井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

時々友人でなくなる人種

2010-03-26 18:14:02 | アート・文化
「飛んだり跳ねたりがフィギュア・スケートではない」という言い方,どっかで聞いたな・・・としばらく考えて、思い出した。

「あれはDUO(二重奏)ではない」

そうだそうだ,音楽の世界でもよく使う言い回しだ。音楽に限らず,よく使う。でも音楽の場合,ちょっと嫌な感じがする時がある。ドイツ・オーストリア人,フランス人,イギリス人が言う時だ。

その昔,ミュンヘン国際音楽コンクールの二重奏部門で,あるレバノン人の演奏を聴いた。強烈なインパクトを持っていた。こりゃあすげえや。私など足元にも及ばない,と思った。そのまま「凄かったよ」と,当時ドイツに留学中で,コンクール参加者でもあった後輩に伝えた。

数日後,その後輩,
「『あれはDUO(二重奏)ではない』って言ってたよ」
と伝えてきた。言ってたのが,その後輩の先生だったか,仲間だったか忘れたが,ドイツ人の発言であった。

確かに,ヴァイオリンはもの凄い個性をひらめかせて雄弁に語ってきた一方で,ピアノはカスミッシモ。後から付いて行きマース的な演奏で,印象には残らない。二人で何かやっている感じは弱い。DUOでないと言われたらその通りかもしれない。

これをロシア人とか中国人が「あれ,DUOとは違うんでねえの?」と言うのなら「んだんだ。」と素直に思うような気がする。ロシアも中国も(独仏伊に比べ)後進国だし,一方で「すごいことやっている」のを認めた上での発言だろうと(こちらが勝手に)思うからだ。

ところが上記の三人種は「上から目線」を感じてしまう(のは私だけか?)。この三人種は思想統一が結構できていて,それ以外は認めません,という雰囲気を持っている。

三十数年前,「新西洋事情」に西独では「ドイツと日本の長い友情を祝って乾杯」すると,商談がまとまりやすいという話が載っていた。今でも「この間の戦争(第2次大戦のことですよ!)ではイタリアをいれたから失敗した。今度は日本とだけ組もうぜ」という冗談を言う人がドイツには存在すると聞いた。

ヨーロッパ人はいろいろいるけれど,チームワークの観点からすると日本人とドイツ人は相性が良い方,長く友人でいられる関係だと思う。でも「あれはフィギュア・スケートではない」とか「あれは二重奏ではない」とか,ドイツ人から言われると,やはりちょっと嫌な感じがする。ドイツ人が時々友人でなくなることを感じる井財野友人であった。
新西洋事情 (新潮文庫 ふ 7-1)
価格:¥ 530(税込)
発売日:1977-07



芸術性(?)

2010-03-23 00:54:47 | アート・文化

前二つの記事が背景となり,ようやく現在考えていることに至る。(長い前置きにおつき合い下さった皆様,ありがとうございました。)

複数箇所から紹介いただいたmizumizuさんのブログを,過日やっと読ませていただいた。大変な文章量!音楽関係者で,この分量を書く人がプロ(音楽評論家)以外にいるだろうか?N響の根津さんよりも,さらに長いし,スケートの記事に徹していてこの量である。その観察と洞察の細かさにも恐れ入る。そこに加えて,オリンピック時期のアクセス件数が一日に12万件!この「井財野は今」が開設以来,現在12万件を超えたなぁ,などと言っている身分,それからすると天文学的数値である。

その長大な文章を一言でまとめてしまうと身もふたもないかもしれないが,フィギュア・スケートの新しい採点方法は,ロシア潰しのためにドイツが考えたのではないか,という主旨だったように読み取れた。(その割にはドイツの選手は見当たらなかったけど,)その流儀に則った国の選手に有利であったはずだ,とのこと。

mizumizuさんに限らず,バンクーバーで「難しい3回転を評価しないとは何事だ!」と思った日本人は少なくないし,至極もっともな意見である。難しいプロコフィエフを弾いた方が落ちて,易しいヴィオッティの方が合格したヴァイオリンの試験と,よく似ている。ひょっとしたら音楽の世界では日常的に起こることかもしれない。

