学生の頃、駅構内の日本食堂でよく学んだものだ。 米食の人もパン食の人も今日は日食(と昨日の新聞に広告が出ていた)。
それが言いたい訳ではない。
新幹線も止まる、前日の凄まじい雨で、ほとんど諦めていた昨日の部分日食。だから観察グッズも買わず、その時間を待つことになった。一縷の望みを残しながら…。
待ったのである、そうは言っても福岡は雨ではなかったから。
この時に向けて、テレビも様々な情報を提供してくれた。 「どうぞ、五感をフルに働かせて、全てを感じとって下さい。」 つまり、部屋の中から覗いている程度だと、大したことはわからないということ。
福岡は10時56分で90%の日食、結構欠ける方だろう。その前後の仕事の都合上、じっと一カ所に居る訳にもいかない。結局、移動に使う電車を一本早く乗って、途中の駅で降りて、プラットフォーム上から観察することにした。
天気は晴れたり曇ったり、これは期待できる!
途中駅でホームに降りた。電車は20分に一本。そのうちホームには誰も居なくなった。 お日様は雲から出たり入ったり。雲から出る瞬間、もう欠けているように見えた。が全て見えると丸くなる。
サングラスで見てはいけない、とさんざん言われていた。実際にやってみると、一秒たりとも見られたものではないことがわかる。夕日とは全く違うのだ。
プラットフォーム上は妙に静かだった。心なしか少し暗い。蛍光灯が点き始めた。センサーで点くのだろうか。
また妙に涼しい風も吹いていた。皆既日食の時は必ず風が吹くというが、これほど風通しが良いところだと、それがわからないかも、と思った。
しかし肝心の太陽がなかなか観察できない。その時の持ち物をいろいろかざしてみるが、全て遮光するものばかりだ。携帯のカメラも使ってみたが、太陽が丸くしか写らない。
最終的にハンカチをかざした。それだと、いつまでも丸い太陽に見えた。
そうこうするうちに、次の電車の時刻だ、と思いきや、電車が突如遅れだした。数分の遅れではあるが、これも不思議な現象の一つとして良いのだろうか?
それでも、さすがに、これ以上待てない時刻となり、遅れて到着した電車に乗った。
電車の乗客は誰一人太陽など見ていなかった。世間はこんなものか?と思いつつ、私は一人、未練がましく車窓から太陽を眺める。人差し指を曲げてピンホールを作り、そこから太陽を探す。
するとどうだろう、ほとんど欠けた太陽が見えるではないか!UVカットの電車の窓ガラスを通し、UVカットのサングラスをかけ、人差し指ピンホールを通すと、初めて三日月形の太陽に接することができた。生で見ると、相変わらず丸い太陽なのだが…。
その後、福岡市内で観察した人の話だと、 「みんな空を見てましたよね」 (人が多く集まると、行動パターンが変わる?)
「蝉がピタっと鳴きやんだでしょう?」 (確かに、かなり静かだったが…)
その後、福岡市内や郊外を歩いて、わかったことがある。
福岡市内は、かなりの繁華街でも、桜の木があれば蝉がジージー、ミンミンとうるさい町なのだということ。
風通しの良い場所でも、通常の風は、一定の風速で吹くことはあまりないということ。 一定の風速で吹く風は、海風、陸風、ビル風など条件付きの風だ。日食時の風は、やはり特別な風、部分日食といえども、この特別な風が吹いていた訳だ。
こういうことが、後になってわかるのである。逆に言うと、その時いくら五感を働かせても、わからないことはわからない。ただ、その時の感触をよく覚え、後で別の物と比較して、やっとわかることがある。
音楽をやっている人間は、耳の感覚が鋭いと一般に言われているが、それも、このようなことを繰り返した結果に過ぎない。ある感触を記憶し、別の感触と比較する、その繰り返しだ。
その感触に接する時、「ほら、この風は一定の風速で吹いている」「この風は風速が定まっていない」と側で言ってくれる人間がいると、理解は速いはずだ。それが「先生の役割」ということだろう。
皆既日食ほど劇的ではなかったが、いろいろなことを学んだ一日だった。