前二つの記事が背景となり,ようやく現在考えていることに至る。(長い前置きにおつき合い下さった皆様,ありがとうございました。)
複数箇所から紹介いただいたmizumizuさんのブログを,過日やっと読ませていただいた。大変な文章量!音楽関係者で,この分量を書く人がプロ(音楽評論家)以外にいるだろうか?N響の根津さんよりも,さらに長いし,スケートの記事に徹していてこの量である。その観察と洞察の細かさにも恐れ入る。そこに加えて,オリンピック時期のアクセス件数が一日に12万件!この「井財野は今」が開設以来,現在12万件を超えたなぁ,などと言っている身分,それからすると天文学的数値である。
その長大な文章を一言でまとめてしまうと身もふたもないかもしれないが,フィギュア・スケートの新しい採点方法は,ロシア潰しのためにドイツが考えたのではないか,という主旨だったように読み取れた。(その割にはドイツの選手は見当たらなかったけど,)その流儀に則った国の選手に有利であったはずだ,とのこと。
mizumizuさんに限らず,バンクーバーで「難しい3回転を評価しないとは何事だ!」と思った日本人は少なくないし,至極もっともな意見である。難しいプロコフィエフを弾いた方が落ちて,易しいヴィオッティの方が合格したヴァイオリンの試験と,よく似ている。ひょっとしたら音楽の世界では日常的に起こることかもしれない。
音楽に左右されてしまう私,ハチャトゥリアンの仮面舞踏会はヴァイオリンとピアノ版を人前で弾いたこともあるくらい好きな曲,一方ジョン・バリーの007も大好き,ラロ・シフリンの「スパイ大作戦」と双璧を成す名曲だと思っている。
という訳で音楽による優劣は感じていない私からみて,マオウとユナのどちらに魅了されたかと言うとユナであった。お色気路線と揶揄されもしているが,その通りかもしれない。それは悪いことだろうか?このことを考察することは「人間は何に魅力を感ずるか」を考えることである。
以前にも書いた通り,このご両人,顔つきはかなり似ている。一方がより魅力的だとすれば,それは造作からくるものではないと考えられる。ユナは007の映画を観て,視線の使い方をかなり研究したと言われる。ヴィットがカルメンになりきって立ち居振る舞いを研究したのと一脈通ずる。その結果,あの「表情」を獲得した。ここが重要なところだ。人間は結局「表情」に惹かれるのである。この「表情」が評価されたことは,あらゆる人間にとって歓迎すべきことではないだろうか?「表情」は後天的に獲得できるのだから。
会期中に急いで作られたNHKのドキュメンタリーによると,ユナも3回転に挑戦していたそうである。でもどうしてもできない,それならばということで,別のアプローチを徹底させた様子が報じられていた。これも,一般的な人間にとって勇気づけられる話だ。10度を駆使するパガニーニが弾けなければヴァイオリン弾きにあらず,などと言われたら,手の小さかったサラサーテは世の中に出られないことになる。
だからと言って,3回転を評価しないというのもおかしいでしょ?という声も強い。確かにその通り。ラロよりヘンデルは小学生の話,大学入試でやや不安定ではあるがラロを弾いた人が落とされ,完璧にヘンデルを弾いた人が合格したら私も怒る。
自分の中でも,このような矛盾が生じるのだから,世間が騒ぐのもむべなるかな。
ここで唯一,納得させられた報道が一つだけあった。どの新聞だったかテレビだったか忘れたが,20年前のヴィットvsみどりでも,ほぼ同じ論争があったそうだ。その時,ドイツ陣営は「飛んだり跳ねたりがフィギュア・スケートではない」と言っていたらしい。明らかに「みどり」に対する発言と思われるが,同時にその時のジャッジの判断でもあった。
つまりその頃から世界の潮流が「飛んだり跳ねたり」ではない方向に向かっているのがはっきりしていたのに,日本スケート界は敢えて「飛んだり跳ねたり」路線を選んで教育して,この結果を迎えたのだから,ここで文句を言うのはおかしいのでは?ということだ。
その後,マオウはどこかの世界選手権で優勝したそうだし,ジュニア選手権でも有力な中学生が出てきた。羽生結弦という将棋もヴァイオリンもできそうな名前,女の子は村上さんだったかな(すみません,忘れました)。彼女がテレビで言っていた。マオウに憧れ,いずれ3回転,4回転と跳んでみたい,と。
日本人選手はソチでも言われるのかね?「飛んだり跳ねたりがフィギュア・スケートではない」って。
こんな教育で大丈夫,日本スケート連盟さん?
このような論争は,フィギュア・スケートに限らず,シンクロナイズド・スイミング等,芸術性が要求される競技ではツキモノ,と言われる。要するに,有史以来,人間は性懲りも無く同じ話をしては盛り上がり,競い合い,ということを繰り返してきた訳だ。 全て結果が出た後でああだこうだ言っている訳だから,これは話したところで結果を左右することに直接つながらない不毛の論議である。
「馬鹿」な人間達だなあ,と思う。そして私もその「馬鹿」の一員でありたいし,私はそういった「馬鹿」が実は大好きである。