井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

多久の揚琴奏者

2011-03-31 08:24:05 | 音楽

今年の1月4日の毎日新聞夕刊に載った記事を読んで考えたこと。

天安門事件の頃、「この混乱期の中国で演奏はできない」と考え、福岡市の日本語学校に通いながら、各地を巡演する。その一つが佐賀県の多久だった。聖廟近くの公民館でコンサートを開くと、大人、子供が涙を流して聴き入った。中国でもこれほど喜んでもらうことはない。

演奏後、観客たちの言葉に心を動かされたのと同時に、生の音楽に触れる機会が少ない多久の文化状況に驚いた。長春は常に音楽会が開かれ、誰もが音楽を楽しんでいたからだ。「多久で中国音楽の素晴らしさを伝えたい」。すぐに移住を決め、聖廟を管理する「孔子の里」の中国音楽講師に就任。秋には中国から妻子を呼び寄せた。

しかし(中略)なじみの薄い中国楽器に客は集まらず、観客ゼロの舞台に立つことも。祖国では第一級の演奏家としてのキャリアを誇るだけに、何度も帰国を考えたが、使命感が勝った。

この記事を読んで、実に様々な思いが頭をよぎった。

佐賀県の多久にはなぜか孔子を祀った「多久聖廟」というのがある。中国ゆかりの地で中国音楽が奏された訳だ。揚琴というのは数十本の弦が張ってある本体をバチで叩いて音を出す楽器。実は私も揚琴を専門にしている中国人留学生の指導担当をしたことがある。その留学生から聞いた。

「日本の人は、みんなよく黙って聞いてくれるねぇ。中国人は誰も黙っては聞いてくれないよ。」

ここで、まず美しい誤解が生じているかもしれない。ちなみに、その留学生は日本人と結婚し、今でも九州で揚琴奏者として活躍している。

次に、多久に限らず、日本では音楽を聞きにいくという習慣は、まだまだ都会だけのもの、のような気がする。長春は都市圏としては700万を超える人口を持つから、立派に都会であろう。中国でも都会の習慣かどうかはわからないけれど、それだけ人がいたら聞く人もいることは想像に難くない。なので長春と多久を比較することに無理がある。

なじみの薄い中国楽器に客が集まらないのではなくて、なじみがあっても客は集まらないのではないだろうか。前述の通り、音楽を聞きに行く習慣そのものがない可能性がある。想像するに、例えば森進一とか五木ひろしならば客が集まるだろうが、マライア・キャリーとかエディタ・グルベローヴァだと、やはり客は集まらないような気がする。

つまり「音楽を聞きに行くことは楽しいことである」ということ自体の認識がない状態なのではないだろうか。そのように思われてならない。

その状況の中で、使命感に燃え、揚琴奏者としてやっていこうという心意気は大したものだ。本当に頑張れるのかなぁ、という疑問がないではないけれど、本物は生き残ると思う。件の留学生も「本物」だったので、最終的に生き残っている。

実は、その後、この揚琴奏者の活躍ぶりは寡聞にして知らないのだが、ぜひとも理想に向かって邁進してほしいものだ。


吹奏楽部員の哀しみ

2011-03-23 21:55:00 | スポーツ

春のセンバツが始まっている。

今年の応援では、吹奏楽を使わないことになった。

私は1989年を思い出した。平成元年、昭和天皇崩御の後である。あの時も吹奏楽は使わず、太鼓だけの応援になった。

別に吹奏楽が無くなったからと言って、野球として楽しめないことはない。

ただ、吹奏楽を使わないことが被災者に対する配慮になるのだろうか? そこがどうも腑に落ちない。

実は甲子園、出場するだけで、その高校では一千万以上のお金が動く。同窓会を中心に寄付金がどっと集まる(集める?)。

何をかくそう、野球に全く無関心の私でさえ、母校が出た時は甲子園まで応援に行ったのだ。行くと、入場券を発行する卒業生用の受付があって、「一口○○円です」などと現役女子高生から言われてしまうと、それが正規の入場料の何倍であっても払ってしまうものなのだ。

だから、そんなお金を使うくらいだったら、野球は中止して、全て義捐金に回しましょう、というのならわかる。

でも実際は、野球は通常通り、応援だけ縮小。

高校の吹奏楽部、この時期には3年生がいない。中には手伝ってくれる卒業生もいるかもしれないが、基本的には、ベテランの抜けた、結構不安定な状態というのが通例だ。その苦しい状況の中、何とかやりくりして応援にかけつけているのである。

それに甲子園ともなれば、その巨額なお金が吹奏楽部にも回ってくる。公立高校など、いつまでたっても楽器を買うお金が回ってこないと思いきや、甲子園が決まった途端に、いくつもの高価な楽器が揃ってしまったりする。よし、この期待にこたえねば、と吹奏楽部員も必死にがんばることになる。

吹奏楽以外の事情には疎いのであるが、とにもかくにも高校を挙げて甲子園に懸けているのは間違いない。それを止めさせるには、本来それ相応の理由が必要なはずだ。

吹奏楽を使うと被災者の心情を逆なでするだろうか?

