井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

映画『Tar/ター』

2023-05-18 20:30:03 | 映画
指揮者の物語という事なので、当然音楽たっぷりの映画と思ったら、さにあらず。
無音の時間がものすごく長い映画で、まず驚いた。

そしてケイト・ブランシェットの快演、怪演に圧倒された。ピアノはグールドの真似までできる腕前、ドイツ語は流暢、そして指揮がどこから見ても本物だった。

最初に数十分にわたるロングインタビューがあるのだが、淀みなく話す内容がかなり専門的で、俳優の演技ではなく音楽家の語りそのもの。この長いセリフがすらすら話せるだけでも凄い。

指揮の振りは監修のマウチェリーの振り方のような気がする。マウチェリーの指揮は見たことがないが、写真を見たことがあり、何となくその雰囲気を感じた(少しくらい勉強の跡がないと、こちらも落ち着かないよ)。

正直言って、振りだけなら、まあ真似できる人もいるだろう。それより感心したのは、リハーサルを進行させる指揮者の言葉使いだ。早口のドイツ語、そして適宜ジョークを混ぜる、そのやり方は、一流指揮者そのものだ。こちらは、脚本も優れているという証になるだろう。
(小節番号の伝え方一つで、我々演奏家はプロとアマを感じてしまう生き物なので)

翌日、レビューを5~6本読んだ。
こちらの方が、いろいろ考えさせられた。

①二回観ないとわからない事が多い。2回目だと、冒頭のロングインタビューの意味合いがより深くなるようだ。

②指揮者のキャリアが転落して、転落先がアジアのオケというのが納得いかない。

そう言えばそうだ。最後モンスターハンターのオケで新たなキャリアを踏み出すのだが、モンハンオケの方がベルリンフィルより支持層は厚いはずだ。
これは、転落ではなく、アセンションとして演出してほしいところだ。

③権力を行使する人の行く末は、みたいな書き方があったが、私には全くそうは見えなかった。
例えば、権力を行使して若くて優秀なソリストを起用する、とかいうくだり。
ターはちゃんと首席奏者に丁寧なお伺いをたてた。カラヤンだったら、全くしなかったであろう行為だ。

ターは聴衆の立場に立ったのである。事前にビデオを見たら「これは凄い」と思ったから、順序だててオーディションまで行い、みんなが納得するように行動している。

ちなみに、カラヤンは「電車の音がうるさい。あの電車を止めろ」と命令したそうだ。もちろん本気ではなく、一種のジョークだが。

もちろん、ある程度の権力は行使しているけど、音楽の前には実に誠実である。
これが何よりも大事。
重要な音楽を表現するための手段を考え実行するのはリーダーの務めだ。
権力を使うべきところで使ったまでだ、と言いたい。

かつて「日本国内にはこれだけしか居られないから、この間に全てをスケジューリングしてくれ」と言った指揮者がいた。
仕方ないから、オーケストラも大学も無理なスケジュールを組んで、それに応えたのである。

それと比べれば、理不尽な事は何もしていないに等しい。
世知辛い世の中になった、という事なのか。

さあ、もう一度観る時間、あるかな。

再度ウェストサイド、ストーリー素通り

2022-03-16 15:25:39 | 映画
映画「ウェスト・サイド・ストーリー」の感想動画がひっきりなしに上がっていたようだ。
1日一つくらいしか見ていられないけど、あまりにあるので、ついにもう一度見に行った。2970円するメイキングブックというのも買った。これはものすごい情報量の本であり、こちらも読むと感動してしまう、素晴らしいものである。

そこにバーンスタインやロビンスの考えも示されており、初めて知ることも少なくない。
あのジョン・ウィリアムスが61年映画の録音ではピアノを弾いていたなんて……。
その経験が、彼の映画音楽に直結しているかもしれない、などと想像してしまった。彼のオーケストラ曲にはほぼ全てピアノが入っているから。

何度観ても良い理由の一つに音楽の質の高さがある、と私は思うのだが、映画ファンはそれを誰も語っていない。
ここまで上質の映画音楽は何十年ぶりに聴いたか、思いだせないほど久しぶりだ。

バーンスタインの音楽は、オペラ歌手達で録音されて、まあ満足したのが30年前。でも、「マリアの歌がキリテカナワ」というのは好みに合わない、という不満が残っていた。

そのあたりが、きれいに理想型になっていて、私は感動で泣きっぱなしだったね。

この映画では、先にオーケストラが録音されたそうだ。
それを知ると、明確に指揮者ドゥダメルのサウンドが聞こえてくる。

《マンボ》《クール》《あんな男》の3曲は結構速いテンポになっている。

バーンスタインの《シンフォニック・ダンス》内のマンボはもっと速いが、これは「踊れないマンボ」として、つとに有名。踊りとしては61年版のテンポが適正だと思うが、今回はギリギリ踊れるか、というテンポまで迫ってきた。これを踊ってしまう出演者は、それだけでもすごい。

