井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

「大志の歌」から「4.さんごの宮」

2012-02-29 21:48:47 | 井財野作品

4. 福岡県私立 わだつみ大学付属 さんごの宮高等学校 校歌「さんごの宮」

 ご当地福岡に「さんご」はあるかなぁと思いますが (「産の宮」と「新宮」、新宮の近くに福岡工業大学付属の高等学校はあります)、こういう知識が時としてファンタジーをつぶしてしまう訳で、そのようなことは考えないことです。何せ安野先生も作ったのを忘れるほど美しい詩なのですから。(途中の問い合わせ段階で「それは私が作ったものでしょうか?」と逆に訊かれたことがあります。)

 「さんごの宮」の練習風景



「大志の歌」から「3.仙波山寺」

2012-02-28 19:57:05 | 井財野作品

3. 熊本県仙波山私立 狸化学専門学校 校歌「仙波山寺」

 熊本で仙波山 (洗馬山) と言えば「あんたがたどこさ」です。音楽としては、それをベースに発展していきます。
 色々な化け方、そのコツの伝授で盛り上がり、舞い上がり、最後の瞬間に「化け」て、何気ない日常生活に戻る狸たちでした。

 「仙波山寺」の練習風景





「大志の歌」から「2. 注文の多い料理店」

2012-02-27 20:14:52 | 井財野作品

前記事掲載後、複数の方から指摘を受けました。

本番は3月4日です。

ご指摘下さった方々、ありがとうございました。

また、校歌を 「後日何らかの方法で曲も聞いていただく機会があればいいなと思っています」と書いてあったのは、原書「大志の歌」からの引用で、察するに森ミドリさんの曲をいずれ聞いてもらえるだろう、というニュアンスだったのだな、と今では思います。

森ミドリ版の「大志の歌」は「蝦蟇の歌」もあるようですが、それ以外の歌は全くかぶっていません。

避けて下さったのか、感性が本来違うのか・・・。

では井財野版の2曲目の紹介です。

2. 岩手県立 山猫高等学校 花巻寮 寮歌「注文の多い料理店」

 言わずと知れた宮澤賢治の名作のタイトルです。しかしここでの主人公は山猫の方で、しかもそのご主人は宮澤賢治という設定になっているから、山猫があまり悪役には見えないところが微笑ましいです。

  「注文の多い料理店」の練習風景



「大志の歌」から「1. 蝦蟇の歌」

2012-02-26 21:48:32 | 井財野作品

以前にも紹介した「大志の歌」、いよいよ来る3月4日、初演の日を迎える。

場所は福岡県粕屋町立「サンレイクかすや さくらホール」。都合のつく方は、ぜひご来場いただきたい。開演は14時。

以下、プログラムに載せる解説文である。

 画家で詩人の安野光雅の作品に「大志の歌 /童話の学校 校歌・寮歌」というのがあります。その「まえがき」によると,落語の「がまの油」を聴いているうちに「あ、あたしゃあがまだ、がまなんだ」と思うようになり、「がまでも学校に通う方がいい、そこで勉強して蝦蟇高等学校に受かりました。そこには校歌があるはずだ、無い?ないのか、無ければ作ろうと、空想はそれからそれへと転んでいくのでした。」とあります。

 そのようにしてできあがった34の模擬的校歌・寮歌集が「大志の歌」です。そして、実際には校歌と言うにはあまりにも変化に富んだ、ストーリー性のあるものが多く、そこがこの詩集を面白くしている一因でしょう。

 「後日何らかの方法で曲も聞いていただく機会があればいいなと思っています」と書いてあったのを真に受けて、井財野友人は安野先生に郵便で直談判しました。

 「実は先約があります」との返事にやや落胆しましたが、先約者の曲もなかなかできていない実態もあり「この5曲に限って許可します」とのお返事をいただいたのでした。(その先約者が森ミドリさんだと後でわかり、また冷や汗が出ました。森ミドリさんは昭和50年代NHKニュースセンター9時のキャスターで一躍国民的に有名になった作曲家です。)

 実に人間くさい様々な動物(あるいはそれ以外)の生きざまを、少しでも音楽として伝えられたら、と思います。

1. 茨城県筑波山村私立 蝦蟇高等学校 校歌「蝦蟇の歌」

 校歌というのは、情感たっぷりに歌うようにはできていないのが普通です。ニュートラルな言葉にニュートラルな旋律、ひょっとしたら隣の学校の校歌にも使えるのではないか、と思えそうなものが大半を占めているでしょう。

