井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ヴィターリのシャコンヌ

2010-09-29 20:59:54 | ヴァイオリン

時々,問題提起をしてくるピアニストの友人がいる。下記のようなメールをもらった。

最近ヴィターリのシャコンヌを何回も弾いていて考えていることを。タルティーニの悪魔のトリルなどもそうですが、あの手のロマン派編曲が未だに大手を振ってまかり通っているのはいい加減おかしくないか、という声はヴァイオリン界では起きないのですか?

ピアノも数十年前まではリサイタルでバッハといえばブゾーニなどの編曲でしかほぼ弾かれませんでしたし、インベンションなどもツェルニーやブゾーニなどの校訂による版で勉強するのが当たり前でしたが、さすがにどれも今は絶滅しましたよね。
「あの」声楽界でもイタリア古典歌曲のパリゾッティ版は改編が多すぎるし和声様式も違うという声がちらほら聞かれるようになりました。

今や原典回帰が行き過ぎではとさえ感じられるこの頃、昔ながらの「演奏効果!」を求めるのは、それはそれでアリなのかなあと思ったりもしますが…。あのシャコンヌは、そもそもヴィターリの作品でもないらしいですが。

はい,その通り。最近では「ヴィターリ作曲と言われているシャコンヌ」という言い方もされるようだ。しかし,ヴァイオリン界はそんなこと,どこ吹く風,誰が作曲でも構わないのである。それにこのことを考えだすと,なかなか難しい問題がある。

まずこの曲には以下の3ヴァージョンがある。

1)オリジナルとされる原稿がドレスデンの図書館に遺されている。これが,どうもVitaliの作ではなさそうだ,というのが現在の有力な説。

2)世の中に最初に紹介したのはフェルディナンド・ダーフィト Ferdinand DAVIDの教則本。ライプツィヒ・ゲヴァントハウスのコンサートマスターであり,あのメンデルスゾーンのお友達だ。あの協奏曲(いわゆる麺魂)が弾きやすいのは,このダーフィトの助言のお陰である。ヴァイオリニストは皆感謝している。
(ついでに言うと,ブラームスにもヨアヒムというお友達がいたが,ブラームスはヨアヒムの助言をあまり聞かなかった。ヴァイオリニストは皆迷惑している。おっと脱線。)

ダーフィトが書いた教則本に「ヴィターリのシャコンヌ」として紹介されている曲がある。

3)上記2)を基にレオポルド・シャルリエ Léopold Charlier (1867-1936) が大胆に編曲した版。

世間で演奏されているのは,最後の3)である。このシャルリエという人物,ついでに調べると,なかなか多才な方で,ヴァイオリンのヴィルトゥオーゾであり,室内楽,音楽院教授,指揮,作曲,評論,講演の活動をこなし,芸術祭の監督として大人気,フランス人の理想とする「完全な音楽家 musicien complet 」である。

筆者の手許には1)に基づくものが2版ある。一つはイタリアのリコルディ,もう一つはドイツのベーレンライター。特にベーレンライター版は,校訂者であるオルガニストのD.ヘルマン氏から直接頂いたものだ。

その厚意を受け,何とか活用の道はないかと,何度か取り出して弾いてみるのだが,いかんせん「面白くない」のである。せめて教材として,とも考えたが,難しかった。

シャルリエ版の、大向こうを唸らす編曲の先入観が邪魔もしているとは思うが、原曲だとゴセックの交響曲並の扱いになるだろう。(ゴセックは、あのガヴォットのゴセックですよ。交響曲を作っていたんですよ。筆者も聴いたことないですが・・・。)つまり、大多数の人には知られない存在になると思う。

そうなるとシャルリエさんの偉大さがクローズアップされてくる。原点回帰なんて、どこの世界の話、とばかりに持てはやされているのが現状。

原点に帰らない編曲の存在は、ヴァイオリン界に限らず、いくつかは思いつく。ジャゾット編「アルビノーニのアダージォ」、レオポルド・モーツァルト「おもちゃの交響曲」、リムスキー=コルサコフ編「ムソルグスキーのはげ山の一夜」。

いずれも共通しているのは、原曲が「つまらない」こと。特に誰が編曲したかわからないL.モーツァルトの「おもちゃの交響曲」なんて、侮辱もいいところの噴飯ものかもしれないのだが、原曲のカッサシオンは、恐ろしくつまらない。だからこの編曲(変曲?)でいいのだ。もし「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に、おもちゃを導入したら、世界中から石が飛んでくるだろう。

筆者は、シャルリエ版を演奏会用エチュードと見なしている。きっかけは田中千香士先生の一文。「右手の様々な技巧が出てくるので、音楽学校の試験でよく用いられます。」

どの程度「よく用いられる」のかは不明だが、確かにそれらの技巧の習得に役立つので、筆者もレッスンにはよく使う。バロックではなく、ロマン派の音楽として。誰が作ったかわからないのがむしろ幸いしている。そのような意味で、「悪魔のトリル」とは扱いが異なる訳だ。