音楽に左右されてしまう私,ハチャトゥリアンの仮面舞踏会はヴァイオリンとピアノ版を人前で弾いたこともあるくらい好きな曲,一方ジョン・バリーの007も大好き,ラロ・シフリンの「スパイ大作戦」と双璧を成す名曲だと思っている。

という訳で音楽による優劣は感じていない私からみて,マオウとユナのどちらに魅了されたかと言うとユナであった。お色気路線と揶揄されもしているが,その通りかもしれない。それは悪いことだろうか?このことを考察することは「人間は何に魅力を感ずるか」を考えることである。

以前にも書いた通り,このご両人,顔つきはかなり似ている。一方がより魅力的だとすれば,それは造作からくるものではないと考えられる。ユナは007の映画を観て,視線の使い方をかなり研究したと言われる。ヴィットがカルメンになりきって立ち居振る舞いを研究したのと一脈通ずる。その結果,あの「表情」を獲得した。ここが重要なところだ。人間は結局「表情」に惹かれるのである。この「表情」が評価されたことは,あらゆる人間にとって歓迎すべきことではないだろうか?「表情」は後天的に獲得できるのだから。

会期中に急いで作られたNHKのドキュメンタリーによると,ユナも3回転に挑戦していたそうである。でもどうしてもできない,それならばということで,別のアプローチを徹底させた様子が報じられていた。これも,一般的な人間にとって勇気づけられる話だ。10度を駆使するパガニーニが弾けなければヴァイオリン弾きにあらず,などと言われたら,手の小さかったサラサーテは世の中に出られないことになる。

だからと言って,3回転を評価しないというのもおかしいでしょ?という声も強い。確かにその通り。ラロよりヘンデルは小学生の話,大学入試でやや不安定ではあるがラロを弾いた人が落とされ,完璧にヘンデルを弾いた人が合格したら私も怒る。

自分の中でも,このような矛盾が生じるのだから,世間が騒ぐのもむべなるかな。

ここで唯一,納得させられた報道が一つだけあった。どの新聞だったかテレビだったか忘れたが,20年前のヴィットvsみどりでも,ほぼ同じ論争があったそうだ。その時,ドイツ陣営は「飛んだり跳ねたりがフィギュア・スケートではない」と言っていたらしい。明らかに「みどり」に対する発言と思われるが,同時にその時のジャッジの判断でもあった。

つまりその頃から世界の潮流が「飛んだり跳ねたり」ではない方向に向かっているのがはっきりしていたのに,日本スケート界は敢えて「飛んだり跳ねたり」路線を選んで教育して,この結果を迎えたのだから,ここで文句を言うのはおかしいのでは?ということだ。

その後,マオウはどこかの世界選手権で優勝したそうだし,ジュニア選手権でも有力な中学生が出てきた。羽生結弦という将棋もヴァイオリンもできそうな名前,女の子は村上さんだったかな(すみません,忘れました)。彼女がテレビで言っていた。マオウに憧れ,いずれ3回転,4回転と跳んでみたい,と。

日本人選手はソチでも言われるのかね?「飛んだり跳ねたりがフィギュア・スケートではない」って。
こんな教育で大丈夫,日本スケート連盟さん?

このような論争は,フィギュア・スケートに限らず,シンクロナイズド・スイミング等,芸術性が要求される競技ではツキモノ,と言われる。要するに,有史以来,人間は性懲りも無く同じ話をしては盛り上がり,競い合い,ということを繰り返してきた訳だ。 全て結果が出た後でああだこうだ言っている訳だから,これは話したところで結果を左右することに直接つながらない不毛の論議である。

「馬鹿」な人間達だなあ,と思う。そして私もその「馬鹿」の一員でありたいし,私はそういった「馬鹿」が実は大好きである。


覚えていないけれど覚えている話

2010-03-19 21:54:50 | アート・文化
昨年から再放送中の「刑事コロンボ」を,ほとんど欠かさず観ている。中学生の頃,夢中になって観ていた。今でも大変面白い。なぜなら,私がきれいさっぱりストーリーを忘れているから。

今度こそストーリーを覚えよう,とタイトルとキーワードを毎回観た後にメモしてみた。それを読んだら思い出すだろう・・・と自分に期待していた。

ところがどっこい,思い出さないなどという生易しいものではなく,たった今観たばかりのストーリーを思い出せない自分がいた。今度から,メモを取りながらコロンボを観るか?

