井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

日食で学ぶ

2009-07-23 01:35:45 | まち歩き

学生の頃、駅構内の日本食堂でよく学んだものだ。 米食の人もパン食の人も今日は日食(と昨日の新聞に広告が出ていた)。
それが言いたい訳ではない。

新幹線も止まる、前日の凄まじい雨で、ほとんど諦めていた昨日の部分日食。だから観察グッズも買わず、その時間を待つことになった。一縷の望みを残しながら…。

待ったのである、そうは言っても福岡は雨ではなかったから。

この時に向けて、テレビも様々な情報を提供してくれた。 「どうぞ、五感をフルに働かせて、全てを感じとって下さい。」 つまり、部屋の中から覗いている程度だと、大したことはわからないということ。

福岡は10時56分で90%の日食、結構欠ける方だろう。その前後の仕事の都合上、じっと一カ所に居る訳にもいかない。結局、移動に使う電車を一本早く乗って、途中の駅で降りて、プラットフォーム上から観察することにした。

天気は晴れたり曇ったり、これは期待できる!

途中駅でホームに降りた。電車は20分に一本。そのうちホームには誰も居なくなった。 お日様は雲から出たり入ったり。雲から出る瞬間、もう欠けているように見えた。が全て見えると丸くなる。

サングラスで見てはいけない、とさんざん言われていた。実際にやってみると、一秒たりとも見られたものではないことがわかる。夕日とは全く違うのだ。

プラットフォーム上は妙に静かだった。心なしか少し暗い。蛍光灯が点き始めた。センサーで点くのだろうか。

また妙に涼しい風も吹いていた。皆既日食の時は必ず風が吹くというが、これほど風通しが良いところだと、それがわからないかも、と思った。

しかし肝心の太陽がなかなか観察できない。その時の持ち物をいろいろかざしてみるが、全て遮光するものばかりだ。携帯のカメラも使ってみたが、太陽が丸くしか写らない。

最終的にハンカチをかざした。それだと、いつまでも丸い太陽に見えた。

そうこうするうちに、次の電車の時刻だ、と思いきや、電車が突如遅れだした。数分の遅れではあるが、これも不思議な現象の一つとして良いのだろうか?

それでも、さすがに、これ以上待てない時刻となり、遅れて到着した電車に乗った。

電車の乗客は誰一人太陽など見ていなかった。世間はこんなものか?と思いつつ、私は一人、未練がましく車窓から太陽を眺める。人差し指を曲げてピンホールを作り、そこから太陽を探す。

するとどうだろう、ほとんど欠けた太陽が見えるではないか!UVカットの電車の窓ガラスを通し、UVカットのサングラスをかけ、人差し指ピンホールを通すと、初めて三日月形の太陽に接することができた。生で見ると、相変わらず丸い太陽なのだが…。

その後、福岡市内で観察した人の話だと、 「みんな空を見てましたよね」 (人が多く集まると、行動パターンが変わる?)

「蝉がピタっと鳴きやんだでしょう?」 (確かに、かなり静かだったが…)

その後、福岡市内や郊外を歩いて、わかったことがある。

福岡市内は、かなりの繁華街でも、桜の木があれば蝉がジージー、ミンミンとうるさい町なのだということ。

風通しの良い場所でも、通常の風は、一定の風速で吹くことはあまりないということ。 一定の風速で吹く風は、海風、陸風、ビル風など条件付きの風だ。日食時の風は、やはり特別な風、部分日食といえども、この特別な風が吹いていた訳だ。

こういうことが、後になってわかるのである。逆に言うと、その時いくら五感を働かせても、わからないことはわからない。ただ、その時の感触をよく覚え、後で別の物と比較して、やっとわかることがある。

音楽をやっている人間は、耳の感覚が鋭いと一般に言われているが、それも、このようなことを繰り返した結果に過ぎない。ある感触を記憶し、別の感触と比較する、その繰り返しだ。

その感触に接する時、「ほら、この風は一定の風速で吹いている」「この風は風速が定まっていない」と側で言ってくれる人間がいると、理解は速いはずだ。それが「先生の役割」ということだろう。

皆既日食ほど劇的ではなかったが、いろいろなことを学んだ一日だった。


鉄道旅行地図帳

2009-07-16 23:14:49 | うんちく・小ネタ

話題の地図帳の九州沖縄編を、やっと買えた。「ありそうでなかった正縮尺の鉄道地図」だ。

日本鉄道旅行地図帳 12号 九州沖縄―全線・全駅・全廃線 (12) (新潮「旅」ムック) 日本鉄道旅行地図帳 12号 九州沖縄―全線・全駅・全廃線 (12) (新潮「旅」ムック)
価格:¥ 680(税込)
発売日:2009-04
日本鉄道旅行地図帳 5号 東京―全線・全駅・全廃線 (5) (新潮「旅」ムック) 日本鉄道旅行地図帳 5号 東京―全線・全駅・全廃線 (5) (新潮「旅」ムック)
価格:¥ 680(税込)
発売日:2008-09

