練習時間の試算をするのには、実は伏線がある。
福岡教育大学には転課程、転専攻という制度かある。で、ごくたまに他専攻から音楽に転専攻したいという学生が現れる。
今年も一人、国語から音楽へ変わりたいという学生が相談に来たそういう場合、音楽の試験がどれたけ大変なものかということが、なかなかわかってもらえない。(教員でもわからない場合すらあるから当然かもしれないが。)
「一所懸命、今からがんばってもダメですか?」
教育大は、何でも一所懸命やるプロセスを重視する。結果が出なければ意味はない、という考え方はなじまない。その土壌に育つと、上述のような発言が頻繁に聞かれるという訳だ。
その学生と話して以来、何かわかりやすい表現はないものかと、ずっと考え続けて、ようやくここにいたったのである。「何と酔狂な試算」と思われた方もいらしただろうが、こちらにはこのように切羽詰った事情もあった。しかし、おかげでこちらも一つ賢くなったようなものだから、意外とありがたい存在と考えることもできるかもしれない。
今年一年、他にも、そのような「ありがたい存在」に出会うことができて、考えさせられること、多々あった。
最近、一番考えるのは「演奏様式」についてである。
入学試験の演奏を聴きながら思った。「様式を把握している演奏が聞きやすいのは確か。」
では、その様式とは何か?
これがまた実に曖昧模糊としたものである、と言わざるを得ない。というのも、人によって捉え方がかなり違い、時代や場所でも変化し、場合によっては正反対の主張も存在する、という代物だからである。(以前「さじ加減」で書いた「紅茶と汁粉」も、様式に関する数ある話の中の一つだ。)
にも関わらず敢然として存在するのが「様式」である。
たまたま来年1月、2月と続けてモーツァルトを演奏する。せっかくの機会だから、来年はこのテーマ周辺から考えてみることとしよう。