ヴァイオリン界には、もっと扱いに困る曲がある。その代表が「エックレスのソナタ」。

スタイルは一見バロックなのに、ロマン派が入り込んでいる典型的な疑似バロック。しかもエックレスは渡仏したイギリス人となっているが、慣行版の編者が何者だかわからないからバロックで扱うことができず、かと言ってロマン派で扱っても中途半端。本当は生徒さんに弾かせたくない。が、3大教本全てに載っている言わば必須曲目。おまけにコントラバスやサクソフォーンでも演奏しているから、本家本元のヴァイオリン人が知らないままなのはかわいそうなので、不本意ながら練習させているのが実情。

それに比べれば、このシャコンヌは立派にロマン派の曲として扱えるので、問題は感じない。そう、バロックと思ってはいけないのである。という次第でブゾーニやパリゾッティとは全く性質が違い、誰も「おかしい」などとは思わない。しかも大抵の日本のヴァイオリン奏者はシャルリエを知らない。だって国内版の楽譜には書いてないのだから・・・。(輸入版だってフランス語読みだから読みとばす可能性大。チャーリーじゃないですよ。)

ただ、もう一つ重要な視点がある。人々がヴァイオリンに求めるものが、ピアノに求めるものと大きく違うということだ。それに関しては、いずれ別の機会に・・・。


再び,二つの専門分野

2010-09-26 18:14:02 | 大学
昔書いたことを実践されているケースを目の当たりにした。それで,以前の記事を引っ張り出したら,手違いで少々順番等に乱れが生じてしまった。お許しを。

ある大学で,CDを製作して販売するまでのプロセスを実体験させる,ということを演習にしてしまっている学科がある。商品にしてしまうのだから,学生の手だけで全てできる訳ではなく,部分部分においては専門家の協力を仰ぐ訳で,私も演奏担当者として参加した。

その学科は就職率97%を誇る,まことに羨ましい存在なのだが,私にはもっと興味深いことがあった。

録音の技術者は,私同様,他大学から呼ばれていた。しかも録音が専門ではなく,天文学が専門だという。はて?

録音の合間に,そのあたりの話を伺うことができた。
まず,現職は大学なのだが,それまではあちらこちらの天文関係で働いていたこと,その頃,好きな音楽(ジャズが中心)を聴くだけでは飽き足らず,録音してCDにすることまで,やれるようになってしまったとのこと。

CDにするまでならば,私もやっているが,桁が違う。現在,ご友人にほとんどを任せているとはいえ,天文学の教育ビデオの音楽までプロデュースまでしているから,立派に二つの専門分野を持ちながら,しかも融合させている。

なぜ,そこまで(やるのか,できるのか)?

その1「天体の画像をよく作るんですが,それに合う音楽があんまり無いんですよ。」

その2「ディジタルになったでしょ?つまりパソコンでほとんどのことができる訳です。だとすると理系の人間ならば,ちょっと勘を働かせれば,結構できるようになるんですよ。」

少しショック。実は,私も大学時代,かなり録音のことは身を入れて勉強したのである。そのまま助手として大学に残れそうなくらい熱心に。でも,専門と思っているヴァイオリンをもっと深めることに努力すべきだ,とスパッと縁を切ったのである。

とは言え,今回,細かい編集作業まではできない等,天文学者の限界は互いに感じるところもあった。やはり録音といえども,演奏とほぼ同じだけ勉強をしなければ,それなりの物はできない,ということだ。

一方,クラシックのセンスを持たない技術者が多いこの世の中,そちらに私達が手を出すことには意味が生じる。
実際,録音の仕事をしているヴァイオリン奏者を数名知っている。しかし,残念ながら彼等のヴァイオリンの方は,それなりに。やはり,そう簡単ではないということだ。

結局,まぁ自分には無理なのかもしれない。ただ,一流のレベルを要求しない場合もある訳だし,現に今回のケースはやはり脱帽ものである。
音楽では食えない,でも音楽もやりたい,二つの仕事をするか?そんなことは無理だ,中途半端な音楽では食えないのだから,というのは20世紀の考え方。21世紀の考え方は,ドラッカー教授の説の通り,二つの専門分野,なのかもしれない。(もっと大変ってことか・・・)

最後に,その先生がおっしゃっていました。「天文学をやらない大学はユニバーシティって言っちゃいけないんですよ。」と。

要するに中世ヨーロッパに設立された大学は,神学・法学・医学をやるためのもので,そのために必要な教養科目が,言語に関する「文法・修辞学・弁証法(論理学)」と数学に関する「算術・幾何・天文・音楽」。これらが「自由七科(リベラル・アーツ)」と呼ばれていた,その伝統から考えての発言だ。そうやって考えると,天文と音楽は,かなり近い関係なのか?