巨額を投じて試合をする方が逆なでするのではないだろうか?

と、少なくとも私は納得いかないところがあるのだが、一方で吹奏楽がない野球も、それはそれで悪くない。私が小学生の頃は無かったと思う。高校の時はあった。いつから吹奏楽は導入されたのかな?

あの、太鼓だけの応援はノスタルジーをかきたてる。玉龍、佐伯鶴城、諫早などという校名は高校野球で覚えたものだ。と、野球が好きでもないのに一応見ていた変な少年だった。

ここでやっと訳がわかってくる。

野球は国技なのだ。野球が嫌いでは、この国では生きていけないから、嫌いでも見なければならないのだ。そこを感じ取っていた少年という訳。敏感なのか弱虫なのか。

国技ということは、日本の象徴でもある。野球を止めるということは、日本を止めることなのだろう。日本のアイデンティティ維持のためにも、野球は続けなければならないのだ。

だから、文部科学省が「ナイト・ゲームは中止してもらえないか」とプロ野球にお願いに行く訳だ。

一方、歌舞音曲は国技に至っていないから、一方的な中止の「命令」が下る。なるほど。

しかし、吹奏楽の応援が被災者の神経にさわるか?

この疑問だけは解けない。



さじ加減

2011-03-20 21:37:26 | 音楽

現在の日本は、戦時下の状況と近いものがある。

とは言え、西日本はほぼ今まで通りに生活していると言って良いだろう。

だからと言って、今まで通りのスタンスで記事を書くのも正直言って気が進まない。

なので、しばらくは過去に書いたものを再掲させることで、お許しいただきたい。

以下は2008年12月9日に書いたものである。

 齋藤秀雄先生(私のヴァイオリンの師匠、3人共通の師にあたる)は、例え話が上手かったことが有名だ。もっとも、それを知ったのは割と最近のことで、師匠から直接聞いたものは一つもない。

 だから直伝ではないのだが、その一つに「紅茶と汁粉」の話がある。

 紅茶にも汁粉にも砂糖が2杯ずつ入っていたとする。そこに砂糖をさらに1杯、あるいは2杯継ぎ足したらどうなるか?
 汁粉は、ちょっと甘いかなという程度だろうが、紅茶は甘すぎて飲めたものではない、ということになるだろう。

 この例えを使って、テンポや強弱の変化は状況によって「さじ加減」が必要、と説明するのである。(「齋藤秀雄講義録」より)

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 なるほどなぁ、と私はいたく感心した。
 ただ、このままでは現在は使えない。ほとんどの人が紅茶に砂糖を入れなくなってしまったからだ。それに、私は汁粉は嫌いなので、二重の意味で口にしたくない。

 それで、紅茶をコーヒーに置き換えて、汁粉との比較はせずに説明することにした。つまり、コーヒーに入れるとすれば砂糖とミルク、塩や醤油を入れるものではない、と。中南米には唐辛子入りのコーヒーがあるらしいが、それだけを売る店を日本に開いたとして、お客が来ると思いますか・・・?

 だから、まず、砂糖とミルクを添えるだけの、普通のコーヒーの入れ方から学ぶべきですよ、と諭すのである。

 「普通の」大人は、これで納得してくれる。同じ調子で、大学1年生に話したところ・・・

 無反応・・・

 醤油コーヒーや唐辛子コーヒーでは、客が来ないかどうかが、全く見当がつかない様子。

 そこまで常識に欠けるか、と落胆しかけた。が、その後、よく考えたら理由は別にあった。その学生はコーヒーを飲む習慣が無かったのだった。

 ということは、未成年にはあまり通用しない例え話ということだ。うーむ、良い例えだと思ったのにな・・・。こどもにもわかる例えは、何かないかなぁ・・・。


がんばるぞ、日本

2011-03-16 01:03:49 | 日記・エッセイ・コラム

数年前、東京は中野区のコンビニにて。

レジが空いているから、素直にそこへ商品を持っていったら、いきなり頭を後ろからコツンと何かではたかれた。

振り返ると、20前後の男がいた。何か言っていたが聞きとれない。言語不明瞭なれど、ジェスチャー明瞭。見ると、1,2メートル離れたところに客が列を作って待っていた。なるほどね。

