井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ロシア人指揮者の「今度は俺の番」

2016-01-19 23:51:32 | 指揮
先日、フェドセーエフを久しぶりにテレビ放送で見た。もはや重鎮の貫禄。

スヴェトラーノフは鬼籍に入った。脳裏に横切った言葉が「もはや戦後ではない」

違う、「今度は俺の番だ」

スヴェトラーノフもムラヴィンスキーが亡くなって思ったに違いない。「私はかもめ」

違う、「今度は俺の番だ」

でも、本当の「番」は、もっと若手のようだ。
トゥールーズのシェフで、先日N響を振ったばかりのトゥガン・ソヒエフ。

ベルリン・フィルはドゥダメルよりも評価しているらしい。

さあ、どうなる?

ポロ・チュプ

2016-01-16 08:14:40 | 井財野作品
来週23日に発表する、ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲だが、やっと完成した。3楽章構成で10分弱の曲である。やれやれ……。

12音の音列を使いながら、12音主義ではなく、協和音になるべく近い響きを選んで作ったので、聞きやすい曲に仕上がった、と言いたいところだが、演奏してみたらそうでもなかった。
どれだけ協和音的響きが連続しても、一定の調の中で動くのでなければ、やはり調性感は弱い。

作曲期間も2ヶ月半かかったので、最初に書いた第1楽章は、今見ると何だか別の曲のように感じる。同じ音列を使い、しかも第3楽章に第1楽章の主題を再現させているのだが。

なんか変な曲を作っちゃったな、と思う一方で、使用した音列はとても気に入っていて、これをもとにもう1曲作れるな、と思っているところである。

題名はアイヌ語で「ポロ(大きい)チュプ(太陽)」。
アイヌの神様に縁を感じてつけたタイトルなのだが、初演地の南九州と北海道、遠く離れているが、案外縁があるようだ。

旭川に忠別川というのがある。これはアイヌ語でチュプ・ペッ(太陽・川)に由来、だから普通に考えれば、旭川市ではなく、忠別市と名づけるところだろう。

そうならなかった背景がいろいろあるようだ。上川地区に離宮を誘致し「北京(ほっきょう)」という新都市を建設する計画、北海道長官二代にわたって推進されたが、札幌側の反対等で、ついに実現しなかった。

北京がダメなら忠別…

二代目の永山長官にとって、我慢ならない地名、という説があった。忠義の人、永山長官。明治天皇にもかなり目をかけられ、「永山」という地名をつけなさいと言われたくらいの信任ぶり。それなのに、町の名前が「忠と別れる」とは…

それで、チュプ・ペッを一度日本語に置き換えて旭川。

その説が正しいかどうかはともかく、旭川の発展に身を捧げた永山長官、その後すぐ地名になり、神社も建てられた。その名も永山神社というのが今もある。(ちなみに俳優の瑛太氏は本名永山瑛太で、この長官の子孫だそうだ。)

そして、初代岩村長官、二代目永山長官、共に旧薩摩藩士なのである。(ここでやっと話がつながる。)

広大な平原に、理想の天地、理想の都市を作る夢。狭い九州では全く不可能。二人の長官が大いに思ったであろう夢、そこに私はとても共感してしまう。

それを知った今、旭川という場所が、限りなくロマンをかきたてる存在になってしまったのだった。

なので、この音列で作るもう1曲は忠別ファンタジーだなぁ、と思っている。

新作の発表会

2016-01-11 11:07:00 | 音楽
たまたま、ある要件がキャンセルになったおかげで、行くことができた新作発表会。現代音楽の演奏会、とも言う。正確には新作だけではないから、こちらの表現が的確。

と言っても、一時の「前衛音楽」大流行の頃とは違い、多少は聞きやすい音楽になっている…と言えるかどうかは、作品と聴衆次第。

あくまでも、私が聞いた音楽を私はそのように受け取っただけである。

主催者の努力の甲斐あって、会場はほぼ一杯に埋まっていた。響きの良い会場でもあったので、どの曲もそれなりの拍手があり、雰囲気としては大成功だったと思う。雰囲気、と表現したが、これは重要な要素、主催者の力量を見た思いがする。

その上で、の話。

私個人としては、あまり充実しなかったのが正直なところなのだ。

作品そのものは、かなり興味を惹いた。それだけに、演奏者の弱点を随所で感じる結果になってしまった。

簡単に述べると、演奏者が曲をわかっていないのがわかってしまう演奏が多かったのである。

これが「悪いことだ」と素直には言えない事情があることも、よく知っている。

作曲者側は、とにかく音にしてくれるだけで感謝しなければ、と思うものだ。内容のことは作曲者が演奏者に丁寧に説明、指導をすれば何とかなるはずだ、と思うのは至極当然。

ところが今回、作曲者がすでに世を去っているものもあった。こうなると、クラシック音楽と同じである。

それで、これはちょっと聴いていられない、という瞬間が私には生じてしまった。

現代音楽は、ただでさえ敬遠されがちなので、それにとても興味を持ってくれる演奏家は、作曲家にとって大変ありがたい存在だし、そういう人に演奏を頼みたいと思う。多少技量に問題を感じたとしても。

ただ、その演奏家が、曲の良さを伝えきれなかったらどうなのだろうか。かえって損をしていはしないだろうか。

私も現代音楽の演奏会を時々企画するからよくわかるのだが、作曲者側は経済的にもかなり負担が大きいのが常なので、演奏者の経費を削れるならそれに越したことはないと思うものだ。
私でもそうする。

が、私の場合は、他の演奏者の力が及ばない部分を私がカバーすることで、聴衆には経費削減が目立たないようにすることができるからである。

なので、そういうことができない場合は、基本的に演奏者の経費を削っては最終的に損失が大きいのではないか、と思うのである。

その昔、齋藤秀雄先生の講義で「作曲コンクールで自分が演奏した曲は必ず入賞する。なぜなら私はその曲を分かって演奏したから。」という言葉があった。けだし名言だと思う。

「演奏者をケチってはいけない」実は井財野も田中千香士先生から注意されたことだ。

よって、これは自戒の念から出ている言葉でもある。

今月23日には、他人の新作の初演を宮崎でする。これが超難曲で、まだ弾けない。ついで?に井財野も新作を発表する。これがまだ完成していない。急がなければ。