井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

羊のオケと狸のオケ

2012-04-25 20:59:00 | オーケストラ

梅鶯林の話以外を期待している方も多少いらっしゃるので、一つ寓話を提供します。

指揮者キツネは全国のアマチュア動物オーケストラを指揮するのを生業としていた。

どこのオーケストラでも演奏会はなぜか3曲やるのを習慣にしていた。

通常は一人の指揮者がその3曲を指揮するのだが、ある地方では、なぜか2曲しか頼まれないことが続いた。

それはそれぞれのオーケストラの内部事情によるものだ。

・どうしても指揮をしたいというメンバーをかかえていて、1曲させない訳にはいかなかったオーケストラ。

・あまり出演料が払えなかったので、1曲は団内メンバーが指揮することにして、出演料を負けてもらったオケ。

等々、どれも、それほど積極的な理由ではなく、苦肉の策という感もなくはない。

さて指揮者キツネは別の地方にある羊のオーケストラに呼ばれて、演奏会の打合せにはいった。

「なるほど、ライオン作曲の交響曲とゴリラのコンチェルトね。両方とも何回かやったことあるし・・・」

ここで目を剥いたのが次の曲「シジュウカラのサイフワモタナイ変奏曲」!

こんな曲あったっけ。元々鳥族とはあまり付き合いがないしなー。四十から財布は持たないって俺のことか?練習終わってから飲む時、財布持ってないよなあ。大抵オケメンバーが払ってくれるからねえ。いや「始終カラの財布は持たない」かな?って俺のことか?いやいや、カラだったりカラじゃなかったりするよ。大体20世紀最高の指揮者の財布はカラヤンってことになっている。カラでもいいんだけど。うーん、急いで調べなきゃ・・・

そうこうするうちに練習は近づき、具体的な打合せが必要になってくる。

そこでキツネはひらめいた!そうだ!

「あのー、他の地方では1曲、普段練習を担当されているメンバーの方が棒を振るということをやっているのだけれど、皆さんも試しにやってみませんか」

従順なる羊たち「それはおもしろそうだ」と、早速話はまとまった。「サイフワモタナイ変奏曲」は羊が一匹出てきて指揮をし、本番の会場内にはおそろしいほどの眠気が漂ったのである。

キツネも胸をなでおろした。いや、それ以上に喜びがジワジワとわき上がってきた。なぜならば、1曲指揮をしないから拘束時間は短くなったけれど、出演料は3曲分と同じだけ払われたからである。

「これは使える!」とほくそ笑んだのは言うまでもない。じきに狸のオーケストラの打合せもある。曲目はタイガー作曲の「マスク」。先祖伝来、虎の威を借りてきた家系としては得意中の得意の曲だったけれど、今回はメンバーに譲る方式で行こう、とキツネは考えた。

「あのー、他の地方では1曲、普段練習を担当されているメンバーの方が棒を振るということをやっているのだけれど、皆さんも試しにやってみませんか」

「それはおもしろい!」と狸達は口々に言い始めた。

「どうせならみんなでマスクつけて出ようか」

「Pのところでマスクはずせば面白いな」

「そしてFのところで腹鼓な」

「ああ、そしたらGでかけ声もいれよか?」

「せっかくならキツネ先生にもそこでコーンと一発・・・」

「いや、それは勘弁・・・」とキツネ。

狸達はもともとハヤシたてるのは好きだった。

「狸に付き合うと調子狂うなー」と、打合せもそこそこにその場から去ったキツネであった。

さて本番、狸達のアイディア満載の「マスク」。何せ楽器にマスクして何の楽器だかわからない音がしたかと思うと、あらぬ方から意表をついた楽器が飛び出したり、演奏者もマスクをしているうちに消えたり出たりと、そのパフォーマンスのにぎやかなこと♪♯♪♭♪