一方,音楽と結びつく記憶は,昔からかなり残っている。コロンボの鼻歌なら覚えている。ハリウッド・ボウルのような野外ステージで「マンハッタン」(トトトの歌)を弾くコロンボも。

こんな私なので,オリンピックの話でも音楽に関わることの話題に片寄ってしまうことをお許しいただきたい。

逆に,音楽に関係なく様々なことを覚えていられる方々を尊敬してしまう。例えばカタリーナ・ヴィットである。今や幻の東ドイツの銀盤の女王,ホーネッカー(当時の書記長)のアイドルとも言われた彼女の話を,十人くらいのピアノの先生達と話しているうちに名前を出したのだが,ほとんどの皆さんが御存知だった。バンクーバーを見なかった方までもが,である。

「だって,きれいだったもの・・・」

そう言われると,困るのは私。背が高かったのは覚えているけれど,顔はいつの間にか頭の中でヴァイオリニストのヒラリー・ハーンとすり変わってしまい,認識不能。伊藤みどりさんがかなわなかった相手だった,というのも,バンクーバー関連の報道で思い出した次第。

以前にも書いたが,ヴィットを始め,東独の選手は「イメージ・トレーニング」という訓練法を,世界に先駆けて実施した人達である。ジャンプならジャンプした瞬間の自分の状態を,可能な限り克明にイメージするということだ。それで実際べらぼうに良い成績を出したのだから,これは注目された。

ヴィットの場合は「カルメン」,プライベートでもカルメンになりきって生活する。カルメンのレコードを聴いているヴィットの姿が放映されたものだ。

そこで使われたカルメンが,シチェドリンのカルメンだったのだ!もうこれだけで,私は嬉しくなってしまった。滑った内容は,すべからく覚えていないけれど,音楽だけは克明に記憶されている。

そのような私が,フィギュア・スケートを云々してはいけないと思うが,上述の経緯もあって,みどりさんよりヴィットさんの方が好印象として残ってしまったのが現実である。

ただ,20年経って,この話を蒸し返す日が来ようとは,想像だにしなかったのも事実だ。


シチェドリン:カルメン組曲

2010-03-15 23:31:35 | 音楽

大学生時代の暑い夏の日,冷房もない部屋の畳に寝っ転がってFM放送を聞きながらウトウトと・・・。

聞き慣れたメロディがステレオから流れてくる。「ああ,カルメンか・・・」

そのまま眠りに入るつもりだったのだが,ある瞬間から安眠を妨害された「なんじゃこりゃ?!」

メロディがあるべきところで消滅し,淡々と伴奏だけが聞こえる。ステレオが故障したか?(寝ぼけていたので変なことを考える。)しばらくすると,メロディは復活したが,今度は順番が違う。すっかり頭が撹乱されてしまった。これは一体,何もの?

というのが,この曲との出会い。FMの紹介では編曲者名しかわからなかったが,その後,「題名のない音楽会」で紹介され,もう少し詳しく知るところとなる。メロディアからロジェストヴェンスキーの録音が発売されていて,LPを手に入れることができた。夫人の名バレリーナ,マヤ・プリセツカヤが踊るために作られたのだそうだ。

とにかく奇想天外,才気煥発な編曲。編成が弦楽器と打楽器だけというところからユニーク,「アルカラの竜騎兵」は3拍子になってしまうし,原曲にない重々しさが加わったり,逆にコミカルになってしまったりと,意表ばかりついてくる。

