目の前に文字があると、自然と読んでしまう。
ある小学校の会議室に入ったら、目の前に「寛仁大度(かんじんたいど)」と書いた額が目に入ってしまった。
〈シシリーの王、アルフォンソは寛仁大度の人にして…〉
というような福沢諭吉の文章を合唱曲にしようとして悪戦苦闘したことが10年くらい前にある。
この経験がなかったら、この言葉は読めなかったような気がする。
とにかく、その時以来の再会だった。そうか、これは(少なくとも現在は)一般名詞か。
少し目を移すと、今度は「泰然自若」と書いた額が目に入った。
これはさすがに初めて出会った言葉ではないが、小学校の先生のイメージとかけ離れた言葉だと思うのは私だけか?
毎日が非常事態のような小学校、だから寛仁大度な人で泰然自若としていろ、ということなのかもしれない。
しかし、全員が泰然自若とした先生ばかりの小学校は果たして成立するのだろうか。
そんなことはあり得ないのが前提の標語か。
まあ、大きなお世話かもしれないが、もっと別の言葉もあろうに、と思わずにはいられない会議室であった。
ある小学校の会議室に入ったら、目の前に「寛仁大度(かんじんたいど)」と書いた額が目に入ってしまった。
〈シシリーの王、アルフォンソは寛仁大度の人にして…〉
というような福沢諭吉の文章を合唱曲にしようとして悪戦苦闘したことが10年くらい前にある。
この経験がなかったら、この言葉は読めなかったような気がする。
とにかく、その時以来の再会だった。そうか、これは(少なくとも現在は)一般名詞か。
少し目を移すと、今度は「泰然自若」と書いた額が目に入った。
これはさすがに初めて出会った言葉ではないが、小学校の先生のイメージとかけ離れた言葉だと思うのは私だけか?
毎日が非常事態のような小学校、だから寛仁大度な人で泰然自若としていろ、ということなのかもしれない。
しかし、全員が泰然自若とした先生ばかりの小学校は果たして成立するのだろうか。
そんなことはあり得ないのが前提の標語か。
まあ、大きなお世話かもしれないが、もっと別の言葉もあろうに、と思わずにはいられない会議室であった。