井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

楽譜から音楽を読み取ること

2016-05-30 20:47:45 | 音楽

私が子供の頃は「レコードを聴いて勉強してはいけません。楽譜が読めなくなるから」と言われていた。

その頃、すでに鈴木メソードは(全盛期を過ぎていたのかもしれないが)かなりの普及を見せていた。そして、鈴木メソードで学習すると譜面が読めないままヴァイオリンを弾く事になり、そういう人が続出していると既に言われていたのだった。

鈴木メソードは音楽教育というよりは人間教育だ。鈴木で育った子はリーダーシップが育つ、という別の報告もある。音楽家を育てようとする教育ではないので、楽譜が読めないからダメという論法も鈴木メソードにとってはいい迷惑だ。

それ以上に・・・

昔から指揮者・作曲家のレナード・バーンスタインに憧れていて、バーンスタインが学生時代、古典派の交響曲程度ならば、スコアを初見でピアノで弾いたという話を聞いた途端、とにかくそれができるようになりたかったのである。

また同時期に、日本人の指揮者・作曲家、外山雄三氏が「基本的に、まずスコアを読むことが先で、レコードは最後に参考程度に聴くこともある」と話されていたのを、どこかで知った。やはり、そうでなければならない、と思い込んだのである。

一方同じ頃、指揮者の岩城宏之氏が「岩城音楽教室」という新書を出した。デビューの頃「運命」を振るにあたって20数枚のレコードを聴いて、自分の好みに合わないものを排除しながら、消去法で自分の個性を発見していった旨の文章が載っていた。これはかっこ悪い、と思い込んだのである。

楽譜から直接音楽を読み取れるようになるには、もちろんかなり長い時間がかかった。短くみれば3年、長く見積もれば数十年かかったと言える。

それでも完全に読める訳ではない。しかし、7割から9割読めれば、演奏のための準備としては充分役に立つから、それで良いのではないかと思う。

なので、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタのCDを何か貸していただけませんかと学生から言われて、はたと気付いた。ほとんど持っていないし、それ以上に聴きたいと思わないからだ。

聴いたら、どこかに不満が出そうなのが嫌なのだ。それより楽譜を眺めている方が愉しい。自分の頭の中で理想の演奏が流れるから。

なので、録音を聴くより楽譜から音楽をくみとれることができるようになることを「目指す」のをお勧めしたい、というのが今の心境である。


タニタの学食

2016-05-25 19:46:00 | 大学
栄養士が作る食事はおいしくない、という定説がある。

身近に栄養士がいないもので、そんなものかな、と思うだけだったのだが、最近「食物」や「栄養」を専門にもつ大学の学生食堂に行く機会があり、それを実感することとなった。

A大学は食堂を「食育館」と呼んでいる。この学校の発祥が「食物」であり、隣に「体育館」「音育館」と並んでいるので、なるほどと思わずにはいられない。「音育館」も初耳だったが、むしろ何故今までその呼び名を使わなかったのか、とまで思ってしまう。

その食育館に掲げてあるスローガン?「一汁三菜」 それを乗せるトレイは、室町時代標準サイズのお膳と同じ大きさで云々とのこと。

いやはや、ここで食事すると、本当に「私は食べ物に育てられている」実感を持つ、まさに食育館、である。

片やB大学、ちょっと前まで「一汁二菜」だったはずだが、A大学を意識したか、大学の生き残りを食堂改善に託したか、わからないけれど、最近改修して、こちらも「一汁三菜」になっていた。

さらに「タニタ食堂提供メニュー」などというコーナーもできていた。食堂にかける情熱が感じられるところだ。値段は500円也。

これで、学生に大人気、ならば大成功。 しかし、実態は……

タニタ食堂のコーナーには誰もいない。

それはそうだろう。一汁三菜のランチは400円台で食べられるのだ。しかも、大半が女子学生の大学。ランチのセットでさえ量が多く、麺類程度で済ませる学生が一番多い。

栄養士養成には、とにかくそこに存在することが大事、という考え方なのだろうか。

何だかわからないけれど、いずれにしても食欲がそそられないので、400円ちょっとのカツ丼を食べる。おせっかいにもレシートに、野菜類が全く足りていない旨の表記があった。

ほっといてくれ!労働の後は、体に悪かろうが、おいしいものを食べたいのだ!

マイナー(短調)は教えなくてもま、いいなー

2016-05-19 18:17:16 | 音楽

小学校の先生になる人の為の授業で、長調数種類を教えた後、本当は短調も教えることになっている。

短調の音階=短音階には自然、和声的、旋律的の3種類があって、と教科書(大学生用の)に書いてあって、説明しようとしたけれど、長調の説明で学生達は頭が飽和状態、時間もなく、とりあえず後回しにした。

しかし、例えば文部省唱歌に短調の曲は1曲もない。教える必要があるのだろうか。

「ある」ということになっている。

学習指導要領では小学校5,6年生に、歌唱の活動として「範唱を聴いたり、ハ長調及びイ短調の楽譜を見たりして歌うこと」と書いてある。器楽の活動にも同内容の記述がある。

一体何を歌うのか、手許の教科書、ある一社のものをざっと見たところ「小さい秋みつけた」、これ一曲のみ載っていた。

この曲で使われている短音階は自然か和声的か旋律的か・・・

ここで驚いたのは第6音が一カ所しか出てこない、ということ。「めかくしおにさん」の「おーにさ」のところのみで、そこはホ短調のハ(c)音。第7音が常にニ(d)音なので、和声的ではない。音階で出現するなら判断がしやすいが「呼んでる口笛」の「ぶ」のみニ(d)音で前後がロ(h)音というのは自然短音階、だろうな・・・。

断定しがたいのは、そこが転調しているともとれるからだ。

この「ほのかな」自然短音階の使用のお陰で、この曲は全体として欧米的でなく「ほのかな」日本風になっている訳だ。それに気付くのに私は半世紀かかったことになる。中田義直はすばらしい!