《クール》もまた然り。
楽譜をよく見たら、これはリフが歌うことになっていた。61年版はアイス中心、今回はトニーと、毎回条件、状況、解釈が異なる訳だ。

もともとトニーが踊る曲はあまり無いから、踊れる役者さんならこの方が良い。

しかし、穴ぼこだらけの板の上で、この速いテンポで歌って踊るのだから、それまたすごい役者さん達だ。
穴ぼこにはアクリル板が張ってあったそうだが、目を凝らして見ても、そうは見えなかった。

もう1つ《あんな男》
あまり注目されない歌だけど、怒りと混乱、狂気と愛情がそのまま音楽になっている。
変ロ短調の変拍子の二重唱、メイキングブックでは「もはやグランドオペラ」と評されている、演奏至難の曲だ。
61年版では、これがちょっと短くなっていたが、今回はオリジナルの長さに戻されていて満足、泣きながら聴いたよ。

演奏のニューヨークフィル、ロスフィルも素晴らしいサウンド。

《バレエシークエンス》が朝の情景に転用されていて、本当に爽やかだった。
ドゥダメルの音色でもあるのだろう。

と、音楽映画として最高のできを示していたことを、誰も騒がないので、大騒ぎしてみました。
もっとあるけど、キリが無いのでここまで。

映画「ウエスト・サイド・ストーリー」を観て

2022-03-09 17:40:22 | 映画
長年の持論、ミュージカルは以下の4作が傑作であり、ほかはそれには及ばない。
【マイ・フェア・レディ】
【ウエストサイド物語】
【ザ・サウンド・オブ・ミュージック】
【屋根の上のヴァイオリン弾き】

この4作のヴォーカルスコアは、25歳以前に手に入れていたから、音楽についてはかなり詳しいつもりだ。

中でも【ウェスト・サイド・ストーリー】は別格で愛している。

なので、スピルバーグが再映画化したと昨年知って、公開を心待ちにし、先月観に行ったところだ。

それからしばらくして、そのレビュー動画がいくつも出てきた。なるほど、という気付きもそれらはたくさん教えてくれた。

しかし❗️

誰も音楽について触れていないのである。

スピルバーグはとても敬意を払っていて、台本のローレンツより前に音楽のバーンスタインをクレジットしている。よしよし(‥、)ヾ(^^ )

なので、音楽について、ここでは叫んでみよう!

私が「観たい」と思ったきっかけの一つは、ドゥダメルが指揮するということだった。
これは期待通り、最高の音楽を聞かせてくれた。映画を観て知ったが、ニューヨーク・フィルとロサンゼルス・フィルが演奏していた。

1961年の映画【~物語】の方は、いわゆるスタジオミュージシャンの演奏で、演奏技術は高いのだけれど、録音がどうしても薄っぺらな印象をぬぐえない。
これが、一挙にゴージャスなサウンドに生まれ変わった。ありがとう、スピルバーグとドゥダメル、である。

61年版では吹き替えだった歌も、今どきのやり方で、本人が歌うようになった。
今や当然なのだが、不朽の名作が吹き替えというのはいただけない。

また61年版のプロローグは、別の箇所からの音楽を合成して拡大されている。これは振り付けの都合だと思われる。それはそれで、あの「喧嘩」や「逃走」がダンス化されているのは見事なので一応納得する。一方で「この曲は今聴きたくないんだけど」と毎回思う感情を圧し殺すことになるのはストレスでもある。

また《クール》の順番が違うから、61年版では歌の意味合いが変わっていた。この《クール》は、我々音楽屋さんの度肝を抜いた名曲なのである。
ジャズベースなのにフーガで、しかも無調に近い調性感なんて誰が思いつく!