そう言えば,さらに遡って高校の頃,東フィルの元団員から「シチェドリンの作品は,遊びばっかり」というのを聞いていた。交響曲には第2ヴァイオリンの7プルトの裏(つまりヴァイオリン群の最も後ろに座っている奏者)が「立って」弾く,という指示があるとか・・・。

ようやくそのシチェドリンに辿り着いた,という一種の感慨も手伝って,この曲が大好きになってしまった。
当時録音はこの一種だけだった。その後,メロディアからスピヴァコフ指揮する透明感あふれる小編成の弦楽によるものも出たが,やはりザラザラ感一杯のロジェベン盤が筆者にはピッタリくる。(アンサンブル金沢も録音したはずだが未聴。)

それからシチェドリンには興味を持ち続けた。数曲録音も手に入れた。残念ながら録音では7プルトの裏が立ってもわからない。

いわゆるバブル期にはシチェドリンのミュージカル「森は生きている」(マルシャーク原作)というのも上演され,これにも魅了された。が,これは林光の音楽劇,ならびにオペラも捨て難く劇中歌「十二月の歌」は傑作,林に軍配を上げたい。

となると,やはりシチェドリンでとどめを刺すのはカルメンではなかろうか,と今でも思っている。

シチェドリン:カルメン組曲(ビゼーの歌劇《カルメン》による弦楽と打楽器のための編曲版)/他
価格:¥ 3,059(税込)
発売日:2001-07-25


福岡の四季

2010-03-13 18:02:11 | 音楽

 本番まで1週間なのですが,一応宣伝させて下さい。

 井財野が所属する九州・沖縄作曲家協会が来る3月20日,福岡市あいれふホールにて「春の音楽展2010『福岡の四季』」を開催します。

 昨年まで当協会は「スプリング・コンサート」の名称で十数年にわたり,小規模な作品発表会を開いてまいりました。新作を発表する機会として,その機能を果たしてはきましたものの,聴衆側の配慮が足りなかったことは否めません。

 「音楽である以上,聴衆として楽しめる内容にしなければならないだろう」という考えを基にして,今年から「春の音楽展」と銘打ち,「面白い音楽」を目指して展開していく運びとなりました。

 今回は三ノ上バレエスタジオの協力をいただき,4人の作曲家がバレエ・ピアノ・ヴァイオリンで「福岡の四季」を描きます。

 まず,武田真弓作曲「福岡の夏」。作曲者自身のピアノによるソロ曲です。

 続いて井財野作「福岡の秋」は2台のヴァイオリンとピアノによる変奏曲です。バレエ曲が始めてなら,この編成の曲も始めて。ついでに拙作に頻出する三連符が一切使われていないので,従来とは多少趣きが異なる作品かもしれません。
 共演者の工藤真菜(まな)さんは福岡で最も信頼をおく ヴァイオリニスト,林 紋子(あやこ)さんはアンサンブルができる希少な存在として注目株の若手ピアニストです。

 先日,初めてのリハーサルがありました。最初からハイレベルの演奏が展開されたのですが,それに合わせて子供のダンサー達が,ところ狭しと踊って「秋」を表現してくれるのは見物,ぜひ御覧いただきたいと思った次第です。

 その後,同じ編成で黒田寛賢作曲「福岡の冬」が続き,田村徹作曲「福岡の春」(ヴァイオリンとピアノによる)で一巡,最後に田村徹作による「福岡の四季〈終曲〉」,4作の断片が少しずつ再現されたフィナーレを以て,連作を閉じます。

 当初はこれでおしまいのつもりでした。しかし,全部で1時間弱,しかも新作だから,など所々の理由で,それではまるまる2回演奏しよう,ということになりました。1回めは演奏のみ,2回めはバレエ付きで。これで2000円(学生1000円)はお得?疲れる?(笑)。

 土曜日の夕方5時からの開演なので,その後ゆっくり夕食がとれる時間に設定しました。御都合のつく方,当日券も用意しておりますので,ぜひお越し下さい。