廃線や未成線(完成しなかった路線)まで載っているのだ。「あそこに鉄道が走っていたんだ」とか「これが完成していればなぁ」などと想像しているだけで楽しい。

初めて知る事実も少なくない。 その一つ、駅舎。明治初期、お雇い外人に指導を受けた関係で、本州はイギリス、北海道はアメリカ、そして九州はドイツの影響をうけているそうだ。

そう言えば、九州弁はドイツ語に似ている、とのたまわった先輩がいたなぁ。

「ほら、よく言うじゃない?○○シトルケン、って」


神との間に成立するシャコンヌ

2009-07-09 08:29:38 | ヴァイオリン

千香士先生と江藤先生、双方から薫陶と祝福を受けたバイオリニスト、工藤真菜さんのリサイタルを聞いた。

確固とした技術、魅力的な音色に支えられ、プログラムの5曲が、あっという間に終わった感がある。

立ち姿も良く、余計な動きの無いところも、演奏の安定感につながった。

工藤さん自身が書かれたプログラムの文章に、また新たな千香士語録が含まれていたので、ちょっと紹介。

〈バッハのシャコンヌは高校の大切な卒業試験曲だというのに、意地になったように一度もレッスンして下さらなかった!「何故だろう?こんな子供が弾いてはいけない曲だからだろうか?」と落ち込みながらも、それなりにもがき、必死に仕上げ…10年後、とある挨拶がてら先生の自宅を訪れた際「10年前のシャコンヌだけど…。僕には入る余地のない曲で…神と君の間にしか成立しない曲であって…つまり、今の君にはそれが分かると思うんだ」と言葉少なに、しかし何と人間味あふれる解答をして下さったことか。〉

その文章を先に読んでから、シャコンヌを聞いたもので、当夜の演奏は工藤さんと神の間に成立したものなのだ、という風にしか聞こえなかった。

卒業試験曲でレッスンが無いのは尋常では無い。何かあったのだろう。そこでこの「至言」である。これまた普通では無い。

様々な解釈が可能だが、それだけに「お見事」という外は無い。

その後、聴衆との間に成立した「序奏とロンド・カプリチオーソ」等々も、鮮やかな技巧を駆使して「お見事」!

聴衆の一部だった学生達も大興奮した一夜であった。


テンポの決定

2009-07-07 18:01:40 | オーケストラ

 今年も福岡学生シンフォニーオーケストラの公演が7月12日にある。それに先立つ練習に,先日トレーナーとして参加した。曲はチャイコフスキーの組曲「胡桃割り人形」。事前に「小序曲」と「行進曲」に手こずっているようだからよろしく,と言われていた。

 この「小序曲」は本当に難しい。特に第1ヴァイオリンは至難の技で,我々専門家でも入念な準備が必要だ。ひょっとしたら練習して何とかなるレヴェルでなかったりして,などと思いながら,練習会場へ向かった。
 場所は福岡大学ヘリオス・ホール。大変美しい響きのホールである。オーケストラのサウンドも実に豊かで美しい。

 「花のワルツ」や「トレパーク」などを先に済ませて,件の「小序曲」にとりかかる。

 想像していたほど悪くない。人に充分聞いてもらえるレヴェルに達していると思った。では何が良くないのか?

 どうやら指揮者が要求するテンポがかなり速く,それに付いていけないということのようだ。とりあえずは少しゆっくりめでアンサンブルを固め,そこから速くしていくしかないだろう。

 わずかにゆっくり目のテンポで練習してみる。案の定,良いアンサンブルだ。このままでも全く悪くない。だが,テンポを一目盛り上げただけで,あちこちに破綻が生じる。

 「こういう場合は,そのゆっくり目のテンポでオーケストラは突き進むべきだ」と,演奏者達に伝えた。それが指揮者に対して礼を失していることにねならない,とも。

 オーケストラと指揮者の関係を考えて浮上した三つの要点。
?指揮者の棒が100%音楽を作れる訳ではない。主要事項以外はプレイヤーが補うものである。
?テンポは最も主要な事項であるが,それも受け取る演奏者の感じ方,個人差で幅が生じる。
?そのように幅のあるテンポを,最終的に「このテンポ」と決めるのは,コンサートマスターである。

 そうすると,コンサートマスターも演奏する曲の一番適切なテンポを把握していなければならない。それは聴衆にとって,演奏者にとって適切なテンポである。

 コンサートマスターが適切なテンポで演奏し,他のメンバーがそれに合わせることで確固としたアンサンブルが生まれる。それは一つの主張を持ったものになる。

 とは言え,コンサートマスターが選んだテンポの源泉は指揮者の棒にある。なので,このテンポは指揮者のテンポから外れている訳ではない。

 このような,やや複雑なやりとりがあって,はじめて全員にとって幸せな音楽が誕生する。これを学生の力でできるだろうか?