はたし合いの前に歌うのと後で歌うのでは、意味合いはかなり違うだろう。
この名曲が変な場所にあるのは、61年版の違和感の一つだった。
これをスピルバーグは本来の場所に戻してくれた。

これらだけでもスピルバーグが映画化する意味は大いにあると思っていたのだが、動画レビューを観ると、なぜ今映画化?と多くの人が思ったことがわかった。

この現実は、改めてがっかりである。

音楽って、その程度しか聞かれていないのか……。

私の周りの(特に作曲関係の)人は、ウェストサイドの音楽は凄いしか言わない人ばかりなので、世間との乖離を改めて認識する機会にもなってしまった。

中には、プエルトリコの音楽はわかったけど、トニーのコミュニティであるポーランド系というのがどこにあるのかわからなかった、などという感想もあった。
私に言わせれば「それ、必要ですか」なのだが。

こじつけに近いけど、ラテン系でないところは、全てポーランド系に近い音楽だ。まあ、これはこじつけ。

設定がポーランド系ユダヤ移民、と聞いたような気がする。
バーンスタインはロシア系ユダヤ人、いわゆるアシュケナジー。アシュケナジーはポーランドにもたくさんいたから、ポーランド系移民はバーンスタインにとって決して他民族ではないと言える。なのでバーンスタイン味≒ユダヤ風≦ポーランド味?

それより、このミュージカル全体を統一する基本動機が「三全音」であり、それはバルトークなどの作品に頻繁に出てくるものだから、東ヨーロッパの匂いがする、というこじつけの方がもっともらしい。

しかし、バーンスタインはそんなことは多分考えていない。

バーンスタインがもともと「三全音」が好きだったのは、著者「音楽のよろこび」を読めばわかる。
そしてその本には「ミュージカルの肝はジャズ味」みたいなことも別の箇所に書いてある。

さらに「現代音楽」は大勢が気づかないところで、映画やテレビに忍びこんでいる、ということも書いてある。

よって、ここから推測するのはバーンスタインの「ガーシュイン超え」だろう。

この原著はウェストサイド以前、バーンスタイン30代の著書である。自分で「ガーシュイン2世」と呼ばれたことに気を良くして、さらにガーシュインのオペラ《ポーギーとベス》を絶賛している。
バーンスタイン曰く「ここからが真骨頂」だったのに、ガーシュインはそこで亡くなる。

ならば、という気持ちをずっと持ち続けたに違いない。
「真のアメリカ音楽芸術を作る」という気持ちである。
ヨーロッパの借り物ではない芸術である。

「で、できたと思う訳ね」
と、指揮者の故岩城宏之はかつて言っていた。

「だから日本のそれに相当する物を作らないとダメだと思う訳よ」
と、学生だった我々に語ってくれたことを思い出した。

ちなみにウェストサイドの何が音楽的に凄いかというと、バッハ、ベートーベン、ワグナーの伝統を受け継いだ技法で作られながら、ジャズやラテン音楽が融合していて、アメリカ以外の何物でもなくなっていることだ。

そしてどの曲も演奏がやたらに難しい。

こんなに難しいのに、人口に膾炙したという現実。
どれをとっても凄い。

専門家を唸らせ、一般大衆も夢中になるなんて、ほかにどれだけあるだろうか。

多分「ない」

ないからこそ、スピルバーグがリメイクを考えたのだろう。
スピルバーグ版を観ると、人物像が一段と掘り下げられ、シチュエーションも細かく説明されている。

「なるほど、そう考えたか」と随所で思う作りだった。

それで、バーンスタイン信者からみて、ちょっと不満だったのは、クライマックスにBGMが流れていたこと。

バーンスタインは「(どれだけ緻密に作っていても)これはオペラではない」と言った。その理由は「クライマックスに音楽がないから」

本当に様々な音楽を考えたけど、どれも合わなかったので、最終的に音楽無しになったそうだ。
クライマックスに音楽がないなんて、音楽劇とは呼べない、よってこれはミュージカル・プレイ(音楽的演劇)と見なしていた。

なのに、薄くサムホエアか何かが鳴っていた。これで、私としてはやや安っぽさを感じてしまったのだなぁ。
入れるなら《ランブル》に使われている打楽器だけとかにしてほしかった。

ほかにも趣味が合わないところは合ったけど、それでもリメイクありがとう、と思っている。

同時に、このミュージカルはミュージカルとしての「完成形」だったのだな、と今思わずにはいられない。

「もののけ姫」に息づく『日本精神』

2020-07-14 22:12:16 | 映画
基本的に、恐い映画やドラマはダメなのだ。ウルトラマンは言うに及ばず、「マグマ大使」もゴアと人間もどきが恐くて数分で見るのを止めた。

同様に、ジブリ映画のほとんどが恐くて、まともに見ていない。
恐くない「となりのトトロ」は、まともに見れたけど、今度は何が面白いのかわからなかった。

20年ちょっと前になるが、編曲する資料として「もののけ姫」のビデオを渡された。あっという間に恐いものが出てきたので、画面は見ずに音だけ聞いていた。音楽がないところは跳ばして。

