井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

〈寛仁大度〉【泰然自若】

2018-09-27 08:13:00 | 日記
目の前に文字があると、自然と読んでしまう。

ある小学校の会議室に入ったら、目の前に「寛仁大度(かんじんたいど)」と書いた額が目に入ってしまった。

〈シシリーの王、アルフォンソは寛仁大度の人にして…〉

というような福沢諭吉の文章を合唱曲にしようとして悪戦苦闘したことが10年くらい前にある。

この経験がなかったら、この言葉は読めなかったような気がする。
とにかく、その時以来の再会だった。そうか、これは(少なくとも現在は)一般名詞か。

少し目を移すと、今度は「泰然自若」と書いた額が目に入った。

これはさすがに初めて出会った言葉ではないが、小学校の先生のイメージとかけ離れた言葉だと思うのは私だけか?

毎日が非常事態のような小学校、だから寛仁大度な人で泰然自若としていろ、ということなのかもしれない。

しかし、全員が泰然自若とした先生ばかりの小学校は果たして成立するのだろうか。
そんなことはあり得ないのが前提の標語か。

まあ、大きなお世話かもしれないが、もっと別の言葉もあろうに、と思わずにはいられない会議室であった。

オペラ「千の鶴の物語」③

2018-09-23 09:47:25 | 指揮
器楽の演奏者がそれぞれ携帯電話をいじっている。それは、3.11の日、日本では報道されなかったCNNニュースに一般市民が釘付けになっている状況を描いている。

アメリカではジョン・アダムズやスティーブ・ライヒなど、9.11を直視した作品が多く発表されているようだ。

「美しいものを描くだけが芸術artではない」という考え方がある。このオペラもその考え方の延長線上にある作品と言える。

でも所詮は対岸の火事なんだよな、ということを物語っているようで、深く考えると正直やってられない。

私は蝶々夫人でも夕鶴でも、内容をなるべく考えないで演奏する。普通は、内容を把握して演奏するべきなのだが、この手のものはそれをすると演奏不可能になってしまう。

なので、ひたすら冷静に演奏に徹したのだが、目の前の行為に反応しないようにするのは、なかなか大変だった。

まあ「不愉快な感情を引き起こす作品」は、確かに芸術作品の価値はある。少なくとも、つまらない作品はそのうち消えていくが、不愉快な作品は残っていく可能性がある。

しかし、今の日本に必要なのは、日本人が元気になる作品だと思う。ここ何十年も日本を覆う閉塞感を打破するような。

そう考えると、日本国内での再演は難しいのではないだろうかと思う。

が、そこを問題にしなければ、とても興味深い作品だった。

台本の対訳だけではわかりにくいからと、前日になって急遽ナレーションを頼まれた吉岡さん。彼女はこの演奏会で《鶴姫奇譚》という曲を発表するために駆けつけていただけなのだが、その多才ぶりを、ここで発揮してもらった。この場を借りて感謝。


指揮者も一ヵ所だけ演技がある。千羽鶴がカモメになって飛んでいくのに気づいて「あっ」と驚く様子である。


写真だけだと面白そうに見えるし、実際面白かったので、気分はとても複雑である。
最後のカーテンコール。

オペラ「千の鶴の物語」②

2018-09-21 08:02:47 | 指揮
楽譜は大体において最初から読むものだ。

まず、拍子がない。指揮者は何をすれば良いのだろうか。

入りの合図、かな?
これも、多分に即興性が含まれているので、演奏者に任せても勝手にやってくれそうな気もする(実際、本番では合図を出し忘れて、勝手にやってもらった箇所もあった、sorry.)。

とりあえず、入りの合図は全部出すことにして…

どんな音がするのか見当もつかない楽器の集団の上、トーンクラスター(音の塊)や特殊奏法も多く、それらを統合した響きを頭の中に作り出すのは不可能だった。

仕方ないから、最初のリハーサルに「賭ける」ことにして…

読み進めると、津波の「絵」(ツナミ・ハザードと書いてあった)や、携帯電話、ipadまで出てくる。


左側に見えている奏者が携帯をいじっているところだ。

また気持ち悪くなってきたので、続きは③で。

演奏会のはしご

2018-09-17 20:43:33 | 日記
多分生まれて初めて、演奏会のはしごをした。
というのも、両方とも私が以前教えていた人、いわゆる教え子の演奏会だったから、両方とも見てみたかったのである。