 この曲も最初はそれを踏襲して、あたりさわりなく始まります。これが段々そうでもなくなってくるところにご注目下さい。

 音楽としては (典型的な校歌と同様に) 言葉の内容にはほとんど関係なくシニカルに、たまにはオーバーに進んでいきます。

「蝦蟇の歌」の練習風景


掃除より楽しいコンクールの練習

2012-02-23 23:51:22 | コンクール

「受験までは少し時間があるし、コンクールを受けるなら今しかないから挑戦してみたいけれど、どのコンクールを受けたら良いでしょうか?」

というような質問を受けて1ヵ月考えた。

というのも、私自身はそのようなことを全く考えていなかったからだ。

子供のコンクールは、あくまで「中間発表」のようなもので、まずキャリアにはならない。うまくいくと励みになるが、大半は挫折感を味わう、と最初から決まっている。受ける場合は、勝ち進む可能性がある場合か、他に何かメリットを見いだせる場合に限る。

まぁ、大抵は後者だ。

この頃は地方のコンクールも多いから、一見選択肢はいろいろあるように見える。

しかし、ほとんどの人が予選を通過する、というのではメリットを見いだせない。

かと言ってハードルが高すぎたら、最初からやる気が高まらない可能性がある。

「ちょうど良いもの」を探してみたのだが・・・

結果は「無い」

コンクールを聞くと常に提示されることがある。人間は同じように努力すれば同じように成長する、という真実だ。ここに差をつけようとするのだから、考えようによっては無茶な話なのだが、コンクールとはそういうものだ。

ほとんど同点で並ぶ時に、差がつくファクターは、ほんの些細なことが多く、このボーダーライン上の論議は、あまり意味を成さない。そして、図抜けて優れていれば、そのようなことは問題にならない。だから、そこを目指すしかない、という考え方にいたる訳だ。

そうなると、ハードルの高いものを受けるのと同じことになる。

結局、難しいコンクールを目指す、が結論になってしまった。これは大変。

前述した「他のメリット」があるか?

これは「ある」。

音楽の練習は、もともとかなり強い意志と集中力を要求するものだ。コンクールともなれば、精神面でかなり鍛えられるのは間違いない。ただしこれは両刃の剣、最初から「自分を鍛えるぞ」というつもりで臨まないと逆に傷ついて立ち直れなくなることもあるから要注意だが。

また己に打ち克つ、という勝負力が試される。表面的には他人に勝つかどうかに見えるが、本当の敵は自分の中にあると思うべきだ。自分を攻めていくと「イントネーションが」「リズムが」「歌い回しが」「コントラストが」と様々な弱点が見えてくる。それを一つ一つつぶしていく戦いだ。

このあたりのことがわかったのは、実はようやく最近のこと。それまで私も実に勝負運が弱かった。他人と戦うというのが嫌いだったのから端を発しているのだと思うが、これが本番に弱い体質とつながっていたことに、なかなか気がつかないでいたのである。

勝負運を強くする方法というのを教えてもらったことがある。惜しげもなく公開するのは惜しいので、でも珍しくも何ともないからやはり公開すると、「勝ち続けること」である。

これは、例えば「今日はここを掃除する」と決めたら、必ずそれをやること。それでその場は「勝った」ことになる。その連続、という意味で、何も大げさなことではない。

賢明なる皆さまはお気づきのことと思う。これは音楽の練習そのものではないか。

「今日はこの小節が弾けるようになる」「来週までにこのフレーズが」時には「3ヵ月以内でこれをマスターする」等々、積み重ねていけば立派に勝負運がついてくる。

それに、音楽ができた時は掃除よりも「美しさ」と「感動」が大きいではないか。掃除よりずっと楽しいだろう。

一見無謀なコンクール受験といえども、このように考えたら「他のメリット」が充分見えてくるはずだ。

そんなことを件の方にはお答えした。

さて本日、ちょっとだけ掃除をした。これはこれで良い気分だ。きれいになった「美しさ」と「感動」がない訳ではなかった。うーむ、掃除よりも、と言ってはいけないか・・・。

お家の神様、ごめんなさい。このブログは音楽の神様優先なので、タイトルについては悪しからずご了承くださいね。