井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

怪獣のバラード

2018-02-24 09:11:06 | 音楽

知り合い達が「良い曲だ」と言い始めたので、私も便乗して……。

1980年代以降は、中学生用の合唱曲として定着していたと思う。
しかし、もともとはNHKの番組「ステージ101」のオリジナルソングとしてヤング101が歌っていたものだ。
なので、いわゆる「ポピュラー音楽」が教育用音楽にすんなり導入できた数少ない例だと思う。

なぜすんなり導入できたか。

一つは恋愛の歌ではないからだ。この曲が生まれた1970年代、世の中で作られる歌の9割以上が恋愛の歌だった。(それからすると現在は驚くほど恋愛の歌の比率が下がっている。)
恋愛の歌を合唱は、できない。

もう一つ、もともとが合唱曲だったからだ。これは大きい。やはり一人で歌うものと集団で歌うものは、共通する部分はあるものの、本来作りが違う。
良い歌だからといって、良い合唱曲にはならないのが普通だ。

この条件が重なって生まれた名曲なのだが、さらにこの背景にも注目したい。

「ステージ101」という音楽番組自体が、かなり手間ひまかかったものだったそうだ。
アメリカのとある番組がモデルだったらしいが、メインになる「ヤング101」は週4~5日NHKに通って、収録以外にも様々なトレーニングを受けていたという。

そして、アナウンサーよりもずっと高額の給料が支払われていた、との後日談も聞いたことがある。(この辺りは以前の記事にも書いたことがある。)

同じ時代の「8時だよ~」におけるドリフターズも、ジャンルは違えど同じような話が残っている。

やはり、手間ひまかければ良いものができるという、当たり前の結論が導きだされるのだが、現在のコンピューター時代、手間ひまかける「イメージ」自体がなくなりかけているのかもしれない。

そのことは心しておくべきだろう。

そだね。(今流行の北海道弁です。)


ラストエンペラーと戦メリ

2018-02-20 19:47:22 | 音楽
アイスダンスの村元・リード組が「桜」をテーマに演技していた。

使っていた音楽が坂本龍一作曲の映画音楽《ラストエンペラー》と《戦場のメリークリスマス》をつないだもの。

同じ作曲家の作品だから、とても自然につながっている…

というよりは、ほぼ同じモチーフでできている2曲。逆に区別がつきにくい。

後から作られた《ラストエンペラー》の音楽は、アカデミー賞を受賞している。

こんなのありかね?と思ってしまった。

先日、やはり坂本龍一作曲の《テクノポリス》をアコースティック楽器のみのアンサンブル(打楽器も使わず)で演奏したが、坂本龍一作品では《テクノポリス》が一番好きである。

日本弦楽指導者協会の思い出③

2018-02-16 18:43:00 | 日記・エッセイ・コラム
次の思い出は、ずっと後の1990年頃、ヴァイオリン仲間が誘ってくれて、ザハール・ブロンの公開レッスンを見に行ったこと。

現在某オケのコンマスで活躍中のI氏が、ラヴェルのツィガーヌでレッスンを受けていた。

この事は以前も書いたが、一応繰り返すと、冒頭のソロは、きちんと4拍子を数えて弾かなければならない、と注意していたことをよく覚えている。かつて田中千香士先生がおっしゃったことと、全く同じだったからだ。

その後、招待演奏でまだ20歳前後のワジム・レーピンが登場。小品を披露したが、背の高さが非常に印象的だった。

さらに興味深いのは、これから数十年後、レーピンのツィガーヌを聞いた時である。ブロンの言うことをかなり無視した、いわゆる日本人が得意とする「一音入魂」型の演奏をしていたからだ。

ここからは私の勝手な推測だが、レーピンはブロンだけが全てのはずはない、何か他の方法もあるはずだ、と思っていたところで出会った日本人の演奏。I氏の演奏を面白いと思って、取り入れたのではなかろうか。

と、延々と思い出話を書いたのは、現在ピティナの活動に関わっているからだ。

ずっと後発のピアノ指導者協会、しかも一匹狼の多いピアノ指導者が、そう簡単にはまとまらないと思いきや、かつてからは考えられない盛況ぶり。もちろんそれなりに大変な事は多々あるにしても、弦楽器奏者の我々も巻き込むのだから大したものだ。

一方、協力し合うのは本来得意なはずのヴァイオリン業界は、それからするとちょっと寂しい。日弦協の活動も関西、中京は活発だが、あとはかつての勢いから遠ざかっている感を否めない。

かつての社会主義者ではないが「団結せよ、日本の弦楽器指導者」と叫びたい今日この頃である。

日本弦楽指導者協会の思い出②

2018-02-15 18:52:00 | 日記・エッセイ・コラム
日弦協の東京の大会は小学生の時も出て、水道橋あたりのどこかで練習して、東京文化会館で本番。必ず、楽器のトラブルがどこかで生じて、その度に「神田楽器さん、神田楽器さん」と場内アナウンスが入る。まるで当時の「お子様が迷子になっています」というデパートの店内放送のように(迷子アナウンスも懐かしいな)。

本番も、リハーサルと区別がつかない客席の騒がしさ。こんなことだけ覚えていて、演奏の内容は相変わらず覚えていないが。

中学生になると、福岡の大会に出た。
こちらも頑張っていて、その時はライプツィヒ・ゲバントハウスのコンサートマスター、ゲルハルト・ボッセ先生をお呼びして、モーツァルトのディベルティメントをボッセ先生の指揮で演奏するというのが、目玉だった。

ボッセ先生は、その後 霧島音楽祭や東京芸術大学に招かれるようになったけど、その前というのがポイントである。

福岡のヴァイオリンの先生方のやる気は無論のこと、生徒達の弦楽合奏の方もなかなか充実していて、私の隣にいた小学生は、現在読響でビオラを弾いているようだし、セカンドヴァイオリンには、現在N響コンマスで活躍している彼がいた。

要するに、福岡でもそれなりに盛り上がっていたのである。

日本弦楽指導者協会の思い出①

2018-02-14 22:14:54 | 日記・エッセイ・コラム
略して日弦協と呼んでいるが、今も一応社団法人としてあるようだ。

私が子供の頃は一応あるどころか、かなり華やかに活動していた。

私が生まれる前は、さらに派手だったような話が伝わっている。

コーガンが来た、シェリングが来た、さあ奏法を研究しようと集まって、講習会のようなものが頻繁に開催されたと聞く。

推測だが、多分 鷲見三郎先生あたりが先陣きって音頭取りをされていたのではなかろうか。
「外人の偉い先生がくる度に奏法が変わって大変だったよ」と鷲見先生の門下生だった人から聞いたことがある。

まあ、全てうまく機能することはなくても、そうやって日本は水準を上げていったのだろうということは容易に想像つく。それに弦協が後押ししていたことも。

私も、ワケわからずに弦協の東京の大会や福岡の大会に出ていた。

幼稚園児の時に参加した東京の大会は東京文化会館で、NHKの収録があり、生まれて初めてみたテレビカメラだったから、そのカメラはよく覚えている。(演奏内容はさっぱり覚えていない。)

とにかくそのくらい存在感がある大会だった。