移動に新幹線まで使って、しかも早退と遅刻だったが、こういうのは苦にならないどころか、とても楽しい。
あっちでもこっちでも、活躍の姿が見られるのだから。

などと言えるのは、両方ともそれなりに良かった証拠だ。

最初の方は築100年の教会で行われたバロックの演奏会。
この教会に今は亡き父が、ずっと籍を置いていたという興味もあって赴いたのだが、なるほど、すぐ裏に父の元職場と思われる建物があった。閑話休題。

あまり座席数も多くなく、そのためもあり満杯の聴衆。

ゲストにテラカド氏を招き、本格的なバロック奏法の協奏曲等が演奏されたのだが、聞き慣れたビバルディの「秋」が、あそこまで遊び心たっぷりのデフォルメされたことに仰天した。
テラカド氏が酔っぱらいを演じてよろよろ動き回りながら弾くのだから。

もう一つはファミリーコンサートタイプの小オーケストラの公演。

こちらも指揮者が激しく動き回ったが、こちらは「普通」である。

普通でないのはティンパニをドラムセットに置き換えたり、軽騎兵序曲で聴衆に手拍子させたり、等々。

でも終わって帰る聴衆が口々に「今日は楽しかったね」と言って帰っていったのだから、これは成功である。私も嬉しかった。

で、ふと疑問に思ったのは、アンコールがなぜ「ラデツキー行進曲」なのだろう、ということ。(今晩は別のアンコール曲もあったが…)

明らかにウィーンフィルの真似だが、ウィーンならばよくわかるのである。ラデツキー将軍は「そこそこ」強かったそうで、侵略してくる敵はしっかり追い払ってくれたそうだ。ウィーンにとっては縁起の良い将軍をたたえた行進曲、これはウィーンっ子には快感だろう。「なかなか」名曲だし。

しかし、日本人にとっては何なのか。

絶対的な名曲ならば、元が何であれ、どうでも良いことだ。

私の意見だが、この曲に合わせて手拍子するのは、少々高度な技術がいる。手拍子するために作った曲ではないから当然だ。
そのように、手拍子するには練習が必要、みたいな曲を、遠く離れた我等日本人がやる必然性があるのだろうか。

《軍艦行進曲》とか《東京オリンピック行進曲》で手拍子、ではダメなのだろうか。

個人的には斎藤高順作曲《輝く銀嶺》なんて好きなのですが…。

(そう言えば今日は斎藤高順氏の息子さんの誕生日でした。この場を借りておめでとうございます。)

オペラ「千の鶴の物語」①

2018-09-16 13:16:29 | 指揮
日系カナダ人の作曲家、リタ上田作曲のオペラ《1000 White Paper Cranes for Japan》の日本初演を指揮した。
以前《禎子と千羽鶴》と本ブログで紹介していたものである。(実際には《禎子》とはほぼ無関係だった。)

国際的には6度目の上演になる。
5度目がアムステルダムで8/25に行われた。

演奏したのはカナダのグループMUアンサンブル。これはバンクーバー・インターカルチュラル・オーケストラの選抜メンバーで、来日したのはソプラノ、笙、サントゥール、ギター、ピパ、ダンバウの6人。それに東京からの箏と福岡の打楽器が加わる。

この、見たことのない編成は作曲者も見たことがない編成で、演奏者の都合で演奏の度に編成が変わるそうだ。
ちなみにアムステルダムではチェロと尺八があり、これがとても良かったらしい。

とは言え、福岡初演9/1の直前で、その演奏を参考にすることもできず、1か月ほど前に送られてきたスコアを、ひたすら勉強する毎日……

と言いたいが、9/1は例の《鼎華章》を始め、初演の曲がいくつもあり、運営の準備にも追われ、ほとんどの日はスコアの表紙を眺めるのみ。

と、物理的に忙しいのは、スコアを読まなかった理由の半分でしかない。

私は楽譜を読むのが好きなので、どんなに忙しくても、楽譜は見る。

見なかった理由の半分以上は、見ると苦しくなって、途中で読むのを止めてしまうこと。

と、今書きながらも、ちょっと苦しくなってきたので、とりあえず中断する。

写真は福岡初演の様子。