さらに考えると,算術や幾何学は,学校以外で仕事があるのだろうか?音楽が一番仕事があるようにも思えるのだが,いかが?


二つの得意分野(再掲)

2010-09-26 17:49:17 | ヴァイオリン

 何年か前に国立大学が法人化した時,大学の教員も経営の視点を持つように,ということで,経営コンサルタントを招いて講演会が開かれた。その後すぐにわかったのは,内容のほとんどが,現代マネジメントの父,ピーター・ドラッカーの受け売りだったこと。でも私は勉強不足でドラッカーを知らなかったので,初めて聞く話ばかりで,その段階で大いに役立った。(辛うじてドラッカー教授は存命中だった。)

 要点は大きく二つ。

・ミッションを明確に(何のためにこの仕事はやるのか)。

・常に自らをイノヴェートせよ(改良,改善,改革を続ける)。

 以来,これを何とか実行し続けることを努力した。

 ところが,数年前の年末年始のどこかに,ある偉い先生が新聞に書いた文章で少々ブレーキがかかってしまった。その先生はイノヴェートの語源にまで触れ,「人々はノヴァティオ(新奇なもの)の連続に疲れてきている」とおっしゃったのである。

 その先生がドラッカーを直接否定している訳ではないのだが,私もノヴァティオに疲れてきていたので,これ幸いと(?)ドラッカー先生から距離をおいてしまっていた。

 しかし,その後,世間はいよいよわからないことが増えてきた。そんなある日,本屋で再び巡り会ったのがこの本。

ドラッカー先生の授業 私を育てた知識創造の実験室 ドラッカー先生の授業 私を育てた知識創造の実験室
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2008-09-26

 ドラッカー自身の著作ではないが故の客観性やわかりやすさがある。著者を凡人と言っては失礼だが,一般的な素朴な疑問に対するドラッカーの名答ぶりは,なかなか痛快だし,あらゆる分野に通用するヒントが随所に発見できる。

 例えば,ヴァイオリン等のお稽古ごとにがんばっている方々へに重要な示唆を与えると思われる以下の文章がある。

《事業リーダーは少なくとも二つの得意分野をもつべきだ。そのうちの一つは無縁でなくてはいけない。二つ以上の専門をもつことはいくつもの利点がある。第一に「ほかにも強みがある」という自信につながる。必要に応じて未知の任務を与えられても,ひるまずに取り組み,成果を上げられるのだ。》

 ドラッカー先生はこうも言い添えた。「どの分野にせよ,その分野だけに閉じこもっていたのでは,目覚ましい進歩はまず遂げられません。むしろ,ある分野での成果をほかの分野に応用し,まったく新しい手順,アイデア,手法などを取り入れるとよいのです。」

 世の中が一層複雑になってきている現在,この発想,視点は重要なのではないだろうか。ドラッカー先生はクレアモント大学で,このようなマネジメント関係の授業以外に,日本美術の教鞭をとり,禅画についての著書もあるという。

 畑違いの分野で一流になろうと考えれば,それは当然かなり難しい。難しいから価値がある訳だ。お稽古ごとが,その人の第一分野になるか第二分野になるかはその人の問題だが,いずれにせよ一流を目指すべきだということになる。

 一流を目指す年齢からは遠ざかってしまった人間に対しても有効なアドバイスがある。つまり,異分野に関する読書をすることが,戦略的発想を豊かにする大切な手段であることも書かれている。自己啓発の筆頭は「読む」そして「書く」「聴く」「教える」が続く。

 まだまだ他にも有益な文章は数多あり,引用しだすと際限がないので,ここまでにしておくが,二つの得意分野はこれからのキーワードに思えてならない。小品ではあるけど「メヌエット」という名曲を遺したポーランドの宰相パデレフスキー,バッハ研究の著作がある医学者シュバイツァーのようにいくと,かっこいいのですが・・・。がんばりましょう。


教えたらできなくなる子供

2010-09-26 17:41:57 | 音楽

合唱コンクールの審査員を久しぶりにした。今回は「九州合唱コンクール」、いわゆる合唱連盟がやるコンクールの九州大会に相当する。この地方ブロック規模になると、毎回著名な合唱指揮者の方が見える。この方々に会えるのも、楽しみの一つ。なぜならば、大変な勉強家が多いからだ。

昨年から全国に先駆けて小学校部門がスタート、そして今年からは全団体に全審査員が講評を書く、それを従来通り三日間で行う、という極めて濃密な時間を過ごさせてもらった。(来年からは四日間なので少し楽になるはず。)

