井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

インプットと知性の勝利

2007-07-14 22:02:07 | 受験・学校

学内演奏会に続き、ゼミの発表会を開いた。名称は違うけど、演奏するのが4年生というだけで、中身は似たようなものだ。

今年のゼミ生は11人、かなり多い方である。発表会に出るにあたって最低2回は見せに来ること、という条件を年度始めから出していた。にもかかわらず1回も来なかった輩もいるので、それは出演者から外し、計6名の発表となった。

教育大学の4年生は、押しなべてとても良い学生である。教育実習の洗礼を受けて大人になっているし、時間の余裕があるから、しっかり学習して来る。

となれば上出来だが、もちろんつねにそうとは限らない。

前述の教育実習という場は、己の至らなさ加減が、いやというほど身にしみる場である。実習が終わったら、今度こそ身を入れて研鑽を積もう、と考える。

早々にレッスンの申し込みがあった。クラリネットの学生Jである。それはよかったのだが、私の都合で一週間延期させてしまった。そしてその日になると学生の方が都合悪くなり、その後も双方の都合が合わず、実現したのは本番二日前。

その頃、演奏曲目を知ってびっくり、ブラームスのソナタ第2番!ピアノは同級生のOが弾くという。JとOは同じ高校出身で教育実習も同時に受けていたから、同級生というよりは同期の桜の戦友、と言った方がふさわしいかもしれない。

しかしブラームスのピアノパートがどれだけ難しいのか知ってるのか?!本職のピアニストでも、うんうん唸りながら弾くのだぞ!Oがピアノの名手だという話は聞いたことがないが…。

レッスンが始まると案の定、であった。似て非なる音楽、ある先生の表現を借りるなら宇宙人の音楽だった。ブラームスの様式を全く無視していた。またしても「様式の把握」であるが、コーヒーに入れるのは砂糖とミルクの類、塩や柚子胡椒を入れるものではなく、濃さと温度にも、美味しく感じる幅がある。この様式を逸脱してロクなことはない。

仕方ないので、ブラームスにおける強弱とアゴーギクの特徴を中心に話し、実践させてみる。これで、できるようになるのならば、かなり優秀な方だろう。予想通り、あまり変化はない。

考えるにイメージの欠如であろう。ブラームスの曲は何を弾いたことがあるか、聞いたことがあるか質問した。 答:弾いたことがあるのは小品数曲、聞いたことがある交響曲は1番のみ、協奏曲、室内楽は皆無。こりゃあ無理だ。

インプットなくしてアウトプットは有り得ない。インプットがない状態では何を言ってもピンとは来ないのが当然だ。

本番は二日後、それまでにどれだけのインプットができるかわからないが、とにかく交響曲だけでも聞きまくるように指示した。ブラームス漬けになるようにと…。

そして昨日の本番である。「ブラームスのような重量級の作品は一朝一夕ではいかないから、もっと慎重に取り組むこと」と言わなきゃならないだろうな、と思いながら演奏を聞き始めた。

あ、・・・えっ・・・

ブラームスになっていた!強弱とアゴーギクはブラームスの特徴を掴んでいた。ここまで完成度を上げる努力は尋常でないはずだ。それを想像すると目頭が熱くなってきた…。

終わってからOと話した。この二日間、何をしたか尋ねると、夜通しブラームスを聞いていたと、半泣きで話してくれた。

日がな一日聞いたら弾けるのか?そんなことはない。様式上のヒントを手掛かりにOがブラームスを再構築したのである。

再構築には、特徴を抽出して応用するという、知的な作業が必要だ。つまりインプットだけではできない、そのような音楽もある、ということだ。いや、3分以上の長さを持つ音楽には必ず要求される作業であろう。

この知的作業の訓練は、いつ為されるのだろうか?

少なくとも、我が福岡教育大学の授業に、そのような時間はない。私がかつて通った大学にもなかった。遡って斎藤秀雄先生の「音楽解釈」の授業ならば近いことをやっていたのかもしれない。 しかし大多数は「自分でやるもの」と突き放されたものではないだろうか?

今、大学生を見て思う。これができる学生とできない学生、この差は高校までの勉強をどのようにしていたか、そこに起因するような気がする。

高校の勉強が直接役にたつ状況は一部を除いて皆無に等しい。卒業後、因数分解をしたことはなく、ナントの勅令の内容がナントも分からなくて困った、ということもない。

しかし、モノを考える訓練にはなっていたのではなかろうか?今すぐにこれを証明することはできない。だが、学生Oを見て、その知的訓練の素地があっての結果としか思えなかったのは確かである。


念仏効果

2007-07-11 10:39:31 | 受験・学校

 学内演奏会というのを開いた。管楽器とヴァイオリンを主として勉強する芸術コース,1年から3年までの発表会である。学年を追う毎に,演奏がしっかりしてきているのは,非常に全うであり,順当であり,正直安心した。

 しかし学生がみな真面目にやってきたかというと,そうではない。授業にろくに出ないのもいるにはいるので,その発表については最悪の結果を覚悟していた。

 ところが,そんな学生でも下の学年よりはまともな瞬間があったのである。今年のヴァイオリンの3年生には「古典派の様式の把握」を課していた。課題曲はベートーヴェンの協奏曲。これは音階と分散和音だらけの曲なので,様式の把握なしには音楽にならない。かつて「ここは何調の何の和音を使っているの?」ときいただけで絶句し泣き出した学生もいた。しかし和声の動きを知らないことには話にならない曲なのである。知った上でヴァイオリンの役割を理解して音楽を作るのだ。これが一部の学生には意外と難しいらしい。なかなかスタイリッシュな演奏をしてくれないので,今年ははっきり目標に掲げた訳だ。

 そういう説明を授業中にして,演奏を研究する。その説明を聞かないと様式の把握は非常に難しいはずだ。なぜなら,様式こそ教えてもらわないとわからない類のものだからである。(注意深い観察と莫大な時間があれば独学でも可能だが,そういう人は大学に来る必要はない)

 授業に来ないのだから,目もあてられない状況を覚悟していた。実際は・・・

 音程は定まらない,音はフニャフニャ,しかしポイントが逸れていない,つまり様式だけは把握している演奏だった。授業に出てきている学生以上に把握だけはしていたのである。なんじゃこりゃ・・・。

 頭で弾いていたとも言えよう。その学生は,私が教え始めて5年以上たつ。正直まじめとは言い難い。特に最近はシーカレができてからはヴァイオリン離れは顕著。シーカレはいてもいなくても結構。師のたまわく「君たちがヴァイオリンさえちゃんと弾いてくれれば,銀行強盗をやろうが構わない」。その弟子たる不肖,ヴァイオリンをまともにやらない人からは急速に興味が遠のいていくのである。そうなると,どうせ言っても馬の耳に念仏だろう,てな感じにこちらもならざるを得ない。

 ところが馬ではなかったことが演奏によって判明した。馬と人を見抜けなかった自分に愕然ときた学内演奏会であった。念仏も潜在意識に蓄積すると,頭のいい人は,それが実力となって顕在化するのだろう。様式のことは常々言い続けてきている訳で,今年始めて口にした訳ではない。
 これからは念仏の効果をもっと信じるようにしようと思った。それと,馬の仮面をかぶった諸君,早々に仮面を脱いでくれ給え,と願わずにはいられない。

 注)シーカレ:「シ」を後ろに移動させて読んで下さい。