井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

なぜクラシック音楽を勉強するか

2011-01-31 00:32:06 | 音楽

 このような疑問、質問と接することがしばしばあります。以下、現段階で私が持っている考えです。

 好きでやっている時に、こんな疑問は湧きません。苦しくなった時、あるいはクラシック以外の音楽がもっと好きになった時、なぜこんなに苦しい思いをして勉強しなければならないのか、と思うことはあるでしょう。世間で流れている音楽はクラシック音楽以外のものが圧倒的に多いし、クラシック音楽を続けていたからといって、高収入が約束されている訳でもないし。高収入どころか、収入そのものの見込みさえあやしいのが実情です。

 私自身、クラシック音楽以外にも好きな音楽はあるし、それはそれで生きていくには欠かせない存在です。それでも勉強するならまずクラシック音楽だし、それだけの価値があると私は信じています。

 なぜかというと、世の中で楽しまれている音楽のもとをたどっていくと、9割以上はクラシック音楽に行きついてしまうからです。

 「音楽の3要素」という考え方があります。「メロディ」「リズム」「ハーモニー」です。このうち「メロディ」と「リズム」は世界各国の音楽にありますが、「ハーモニー」はヨーロッパで生まれたものです。詳しく述べるとバロック音楽の時代に成立しました。現在聞かれている音楽でハーモニーのつかない音楽は、多分1割に満たないでしょう。

 別の説明もできます。例えば現在巷にあふれている音楽には、ドラムセットが使われています。この役割は、周期的なリズムの繰り返しを人間が心地よいと感じるからにほかなりません。

 ドラムセットを最初に使った音楽はジャズです。ジャズのドラムセットの起源は軍楽隊の太鼓と「ラグタイム」というジャンルのピアノにもとめられるでしょう。太鼓もピアノも周期的なリズムを奏でていました。太鼓のリズムは信号音的な役割もありますが、ピアノのリズムは音楽の推進力としてのものです。それはショパンのワルツやマズルカと同類で、さらにさかのぼるとバロック音楽のチェンバロ(通奏低音)にたどりつきます。

 さらに「低音(ベース)」の上に成り立つ音楽、という構造もやはりバロック音楽がオリジナルで、ジャズ、ロックから日本の演歌に至るまで共通のものです。

 このように、世界中の人々が聞いている大半の音楽の原型は、ほとんどバロック音楽時代に形成された訳です。この大本を知っておけば、様々なことに応用がきくと思いませんか?

 クラシック音楽そのものを聴く人がさほど多くないとしても、人類に対する影響ははかりしれないものがあります。その昔のギリシャ時代の「リベラルアーツ」の考え方を持ち出さずとも、クラシック音楽を勉強することは充分に価値あることだと思います。



さようなら,リレーつばめ

2011-01-26 17:55:22 | まち歩き

3月12日に九州新幹線が全線開通する。それは同時に「リレーつばめ」という風変わりな名前を持つ特急電車の廃止を意味する。

この「リレーつばめ」はJR九州苦肉の策である。2004年に九州新幹線の南半分,新八代から鹿児島中央までが開通した。普通だと,在来線から改札口を抜けて,階段を上って乗り換えとなる訳だが,それでは乗り換えに時間がかかってしかたない。新幹線の時間短縮効果が感じられないのでは,何のための新幹線やら,ということになりかねない。

それで,鹿児島本線から連絡線を建設して在来線特急を走らせ,新幹線ホームの向かい側に停車させる,乗客は向かい側に停車している新幹線に乗り換える,乗り換え時間は3分,ちょっと長目の停車時間と同じ感覚だ。

指定席の座席番号も極力「リレーつばめ」と「つばめ」は同じ物にして,乗り換えをスムーズに,という涙ぐましい工夫もあるのだが,実際は車両の長さが違っていて,降りて真向かいに入り口がある訳ではなかった。

大丈夫かね?と心配していたのだが,乗り換えてみると,案外大変さはなかった。乗り換え時間「3分」も実際にはかなり余裕がある。

また,その後JR九州はさらに追い打ちをかけた企画を始めた。「土日限定2枚きっぷ」等で始発と終電の数本に限り,1万円で往復できるきっぷを売り出した。通常の往復は15,600円だから,これは安い。3年くらい利用させてもらった。

これら全てとお別れしなければならないのだ。途端に「リレーつばめ」の良さが見えてくる。博多駅の乗り場も在来線ホームだから,手軽で,新八代の乗り換えも大したことないから,乗りやすさに関しては「リレーつばめ」が良かったな,とか・・・。

