では「話しているように」発音をはっきり、インテンポで表現、という訳だ。
結構使えるワザである。お試しあれ。
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乾坤一擲(けんこんいってき)とは、天(乾)か地(坤)かわからないけれど運命を賭けようという意味。
メン魂一擲とは、最初で全てが決まってしまうけれど、万事を尽くしてかけぬけて終ろうという意味。(冗談です。)
最初をどう演奏するかで大体決まってしまうというのは、どの曲でもあることだが、四大ヴァイオリン協奏曲を比較すると、メンデルスゾーンは抜きんでてその性格が強いことがわかる。
他の3曲は「序奏」がついていて、序奏の最後にヴァイオリンが登場する。序奏であるからキャラクターは一個である。ベートーヴェンとチャイコフスキーは、とにかく「ドミナント」、ブラームスはとにかく「テンション下げない」、これで乗りきれる。
ところがメンデルスゾーンは、いきなりテーマなのである。しかも数拍単位でキャラクターを変えなければならない。他の3曲は、もっとおおらかにキャラクターが切り替わる。
この「切り替え」ができないと、味わいの足りない曲になってしまう訳だ。
最近、シェフチークが編み出したメンデルスゾーンの協奏曲のためのエチュードを何人かにやってもらっている。
シェフチークの素晴らしいのは、手指の筋肉が鍛えられるところだ。これで、さぞかし素晴らしい演奏ができるか、と思いきや、そんなことはなかった。上述のようなことには、エチュードとしては触れることができない。結局、別個に取り出して説明しなければならないのであった。やれやれ・・・。
ある審査会で、さる高名な音楽家と会う機会があった。○○音楽賞をもらうくらい世間での評価は高い。
審査が始まる直前、開口一番のたまわった。
「サン=サーンスのバイオリン協奏曲って知らないんだよね。全く演奏されないでしょう?」
知らないこと自体は誰にでもあるから、それを云々するつもりはない。しかし、知らないことを恥じるどころか、それを知っていても何の意味もないような口振りは、バイオリン弾きにとっては噴飯もの! だが、そこは抑えて、
「バイオリンを弾く人間はみんな必ずやる曲なんです。メンデルスゾーン並みの美しさはあると思いますよ。ただちょっと音域が低いところがあって、オケに埋もれやすいところもありますが。」
と言うに留めた。
それを受けて、
「チェロ協奏曲はよく演奏されますけどね。」
と言うので、
「チェロ協奏曲より名曲だと思いますよ。」 と私。
「まあ、彼のアイデアは良いから、そういうこともあるでしょうね。」
何をエラそうに! フランス作曲界の権威だったアンリ・ビュッセールは、サン=サーンスのバイオリン協奏曲第3番を、フランス産の全協奏曲の中で、最高傑作に位置付けている。それが全てとは言わないが、そういう見解があって全くおかしくない傑作であることは、論をまたない。
という次第で、この高名なる音楽家に対する私の評価は一旦地に落ちた。
が、ヨーロッパ滞在が長かったことが、伊達ではなかったのだな、と思う瞬間もあったのである。
オペラに向き合う心の姿勢に関する話だったが、
「ドイツとかイタリアはドラマがあるんですよ。日本人にもあります。でもイギリス人(イングランド人?)にドラマは無いんです。薄いんですよ。」
これは別の人との会話を傍で聞いていたにすぎないが、なるほど、と私は膝をうったのだった。
イギリスの音楽というと、エルガーを筆頭に、ホルスト、ブリテン、ウォルトンなどを思い浮かべるが、この辺りはかなり国際化したイギリス音楽だと思う。
一方、どうしようもなくイギリス、の横綱格にヴォーン=ウィリアムズがいる。我々が演奏すると、どうしても明治大正の匂いがしてしまって、どの曲も笑いを禁じ得ない。
変な曲だなと、今まで笑って聞いていたのだが、根本の考え方を改める必要がありそうだ。
上述の見解によると、あれは淡々と演奏すべきなのかもしれない。我々がいつも通り考えると、そこにドラマを見いだそうとするから、勢い演歌以上に泥臭くなることしばしばだ。それはやってはいけないとは言わないが、作曲家の意図とは異なる、ということかもしれない。
さもありなん、テニスもサッカーも競馬もガーデニングもやって音楽を聴こう、などという人が、いちいちドラマチックにできるか、ということだ。全て淡々とこなす、うすーい国なのだろう。
君子の交わりは淡き水のごとし、とは中国の言葉だったと思うが、そうすると、ジェントルマンというのは君子ってことなのかな?
という訳で、気に入らない人物からでも学ぶことはある、という話であった。