 実は,これだけなら,できる人にはできる。何年か前にもそういうことがあり,見事にコンマスが指揮者の暴走を食い止めた現場を見た。それを期待する事にしよう。

 その後の,指揮者とのリハーサルでは「小序曲」がうまくいった,と聞いた。下ごしらえしておけば大丈夫なのである。

 その翌日のリハーサルでは「胡桃割り」全体を評して「Terrible.」と言われたそうだ。うまくいった時の状態を忘れては駄目なのである。

 本番では思い出しますように・・・。


田中千香士の芸術

2009-07-02 23:49:23 | ヴァイオリン

 幻の録音が、めでたく先月リリースされた。

田中千香士の芸術
価格:¥ 2,800(税込)
発売日:2009-06-24

 追悼企画と銘打ってある。2枚組みのCDであるが、私に思い入れがあるのは、その中のフォーレのソナタである。

 千香士先生は妙に断言するのが口癖だった。
「レッスンが必要なソナタは4曲。クロイツェル、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル。フランクは機が熟すれば弾ける。」

 幸いにして、その4曲のレッスンは何とか受けられた。そのうちの一曲である。

 フランス物につきまとう難しさがある。濃厚な味付けはフランス的ではなく、かといってフランス人の表現は、ともすると淡白に聞こえ、早い話が手本にするには躊躇してしまう、ということだ。

 フォーレをやる時も御多分にもれない。私も人並みにCDを買った。これは、と目星をつけたのが、シュロモ・ミンツとピエール・ドゥカン。ミンツのは面白いけれどフランス風には聞こえない。ドゥカンのはフランス風だけれど、薄味で物足りない感がある。図書館で借りたシェ・ウィという中国人の方がよほど好感が持てた。

 その中で、東京文化会館の資料室に行って、何かぴったりくるものを探しに行ったら、見つけたのが師匠のレコード。自分の先生だから、という要因が多分にあるのだろうが、理想的な演奏に聞こえたのである。大変素晴らしいと思った。

 このような録音を遺されていること自体、知らなかったので、恐る恐る先生にお伺いを立ててみる。「あの録音は・・・?」

 「あんなの聞いちゃだめだよ。ゴトシ(仕事)の世界だから」
と、相変わらず煙に巻く返答である。ある日呼び出されて、スタジオに入ると「これ弾いて下さい」と言われて録音しただけのものだから、とか何とか言われたような気がする。それが照れなのか謙遜なのか,未だにわからない。本当のことを伝えるより、(仮に作り話でも)面白い話をすることに価値を置く先生だったし…。だからと言って、歌謡曲のバックを録音するノリでフォーレを弾く訳がない。やはり「照れ」だな・・・。

 ピアノの近江康夫氏が、またいいのだ。1楽章の低音(ベース)にシビれる。
「同じ頃、コンクールにはいってね。」
 その組み合わせでレコード会社が売り出そうとしたのであろう。

 とにかく先生の言葉を聞くと、少なくともその時は、素直に良いと思って良いのかどうなのかわからなくなってしまったのである。

 これを今聴けば、もっと自分なりの評価もできるだろうに、上野まで行かないと聴けないとなると、いつのことになるのやら、と思っていたのであった。だから、今回の復刻はとても嬉しかった。

 早速聴いてみた。

 この録音に対してあまり客観的な叙述はできないことがわかった。我々弟子にとっては、その演奏姿が容易に思い浮かぶのだ。その幻想にひたってしまって、他人にどう聞こえるかなんて、どうでも良くなってしまうのが正直なところである。

 なのだが、無理やり客観的になって述べれば、好みが分かれる演奏かもしれない、と思った。

 私にとって快感なのは、基本的に「まっすぐな」演奏で、たまにちょっとブレーキがかかる、といった具合の音楽作りである。この好み自体が、先生によって形成されたものかもしれないが、とにかくこれが「ヨーロッパだ」と叩き込まれたし、快感に感じるように教育されてしまったのである。

 そのせいで良いと思っているのかどうか、率直に言って、よくわからない。でも、このセンス、やはり多くの方に聞いてほしいと思う。かつて五嶋節さんを虜にし、篠崎功子先生をして「日本人のヴァイオリンを聴く気にはなれないけど、千香士さんだけは別」と言わしめた存在、決して私だけが悦に入っているのではないはずだ、と思う。是非御一聴あれ。