四の五の言ってもはじまらない。お世話になった「リレーつばめ」,ささやかながら記録をとって感謝の気持ちを捧げよう。

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手前の線路が連絡線。見にくいけれど,向こうにのびるのが鹿児島本線。

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横に広がるのが新幹線駅,下が鹿児島本線の新八代駅。(これもわかりにくい写真でごめんなさい。)

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(この画像では見えないけれど)新幹線「つばめ」の先頭にはsince 2004と書いてある。

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同じホームの両側に新幹線「つばめ」と在来線「リレーつばめ」

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787系電車。20年前はJR九州の看板電車「つばめ」だった。座席の網棚替わりに飛行機のようなドア付きの荷物入れ,飛行機同様の読書灯,立食ながらビュッフェがあり,「つばめレディー」という乗務員も配置され,東京者を感激させていたものだ。


新・ツィガーウ or ツィガワヌ

2011-01-23 07:33:02 | コンクール

以下しばらくは2007年7月31日に書いた記事である。

 ユーチューブというのは問題も相当あるが,便利と言えば便利,見入ると止まらなくなるのも問題である。

 「琉球頌」のピアニスト,エム氏が出ているというので,観てみた。チャイコフスキー・コンクールのヴァイオリン二次予選である。曲はツィガーヌでヴァイオリンは高校生。

 高校生としてはさすがに立派な演奏だと思った。が,天下のチャイ・コン,世界最高の水準に照準をあてると,あれやこれやと思わせる。そして,ラヴェル!私は,この作曲家の作品が大好きで,これに関してはちょっと詳しいのだ。

 この曲は長いヴァイオリン独奏で始まる。この類のものを日本人が弾くと「一音入魂」になりやすい。また「一音入魂」の演奏は日本人好みなのである。
 が,西洋音楽のスタイルには反する。4拍子で書いてある以上は4拍子で演奏するのが原則である。と私は師匠から叩き込まれた。

 同じ事を昔,かのブロン教授も言っていた。20年近く前,まだ今程有名ではなかったが,弦楽指導者協会が招いて公開レッスンを聴講したことがある。日本音コンで入選だか入賞だかした男の子がツィガーヌを弾いたのだが,まずはカウントを取らされた。ブロンの腕が1,2,3,4と規則的に動くのである。
 かくして「一音入魂」の世界は消えていくのだが,やはり日本人の民族性に基づいたものなのか,なかなか根絶はしないようで……。

 とはいえチャイコン,ブロンの言うことに逆らって先には進めないだろう。はっきり逆らっているほどではないのだが,時々拍子を無視しているのが気になる。この段階でまず「ツィガーウ」!

 ピアノが加わると,しばらくはピアノの好サポートもあって,なかなか良かった。時々「越中おはら節」に聞こえなくもないが,スタッカートは鮮やかだし,落とすのも惜しい,と感じた審査員もいたかもしれない。

 が,新たなメロディーが出るハンガリー風のところで,またもや拍節感が失われ「ツィガーウ」!ハンガリー語は語頭にアクセントがあるから1拍目をしっかり弾いてからシンコペーションを出すべきなのだ。シンコペーションだけ出しては「鹿児島おはら節」か「串本節」と同じ節回しになってしまう。ここは躍動感を期待する場所だが,浮遊感に変わってしまった。エッジがない音が連続する,いわゆる「ルーモっぽい」音なので,当人は1拍目をきちんと弾いているつもりだろうとは思うのだが,うーん残念。

 最後の16分音符の連続でも強拍が失われ「寿限無」状態。しかしジュゲムは面白い。面白いと思った人も聴衆にはいたと思う。ただ作曲家の意図とは違うのは明らか。ラヴェルはテンポの幅さえ許容しなかった。

 とどめの2小節,ここにハンガリー風の逆付点リズムがピアノ・パートにある。これをきちんと聞かせるにはリテヌートをかけなければならない。これを無視しては「ツィガーウ」。

 という訳で,総括すると,かなり日本風の演奏と言えるかもしれない。それで井財野としての結論は,早く「ナガウタ」という名のヴァイオリン曲を作って,国際コンクールで弾いてもらわねば・・・というものであった。皆様,今しばらくお待ちを・・・。

これが当時の見解である。今でも基本的に変わってはいない。「ナガウタ」はなかなかできないが。

さてこの動画、現在でも見られ続けていて、再生回数は優に2万回を超えている。これを読んで下さっている方々の中にも、ご覧になった方は多く含まれていると推察する。高校生だった彼女も大学生。さらに磨きがかかったであろうから、現在の話と受け取ってもらっては困る。あくまで過去の話だ。