やんややんやの大喝采のうちに終了した。

そしてキツネの出番。決して悪いできではなかったかもしれないが、前が前だけに印象に残るかと言われると、疑問は残る。とりあえずしめやかに滞りなく演奏は終った。

一般的に、演奏の評判が良かろうが悪かろうが、大抵は耳にあまり入ってこないのである。まぁ、いただくものをいただけばキツネとして不満はなかった。

狸たちがキツネのところに押し寄せる。

「いやぁ、楽しかったですね、マスク」

「キツネ先生も一発コーンとやれば、もっと盛り上がったのに」

「それにしても狸の方から指揮者を出すなんて、キツネ先生も良いアイディアをお持ちですねぇ」

「お陰で盛り上がりましたよ。それにこんな下世話な話で恐れ入りますが、一曲分の経費が浮いて大助かりでした」

「え?」

狸たちはキツネが一言も口をはさめないほどの勢いで、口々にまくしたててくる。

「いや本当に。実は結構台所事情苦しいので、先生からお金のかからない方法を言っていただけて、いや本当にいい先生だって、みんな言ってたんですよ」

「仲間内でこんなにできるなら、これからもこの方法でいけるね、なんて話してました」

「という訳で、些少ではございますが、ここに本日の謝礼がはいっておりますので受け取ってくださいね」

「私たちはまだ片付けがありますんで、これで失礼します」

と言うなり、数匹の狸たちはドヤドヤと離れていった。

キツネの手には3分の2に減額されたとおぼしき金額のはいった封筒が・・・。

うーん、狸のうるささには参ったなー。特に弦楽器の四人組、ずーっと何か相談していたけれど、こういうことだったか。これが本当の減額始終相談。




下手だけれど本物っぽい人々

2012-04-14 23:51:40 | アート・文化

下手、と決めつけてしまうと語弊があるのだが、説明をわかりやすくするために、敢えて使わせてもらう。演奏家の話である。

対極には「上手いけれど本物っぽくない人々」というのがいる。昔の邦人演奏家によく使われた表現だ。

私が学生時代(30年前)、先生方から「ヨーロッパのオーケストラって、近くで一人ひとり聴くとちっともうまくない。でも遠くでまとまった音を聴くと日本のオーケストラよりずっといい、なぜか。」とよく聞かされていた。

それから十年(20年前)、日本人はさらに上手くなったが、全体のサウンドは相変わらずだった。その頃の評論家の書いた文章によると、それはオーケストラ・メンバー各人の「イメージの欠如」からくるのではないか、とのことだった。

さらに十年たち(10年前)、日本人は見違えるほどうまくなった。あまり本物っぽくないな、などと思わなくなってきた。

先月のN響アワーで、昔のサヴァリッシュを見た。棒をふりながらしばしば左手で抑止のサインが出ていた。つまり音がちょっとだけ大きいのを本番で何とかしようとしていたのだが、ちっとも小さくなっていない演奏だった。当時の技術ではこれ以上小さな音を出すのは不可だったということだ。現在では考えられない。

そして現在、もう話題にさえならないと思っていたのだがさにあらず、どっこい今でもまだそれが問題にされる状況があったのだ。

数年前だが、「明日本番なんですが・・・」と頼まれた仕事があった。オーケストラならまだしも、弦楽四重奏の第一ヴァイオリンである。内容はピアノ協奏曲をクァルテットで伴奏するものとピアノ五重奏が一曲、弦楽四重奏曲が一曲。このために来日していたポーランドのクァルテット、第一ヴァイオリン奏者が車のドアに指をはさんで弾けなくなったため、急遽代役を頼まれたのだった。

これは大変、と戦々恐々の体でゲネプロに臨んだのだが・・・。

ピアノ協奏曲は全部初めて弾く曲で、これは必死になって弾いた。ピアノ五重奏はドヴォルジャークの1,2楽章で、弦楽四重奏はスメタナ「わが生涯」の第2楽章だった。

スメタナはかなり難しい曲だ。何故に、と尋ねたら「バレエがつく」とのこと。は?

おまけにポーランド人3人は、この曲を生まれて初めて弾くという、楽譜にかじりつき態勢だった。私は弾いたことがあったので、私が一番余裕があるという、皮肉な結果になってしまった。

そして彼らが本当に下手であるという現実をつきつけられた。これだったら、日本人の弦楽四重奏を使った方が、はるかにマシなのにと思わずにはいられなかった。

にもかかわらず、なぜかこのポーランド人達は自信にあふれており、文句も言いまくり、日本人が結果的には頭を下げまくるという状況にいつの間にかなっていった。

こんなバカな企画を立てないでほしい、と思う一方で、そうは言っても、という看過できないものがあった。

もし、彼らの技術と同レベルの日本人を集めて弦楽四重奏をやったとする。多分、良い結果は得られない。このポーランド人にはかなわないだろう。なぜか、彼らが行動すると本物らしい雰囲気が醸し出されるのである。

