我が教育大生はコマゴマと数多の科目を履修する必要がある。教員免許の為なのだが、おかげで音楽の講義関係も、中途半端で終わってしまうものも多々ある。
先週の授業で、学生に話をさせると、それを含む不満がちらほら出てきた。いちいちごもっとも、という内容が多かった。 しかし、である。現在の条件下では、これ以上の改善は難しいと言わざるを得ない。
まず教員の数が少ない。福岡教育大学は全国の教育学部で学生数は5番目に多い。これは教員一人が担当する学生も多いことも意味する。 さらに学生数は減らさず、教員数はじわじわと減らされているのだ。これも国の方針、抵抗できるものではない。
その中でいろいろやっているのだ。悪しからず了承いただきたいところである。
逆に、世の中いろいろな音楽があるのだから、もっといろいろやらせろ、というのもあった。
これも難しい。少ない教員数でこれ以上できない、とすると、対象がクラシック音楽にある程度特化せざるを得ないのである。
教壇に立って教えるのは唱歌の類なのに、何故クラシック音楽が中心なのか、という疑問もあるようだ。
確かに一見おかしい。音楽の教科書にそれほど多くのクラシック音楽が載っている訳ではない。もっと童謡唱歌の類を勉強させたら、という意見は学生に限らずある。
これは正論だ。でも今はスリランカだ。…おっと違った。
「春の小川」や「ふるさと」でバッハ同様の感動が生じるならば、バッハではなく「春の小川」をやった方が良い。ドイツ語で小川はBachだし…(関係ないか)
その深い感動はクラシック音楽特有のもの。加えて、ハーモニー、対位法、五線はクラシック音楽の三大発明、これは勉強する価値がある。現実にその三大発明を持つ西洋発祥音楽は、姿を変えて世界中に定着してしまったではないか。「春の小川」も「ふるさと」も祖型は西洋にあり決して雅楽や常磐津ではない。
だからクラシック音楽なのだ。 (もっとも、これだけ説明する機会も特にないまま授業に入っていくのだから、事情がわからなくてもやむを得ない。)
という訳で幼稚園の先生の卵であれ、マタイ受難曲を教えようとする井財野であった。(これは止めるように示唆されましたが…)