ところで、先日ふと耳にしたツィガーヌ、最初はカウントを守っていたが、徐々に一音入魂的演奏に変っていくものだった。私が馴染んでいるパールマンあたりはまずやらない方法だ。あれ?と思い、演奏者を調べたらレーピンである。

実は前述の公開レッスン、ブロンは二十歳そこそこのワジム・レーピンを連れていて、最後に模範演奏のようなことをさせたのだ。体格はやたら大きくて、顔だけ子供のレーピンだった。そこで弾いたのはサンサーンスだったか何だったか、あまり覚えていない。というのも、それほど上手いとも思わなかったからである。

で、ここから先は想像なのだが、真面目なレーピンはずっとブロン師のレッスンを舞台袖で聞いていたのではないだろうか。そして、心ひそかに「先生は、あの日本人のやり方に否定的だけれど、結構面白いかも」と思う。「いつかやってやろうじゃないの・・・」

そして、自分のレコーディングの際、それが実現した・・・

ロシア人は元々の原住民と攻め入ってきたモンゴル人との混血が祖先だという。ヨーロッパ人の中で、割とアジア寄りの民族と言えなくはないだろう。日本流の演奏法が琴線にふれた可能性が考えられる。

さらに一方、例えは悪いが、嘘も百回言えば真実になると言われている。画像の演奏が「嘘」ではないのだが、少なくともフランスの伝統からは遠い。しかし2万回も見られているということになると、新しいスタンダードという解釈が可能になってくる。

日本的な無拍節な演奏が、市民権を得るというのは、日本人にとってなかなか愉快な話ではないだろうか。今後の世界の動向を見守りたい。


音楽大学では何を勉強しているか

2011-01-20 23:12:07 | 音楽

音楽大学を出ずに音楽家になった人というのは、昔からある程度の割合で存在する。その人達の評価は高い人から低い人まで様々。よって音楽大学を出た出ないは、音楽家としての評価に直接結び付くものではない。

当然ながら傾向として、音楽大学出身者に優れた音楽家は多い。これは当たり前である。

考慮すべきは、音楽大学出身ではないけれど優れている音楽家の存在。こういう方の前で、並の音大出身者はタジタジになる。

ある合唱指揮者で音大卒ではないのだが、音楽作りは立派、知識も博識をほこる方がいらっしゃる。あまりにもよく勉強されているので、ぶしつけにもストレートにきいてみた。

「あまりにもよくご存じなので驚いているんですが、どうやってここまで(勉強して)来られたのですか?」

「音楽大学の方は、皆さん学生時代に勉強なさっているでしょう?私は音大出身ではないから・・・」

「・・・・・・」

はて、音大生はここまで勉強しているだろうか? アルシス、テーシスなんて私が覚えたのは「題名のない音楽会」であって、大学の授業ではなかった。大学の授業でも、結構覚えきれないくらい、多くの講義があり、それほど無駄な時間を費やしたつもりはないのだが。

勉強しているのか、していないのか、よくわからないなあ、と10年ほど思い続けていたところ、昨年春、事態は少し変わった。

三つ年下の作曲家の友人(後輩とも言う)と久しぶりに会って話す機会があった。合唱の世界と、我々が所属すると思われる「器楽音楽」の世界、両方を知る数少ない人である。たまたま私と会った後に、件の合唱指揮者と会うということがわかり、積年の疑問をぶつけた。

「音大出身者は学生時代勉強しているでしょ?って言うんだけれど、してるのかなぁ?」

「してないんじゃないですか?」

と、彼は即答した。そうか、そこまで言い切るか。

ちなみに、彼は勉強していた。私が先輩だったこともあって、「オーケストラの授業をスコア持って聞きにくるとオーケストレーションの勉強になるから」などと言って、単位にならないことにも引っ張り出して勉強させたくらい。

私なども卒業要件単位を20以上上回る単位をとって卒業したくらい、いろいろやったはず。でも件の指揮者には及ばない。一体どうして? 私たちは一体何をやっていたのだろうか?