狭い店内なのに、お客さんはいわゆる「フォーク並び」をして待っていた訳だ。田舎者には、それが待っている行列には見えなかったし、田舎で、これほど狭い店内で「フォーク並び」をする発想はない。さすが東京、と感心した。

さて、まだ名称が統一されていない大震災(東日本、東北関東…)。犠牲者の皆さまには謹んでお悔やみの言葉を、被災された皆さまには、心からお見舞いを申し上げたい。

世界の約70の国や地域から救援隊が来てくれた。

中国は「四川大地震」の時の日本からの救援隊を大変感謝しているとのことで、今回精鋭15名を日本に送り込んでくれた。中国からの救援は日本初なのだそうだ。

この震災においても、非常に我慢強く、礼儀正しく、冷静に行動しているのは中国人にとっては驚異的とか。

それで冒頭のエピソードを思い出したのである。頭をはたくのは教育の程度として疑問もあるにせよ、ルールに従って行動することが徹底している一つの表れと言える。

中国人の運転する車に乗った時のこと。赤信号で止まった。でも左右から一台の車も来ない。すると、その中国人、アクセルを踏み直して赤信号を突破してしまった。日本人にはこういう人はいない。

頑迷にルールを守るのが良い訳ではないが、非常時にはとても大事なこと、今回大いに日本人の評価が上がったはずだ。

津波の被害は未曽有の惨事だが、地震による倒壊がほとんどないのも、他国とかなり差が生じている。これも高い評価を受けている。

つまりみんなでがんばってきて、がんばってきたことも今、表面に思わぬ形で現れたということになる。

それで今、日本人は何をすべきか?

言わずと知れたことで、被災地域を主に復興しなければならない。日本人が一丸となって前進すべき時だと強く思う。

12日以降のニュースが地震一色になってしまい、他のことはほとんど取り上げられなかった。困るのは九州も津波が来ていたのに、その状況が全くわからなかった。報道されていないということは、被害がなかったのだろうと思うが、あの新燃岳も噴火していたのだ。被害はあったはずだが、程度は全くわからない。九州でも津波が60センチ、80センチ、1メートルなどというのがあったのだ。普通だったら大災害なのに。

12日は国立大学の入試もあった。九州でも津波の起きた地域ではJRが止まったのだが、そのせいで欠席なのか、関係のない欠席なのかは当人の申告次第。各大学、津波のために欠席という申告があれば追試を決めた。

同じく12日は九州新幹線全線開業だったのだが、記念式典を始め、全てのイベントは中止になった。まぁ、止むを得ない。みんな祝賀気分には到底なれないから。

と書いていたら、静岡で震度6強の地震が起きた。6強と言えば阪神淡路と同じだ。一体どうなっているんだ・・・。


シャイーのマタイ

2011-03-09 22:39:53 | 音楽

30年くらい前、LPレコードのキャッチ・コピーで「シャイーは本物だ!」というのがあった。

私はシャイな性格だったので、一瞬なぐさめられたと思い嬉しかったのだが、次の瞬間それは誤解とわかると、さらに暗い性格になった。

以来、聞かず嫌いでしばらくいたのだが、ショスタコーヴィチの珍しい曲の録音など、シャイーでなければ聴けないものもあり、ようやくありがたみ(謝意)を感じるようになった今日この頃。

たまたまシャイーの「マタイ受難曲」を有線放送で耳にした。

なかなか良い。

歯切れが良くて、中には良すぎてちょっと、という曲もあったが、このリズムの良さはバッハには欠かせない。久しぶりに思い起こした「シャイーは本物だ」が頭をよぎる。このようにキャッチ・コピーで洗脳してしまうのがレコード会社の「社意」か? さあ皆さん、聴きにいらっシャイ、ということか。

まじめな話はこれくらいにして、通常のモダン楽器で演奏しているところがまた良い。10年前の「ピリオド楽器にあらずんばバロックにあらず」みたいな風潮は、正直言って困る。モダン楽器でもりっぱにバロックは演奏できるのだから。(と言って、シャイーがこれをいつ録音したのか知らないのだが。)モダン楽器でも皆さん遠慮なく演奏していただきたいものだ。

あー段々マタイを演奏したくなってきた。どこかやってみたい合唱団はないでしょうか。数年かければ、ドイツ語といえどもきっと演奏できますよ・・・。