この原因は、それこそ「イメージの有無」かもしれない。自信の有無かもしれない。正直言って何が原因かはっきりとはわからないが、その「本物らしさ」を求めて彼らを招いているとすれば、この下手さであっても納得するしかないのだ。

とは言え、日本人はもっと上手いし、本物の気配を持つ演奏家もたくさんいるはずだ。その出会いが早く訪れますように。




新・クラリネットよごしちゃった

2012-04-05 23:56:45 | アート・文化

かれこれ5年以上前に、以下のようなことを書いた。

 昨日TVを観て「日本のオーケストラもレヴェル上がったなぁ」と感心することしきりだった。

 しかし,どうしても気になることがある。ある部分の途中で「さぁ吹き終わった」とばかりに首席クラリネット奏者が楽器を急いで掃除するのである。つられたように2番奏者も,急いで管に布を通していた。掃除のタイミングまでピッタリの二重奏!首席奏者としては,この2番奏者のサポートは嬉しいものかもしれない。でも目前のフルートやオーボエは熱演の最中なのだ。曲の途中にどうしても掃除をしなければならないものなのだろうか?

 フルートの後ろだから,あまり目立たないだろう,と思っているからか?そうではないようなのである。数年前,グルダのチェロ協奏曲が放映された時のこと。この曲は,オーケストラが管楽器とリズム・セクションなので,クラリネットは最前列に座っていた。チェロが休んで,管楽器が中心になるところがあった。重要なクラリネット・ソロが大変美しく演奏された。すばらしい緊張の時間!無事終了して,他のパートへ音楽は推移,聴き手も演奏者もホッとした次の瞬間,クラリネット奏者は掃除を始めた!

 実はこれが気になったのはオーケストラが始めてではない。その昔,モーツァルトのクラリネット五重奏曲を演奏した時にさかのぼる。第3楽章のトリオで,クラリネットが休みになり弦楽四重奏だけになる部分がある。ここは第1ヴァイオリン奏者として,大変気合いのはいる部分である。ずっと主役然としていたクラリネットから,突如主役を譲られる場所だからである。神経もかなり使う。一方,クラリネットはつかの間の休息,なのだろう。それはそうなのだが,そこで「お掃除おじさん」に変身されると,ヴァイオリン側としてはとにかくやりにくいのである。余計に集中力を要するのである。
 リハーサルの間のことかと思いきや,本番でもお客さんの前で「お掃除タイム」は繰り広げられていた…。

 思い起こすと,フルートやオーボエでお掃除するのは見た事がない。演奏者が一流であろうと,関係なく繰り広げられるのは,クラリネット界特有の何かがあるに違い無い。しないとリードミスが増えるとか・・・。あれは黒子のようなもの,見えていても「見えないと思うこと」ということなのだろうか?

 ひょっとして指摘してはいけなかった?でも目の前で掃除されながら演奏するヴァイオリンも辛いのだよ。

そして、その後クラリネット奏者から通達があったのである。曰く「タンポ水害」で、いち早く水を吹きとらないと、肝心のところで鳴らない危険性があるとのことだった。

そう言われると、我慢せざるを得ない。

しかし、また「見てしまった」のだ。練習ではあったが…。ベートーヴェンの第九の終楽章でホルンがポポー、ポポーとやった後、盛大に「歓喜の歌」を歌うところで。

とても奇妙なことに、あれだけ盛大に盛り上がるところで、なぜかクラリネットはお休みなのだ。みんなフォルティッシモで自分のパートに夢中になっているから、クラリネットのことなんて全く気にしていない。絶好のお掃除タイムだ。それでクラリネットのお二人が盛大に掃除を始めた。

しかし、私はその時、指揮者だった。真正面からその現場を見てしまった。うーん、やっぱり気になるよぉ・・・。

前述のグルダのチェロ協奏曲、最近どなたかがアップされたようだ。チェロのカデンツァが終ってからの部分(第4楽章「メヌエット」)、皆さんは気になりませんか?