しかし、この曲はホ短調で、この教科書では指導要領にあるイ短調は一曲も載っていない。

音楽の教科書なんて、その程度だ・・・と言いたいところだが、どちらかと言えば、そこまでして教えるべきと書いてある指導要領の方が変ではないだろうか。

と言いたいところもあるが、そもそも「旋律的短音階」って、どの程度使われているか、よく考えると疑問が出てくる。

生々しく出てくる曲は、なかなかお目にかかれないことに気付いた。チャイコフスキーの交響曲第5番の第1楽章の推移部、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の第1主題あたりだろうか。モーツァルト、あるいはバッハになるとさすがに用例はあるものの、やはり、どちらかと言うと珍しい動きになる。

一体、誰が整理した「楽典」なのだろうか。楽典で短調は3種類と整理されているから、指導要領もそれに従っているだけの話で、指導要領が悪いとは言いがたい。(できれば、要領作成者も楽典にあまりとらわれないでいただきたかったが。)

今まで何の疑いもなく、短調は3種類と思っていたが、今日は突然「短調は一種類、第7音は時々半音上がり、まれに第6音も半音上がることもある」くらいで良いのではないか、と思ってしまった。


感心せん、新幹線

2016-05-14 11:28:34 | 旅行記
山陽・九州新幹線博多駅の電光掲示板である。

下り線(鹿児島方面)の案内。


奥にプラットフォームの番号が見えるだろうか。小さくて見にくいが「13」「14」ホームへ向かうエスカレーターである。

同じ電光掲示板の左半分、上り線(関西、関東方面)の案内。

これもはっきりとは見えないが、「15」「16」ホームへ向かうエスカレーターが映っている。

どちらも逆方向の案内になっている。
裏側から見れば正しいかと思いきや、裏側には案内がなかった。
当然である。案内を必要とする乗客は、こちら方向にしかいないから。

左側に鹿児島方面、右側に大阪方面の案内をしてくれれば、非常にすっきり、あまり迷うことなくホームに行けるのだが、いったい何故こんなに見にくい表示をしているのだろうか。

開業して5年以上経つのだ。何とかして下さい、JR様。

プーランク:ヴァイオリン・ソナタのミス・プリント

2016-05-07 19:49:43 | ヴァイオリン
今度の日本音楽コンクールの第3予選の課題曲に選ばれていたのが、大変興味深い。

プーランクと言えばフルート・ソナタとクラリネット・ソナタである。この2曲と決してひけをとらず、本当はもっと高く評価されて良いと私は思う。

なぜ、この程度の評価なのか。

それはひとえに、演奏が難しい、これに尽きる。ドビュッシーやラヴェルの比ではない。
作曲者自身が「管楽器のための作品が得意」と明言しており、ヴァイオリン的ではないパッセージもちらほら出てくる。

それらのことも影響して、あまり良いと思う演奏に巡りあえない。超がつくほどの一流ヴァイオリニストの演奏でも、首をかしげたくなるものがある。

もう一つ、名演が生まれない理由に、楽譜の問題がある。パリの老舗出版社から出ていたのだが、そこはもう倒産したか吸収合併されたか、今どうなっているか寡聞にして知らない。

その昔の楽譜なのだが、ミス・プリントがいくつかあるのだ。それがとても気づきにくいもので、ヴァイオリン譜とピアノ譜を詳細に付き合わせてわかるものだったりする。
が、その数カ所はミスを訂正した方がすっきりした仕上がりになる。

ピアノ譜には音部記号のミスもあるが、不協和音の連続箇所で、ヴァイオリン側からすれば「ついにここまで変な和音を使うか」で通り過ぎてしまう。
実際、ミス・プリントのまま、堂々とCDになっている演奏もある。
私も数回演奏したことがあるが、最初の頃は気づかなかった。あるピアニストの指摘でわかったのである。

ミス・プリントはドビュッシーのソナタにもあちこちあるが、あのくらい頻繁に演奏されると、楽譜のミスはミスとして認識される。(しかし半世紀以上ミスを訂正しない出版社の見識?常識?もすごい。いちいち訂正していたら、あっという間に倒産するのだろうが。)

プーランクのクラリネット・ソナタは新版が出て、ギョッとするような目新しい箇所もいくつか出てきた。(以前、クラリネット・ソナタに関しては記事にしているが、その後に出版されている。)
ひょっとしたらヴァイオリンも新版が出たのかもしれない。そうなると、上記の悩みは解決するかもしれない。

かも、というのは、新版が新しいミス・プリントを作る可能性もあるからだ。ヴァイオリン教則本のシェフチークなどは、ひょっとしたら新版の方がミスが多かったりして、というお粗末な先例もある。

そのあたりのチェックをしっかりした演奏が良い成績をとる…

ほど単純な問題ではない。繰り返すが、私は無論、超がつくほどの一流ヴァイオリニストでも見逃すくらいのミスである。審査員が見逃しても不思議ではない。

でも、そのミスを探し出すくらい楽譜を読む、これが最も大事なことだ。

そうなると、ミスのある楽譜も使いようだ。「この楽譜には3箇所ミスがあります」と言って楽譜を渡す。渡された側は丹念に楽譜を読むかもしれない。クイズが好きな人だったら。

これを課題曲に選んだ方の慧眼ぶりに頭が下がる思いだ。