沖縄から小学校が5校も飛行機に乗ってやってきた。そのパワフルな歌声とひたむきさに、涙腺が緩んだ瞬間もあった。しかし一所懸命なのは、他校も同じ。コンクールなので評価を下さねばならず、そうすると涙が出るほど感動しても、技術的な問題ゆえに、いつの間にか下位に沈んでしまうこともしばしば。何のためのコンクールやら・・・。

審査の結果が出た後の審査会の席上で、期せずしてある審査員から以下のような発言があった。

「特に沖縄の子供とか、こういう風にしなさいって教えると、段々できなくなっちゃうんですよ。どうすれば良いか、何か教えていただけませんか?」

その場に審査員としていらした合唱連盟の理事長、すかさずI東氏に振った「それは専門家が・・・」

I東氏は10代から70代まで、児童、ジュニア、シニア、女声、男声、何でもござれのベテラン指揮者だ。以下、その時のコメント。

まずは「聴く」ことですね。指導者が、いわゆる「聴かせたい音」を、よく聴いてごらん、とやる訳です。二手に分かれてお互いに聴いたり、二人一組で相手の声を聴いたりと、その程度でも結果が全然違います。子供は耳がいいですから、すぐできるようになりますよ。

伊万里の小学校、私とS水さん(全国大会金賞ご常連指揮者)が一番高い点を入れたと思いますが、あれなんです。彼らはとても耳が良いです。そして聴くことができるスキルを持っています。

スキルの訓練をするのを子供が嫌がるかと言うと、そうでもありません。スキルを持ったおかげで、できることの枠が広がります。それを一番先に感じるのは子供たちであり、むしろ一番喜ぶのが子供たちです。

そしてそのスキルを持った子供たちは歌うのが好きになって、ずっと歌い続けるんですね。

最後の言葉が審査員一同、感銘をもたらした。しかもI東氏は審査員の中で最年少であり、同志社グリークラブ出身。一方、質問した人間や私は音楽大学卒で、音楽を教える立場にある。一体、音楽大学って何?と言いたくなる瞬間でもある。

それはともかく、ことほど左様に合唱コンクールは私にとって「いい話」が聴けるチャンスになっている。


なぜゲーム音楽か(4)21世紀に向けて

2010-09-19 22:08:44 | アニメ・コミック・ゲーム

「ジャングル大帝」「宇宙戦艦ヤマト」「ドラゴン・クエスト」と三つの音楽に対する思いを綴った。全て好きだという訳ではない。ただ、重要な共通点があるのである。これらの作曲者の生年に注目していただきたい。冨田勲(1932)、宮川泰(1931)、すぎやまこういち(1931)、いわゆる「昭和一けた」、私からすれば親の世代、つまり三人は同世代である。

あらゆるジャンルで「昭和一けた」の皆さんは、同じ特徴がある。それは、その上の世代が戦争でいないため、かなり若い時から日本の中心的な仕事をし、それがまた長く続いたのである。もちろん、戦争の苦労もしているから、良い事だけが廻っていたわけではないのだが。

御多聞にもれず、上記のお三方も長く日本の中心的存在だった。それは羨ましいところもないではない。ただ、やはり敬意を払いたいのは、間接的に文化を背負っている姿勢が感じられることである。戦後の復興を文化面で切り拓こうという姿勢である。

もっと具体的には、皆さんクラシック音楽に対する畏敬の念が感じられ、宮川氏やすぎやま氏は、(結構はっきりと)自分の音楽とクラシック音楽との結びつきを願った発言等がある。(冨田氏はシンセサイザーで世界のトミタになってしまったので、さらにその先を行った感があるが。)

皆さん、消耗品の商業音楽ではなく、クラシック音楽同様、文化として伝えられる音楽を目指しているという方向性が、はっきり感じられる。だからオーケストラ編曲に耐えられる作品になっているし、そうすると、さらに吹奏楽等に編曲したものも含め、音楽愛好家が楽しむ機会がさらに増える。これが文化でなくてなんであろうか。

ヤマトの音楽、ドラクエの音楽、アニメやゲームを離れて楽しむことができたし、楽しんでいたのだ。演奏側から言えば、それをレパートリーに入れることによって、聴衆を獲得できたのだ。ここが大事なところだ。享受する年代層がぐっと広がる。

昨今のゲーム音楽で、それができるか?

韓ドラブームは、歴史問題、竹島問題をあっさり乗り越えて、親韓派を作った。日本のゲームも実際は尖閣諸島問題をあっさり乗り越えている。ただこれが10代20代の若者中心で、それ以上に広がる要素があまりないので、文化にも平和にも貢献していない。このゲーム製作者に昭和一けたの気概があったら、世の中変わるよ ! ゲーム作りの皆さん、何とかしておくれよ。