そんな見方だから、筋がわかる訳がない。

しかし、数々の金字塔を打ち立てた「名画」だから、いつか見た方が良いのかも、と思い続けて20数年、ついにその機会がやってきた。

始まって十分ちょっとしたら、もう泣いていた。断っておくが、恐いからではなく「感動で」である。

その後も数回は泣いてしまった。

何に泣いたか。

一言で言えば「大和魂」「武士道精神」に泣いた。

20世紀末に公開された映画だが、当時観るのと、今観るのでは、意味合いがかなり変わるのではないだろうか。

当時、日本の状況は全く良くなかったが、今はもっと悪くなっている。

今は、リアルもののけ国がお隣にいくつも出来てしまった。

映画「もののけ姫」には、根っからの悪人は出てこない。立場上、戦わざるを得ず戦っている。そして、いわゆる武士道精神に則って正々堂々と戦っている。ここに涙してしまった。

リアルもののけ国は、全く正々堂々の正反対!
勝つためなら騙しても裏切っても良い。卑怯という概念がない。

おまけに、我が国の政治家にもリアルもののけ国に忠誠を誓っている人がたくさんいる。

この汚れきった我が国の状況だけを見ていると絶望的になる。

が、

その中で観る「もののけ姫」は、ものすごい希望を見せてくれた。

この映画には、根底に『日本精神』が横たわっている。その上に組み立てられたソフトパワーは、実はものすごく強いはずだ。

この映画を見た人は、無意識に「正々堂々と戦う」ことが美しい、と思うだろう。

それこそが、私が今、一番主張したいことであり、全世界で共有してほしい価値観である。
これを、ヒステリックに叫ぶのでなく、映画を通して主張してくれていたことに、私は感激して泣いてしまったのだ。

これからは、会う人会う人に「もののけ姫を観ましょう」と言ってさるこう。
(「さるく」は「歩く」の意)

蜜蜂と遠雷

2019-10-09 20:57:51 | 映画
音楽担当が藤倉大、そして当代一流のピアニストが4人も演奏することを知って、即、観に行った。

さすが藤倉大、ちょっと聴いたことのない類いの音楽が背景で流れている。

そこまでは良いとして、まず注目なのはコンクールの課題曲。カデンツァをコンテスタントが作って弾く設定になっている。
逆に言えば、藤倉大が4種のカデンツァを4人のピアニストに弾かせている。

課題曲本編は4回も聴く訳だから、そのうち覚えるだろうと思っていたら、全然覚えられなかった。予告編を一回見た時の方が印象に残ったという妙な体験になってしまった。

そして、映像化に凝った監督は、誰もやったことがない角度からの撮影、ということで、ピアニストのあごの下から撮っていたり、などという視覚的要素に驚いているうちにカデンツァは終わったりして、とにかく音楽を云々できる状況にはなれなかった。

藤倉大の音楽がすごい、という境地には至らなかったが、映画としてはすごいことである。はたまた、こういう音楽を忘れさせる状況が映画音楽としては理想なのか……。

コンクールを扱っているから、コンテスタント同士が異様な緊張感の中でも友人になっていく様子など、とても懐かしさを感じるところもあった。

一方で「これはないでしょう!」というエピソードもいろいろ。
コンクール直前に登場人物がやる諸事、これがないと物語が成立しない、といういろいろだが、このあたりで、私の気持ちは冷えていったのは確か。

しかし、コンクール本選、ピアノ協奏曲3曲の断片、これでまた熱くなってきた。

いわゆるピアノ協奏曲の勝負曲と言って良いバルトークの3番、プロコフィエフの2番と3番。

10年ほど昔「北京バイオリン」という映画を観た時は「ヴァイオリンはいいなあ」と改めて思ったものだが、今度は「協奏曲は何と言ってもピアノにトドメをさすなあ」と思ってしまった。

俳優さん達も、本当に上手に弾かれる。その昔、加藤剛さんの頃は手を絶対に写さなかったのとはエライ違いだ。

そして、極めつけ(と私が思う)のは河村尚子さんのプロコフィエフの3番。

少し前、N響と矢代秋雄のピアノ協奏曲を共演されていたのをFMで聴いたのだが、抜群の上手さに度肝を抜かれた私であった。

以来注目のピアニストだったが、期待に違わぬ名演を映画で聴かせてくれている。

最後あたり、主人公の心理的葛藤を映像だけで表現しようとしていて、それ自体は感じとれたのだが、映像だけ見てハラハラドキドキは正直言ってしなかった。

でも、河村さんの名演で映画が終わるので、そのような不満は雲散霧消して、良い気分で映画館をあとにできて、それはとても良い。

原作者は映画の出来に驚嘆したそうだが、私は、時間があったら原作を読んで、本来の感動を味わいたい、という感を持った。