ジョン・レノンを殺した凶気の調律A=440Hz

2012-04-02 23:37:58 | アート・文化

かなり刺激的なタイトルに触発されて買ってみた。いやはや何とも難しい内容だった。

著者によると、

528Hzが「万能の愛の定数」であり、奇跡を起こし、傷ついたDNAも治す。

古代ソルフェジォの6音は396, 417, 528, 639, 741, 852の周波数。

そのうち741Hzのみが唯一、愛528Hzと不協和になる。楽器をこの周波数にチューニングすれば、ゆっくりと、しかし確実に、愛する気持ちを毒し、社会全体(人口のすべて)をむしばむことができる。

と、恐ろしい事まで書いてあるのだが、はて、一音だけ聴いて奇跡が起きたり、病気になったりなどということがあるだろうか。

それは到底信じられない。

また「A=440HzにするとCが528Hzにならない。528にするにはA=444Hzであるべきで、国際会議でA=440Hzに定めたのはイ○ミナティの陰謀」となっているのは完全に見方がおかしい。

A=440Hzにすると、純正律ならばぴったりC=528Hzになるのだ。平均律が頭を狂わせる話ならばわかるが。

にも関わらず、この本に興味を持ったのは他の部分である。

先ほどの741Hzは、大体F#の音になるが、これとCは増4度の不協和音程。昔から「悪魔の音程」と言われている。

この増4度が「社会全体をむしばむ」というのならばわかる。そして、

イ○ミナティが人間の頭と心を支配しようとしていることが、このテーマによって証明されている。(中略)神からのメッセージや直感を濁らせることが、エゴや「認知機能」の領域を悪用する悪魔たちの最大の目的である。

等の文章があるのだが、そのように苦痛を与えて支配するために「増4度」を使う、ということならば納得できるからだ。

さらにロック○ラー財団が戦時中から「集団ヒステリー」の研究を行い、実践例がプレスリーやビートルズとある。研究者の中にはハンス・アイスラーとテオドール・アドルノが含まれていた。

そしてカッコ書きなのだが、[ビートルズの楽曲をアドルノが作曲していたという「ビートルズ陰謀論」がある。]という一文に惹きつけられた!

以前に本ブログのコメント欄で「ビートルズのゴーストライター」に触れたことがある。これは信じていたのだが、えっアドルノ?

アドルノの本は図書館には必ず置いてる類の、いわゆる難しい本だ。私はまだ読んだことがないし、あまり読みたいとも思わない。

ウィキで調べると、実は作曲も勉強していて、アルバン・ベルクに師事したという。しかし「支持」していたシェーンベルクらが評価されないのに失意を感じて、作曲は止めたらしい。そしてポピュラー音楽を否定的に見ていたとのこと。

これは怪しい。世間をあざむく仮の姿のニオイがする。

また、シェーンベルクも怪しげなところはあちこちある。玉木宏樹さんは「シェーンベルクは調性が大好きだったのではないか」と述べられていた。その説には大いに賛同する。

為政者にとっては、一般市民が音楽を聴いて知性や理性が豊かになっては困るから、その権威であるアカデミズムに仕掛けをして、人々の気が狂いそうになる音楽こそ未来のあるべき音楽だと仕向けるようにイ○ミナティなりが誘導したのではないか、と想像してしまった。

だってですよ、ユダヤ人としてアメリカに亡命してですよ、あの誰も聞かない音楽を書いて最後はビバリーヒルズですよ。あり得ない!

そのアドルノが否定的だったストラヴィンスキーは売れている3大バレエがあったにも関わらず、生活するのに大変そうだったし。

この本の意図するところとは別であり、本来の読み方ではないと思うが、少なくとも私はこの本を読んで、現代音楽に対する訝しさが吹っ切れた。

これを機に、現代音楽から調性を奪ったのはロック○ラーの陰謀と井財野は決めつけ、それに抵抗する道を力強く歩んでいこうと思うにいたったのである。その意味で、大いに役にたった本であった。

ジョン・レノンを殺した凶気の調律A=440Hz 人間をコントロールする「国際標準音」に隠された謀略() (超知ライブラリー 73)

ジョン・レノンを殺した凶気の調律A=440Hz 人間をコントロールする「国際標準音」に隠された謀略() (超知ライブラリー 73)
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2012-02-29