この答が、さらに半年以上してから、ようやく見えてきた。

心血そそいでいたのは「技術」の訓練なのである。

なーんだ、と言うなかれ。例えば、ヴァイオリンの左手は19才で完成され、それ以後は努力しても伸びない、と脅されていた。こうなると浪人生はアウト。ストレート合格でも1年以内に何とかしないといけないから必死になる。確かに上手いやつはみんなストレート組だから、余計信憑性が増す。(ちなみに、19才で完成、はウソ。)

技術の中でも、各楽器、最終的に血眼になるのは「音色」をみがくことである。音楽の構成がどうのこうの言うのは、魅力的な音色を作れるようになった後の話である。いい音で演奏しなければ、世間から相手にされないのを、いやというほど皆知っているのだ。

この「音作り」にかける執念こそ、音大以外の人間にはわからないかもしれない。これこそ、良くも悪くも音大という環境の成せるわざ。音大に行くと、始終いろんな音が飛びこんでくるが、Aさんのあの音、Bさんのこの音、自分よりいい音だったら即、劣等感のかたまりに自分がなっていく。ここから脱出するためには、あれよりいい音でなくてはならない。その強迫観念で4年を過ごすのである。

理想を言えば、並行して音楽作りの勉強もした方が良い。もちろん皆していない訳ではない。が、これは卒業してからでも結構できるのである。

一方、音色作りは事実上音高音大でしかできない。自分と同年代の同じ楽器の人間が、半完成の状態で間近にいる、この環境は何物にも代えがたい。もちろん一般大学では無理だから、音色の完成に必要なインプット作業を独自にやることになる。

独自にやると、あの常軌を逸した音大生みたいに必死にはならないから、獲得した音色も、まあそこそこの、という程度になる場合がほとんどだ。これはそのまま、演奏家の評価に直結しやすい。5分を超える曲をソロで演奏しない限り、音色以外の要素では判断しないのが世間である。

なので、音大生はひたすら「技術」の勉強をしており、勉強していないという訳ではないと言って良いだろう。(という一応の結論を得て、私も安堵。)

しかし、

5分を超える曲を一人で演奏しようという場に立つ人は、音色だけでなく「音楽作り」の力が求められる。これは音楽大学でもレッスンや合奏の場で実践的に扱われるが、体系的に扱われることは極めてまれ。大抵は卒業後に勉強することになる。

でも、それが大事だ。音大を卒業してからは「音楽作り」の勉強が絶対に必要である。冒頭の話における「勉強」は、そのことを指している。

問題は、それを勉強する機会、場所、機関等が少ないこと。しかも卒業してからは「勉強する」は「遊んでる」とイコール、と世間は見なす。隠れて勉強しなければならないのである。これは大変なことだ。でも、それができた時、ほぼ確実に「ひとかどの」人物になっていることだろう。在学している皆さん、卒業する皆さん、がんばってもらいたい。



DVD-RAMよ、お前もか

2011-01-17 07:46:18 | 日記・エッセイ・コラム

録画というのは、録音より面倒なことが多い。録音は、聞きながら何かをすることができるが、録画は「ながら視聴」が難しい。ほとんどできない。だから撮っても見ない。たまった録画はとってももったいない。

現在パナソニックのDVDレコーダーを持っている。ほとんどの録画はまずハードディスクに録画する。1回観たら消去がほとんど。保存するものはそれほど多くないので、保存するDVD-RAMも1年に一回くらいしか買わない。

それで先日、久しぶりに買おうとした時、驚いた。

まず、なかなか見当たらないのである。DVD-RWの方はあるのだが、DVD-RAMがない。電器屋にきくと、DVD-RAMを扱うのは、もうパナソニックくらいしかないのだそうだ。

ガビーン、またか・・・。

オーディオ・ヴィジュアルの機器、昔から二つの方式が対立する伝統がある。ベータとVHS、レーザーディスクとVHDといったヴィジュアル系、DATとMD、あるいはMDとDCCといったオーディオ系(4チャンネルステレオは乱立だった、と聞いている)。

そしてなぜか性能の良い方が戦いに敗れることが多い。上記の方式の中で、筆者が手を出さなかったのはVHDのみだ。製品開発とマーケティングは全く別であることを見事に物語っている。こちらもVHSで勝利した松下が負ける訳はないと、思いこんでいたのが大間違いだった。松下とパナソニックは別会社なんだな・・・。あーあ。

DVD-RAMの方が書き換えの点、優れているんですがね。

とは電器屋の弁。ベータの時のソニーと一緒やんか。

こんなことで嘆いていないで、ブルーレイを買えってか?でもあれも何かと競合していただろう?

あ、東芝のHDは撤退しましたよ。

はいはい、じゃブルーレイね。しかし、筆者の勤める大学の教室には1台も入っていないから授業では使えないぞ。大学も買えってか?もう勘弁してよ! VHSまだ壊れていないんだから!