井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

モーツァルト無しではVS.ベートーヴェン無しでは

2017-01-17 18:58:00 | 音楽
以前「モーツァルトの残像」というタイトルで、モーツァルトとモーツァルトの影響下にある作曲家の作品を集めたコンサートを開いたことがある。

モーツァルトを崇拝していたと言って良いチャイコフスキー、ドヴォルザーク、モーツァルトの再来と言われた天才、サンサーンス、ショスタコーヴィチ。
私の好きな作曲家が集合した感があり、この顔ぶれを見るだけで私はご満悦。

このように後世まで多大な影響を与えた作曲家、比肩できるのはベートーヴェンかな。

ベートーヴェン抜きでは語れない作曲家はシューベルト、シューマン、ブラームス、ワグナー、ブルックナー、マーラー…。
リストやベルリオーズも入るかもしれないけれど、圧倒的に独墺系が占める。

この違いもモーツァルトとベートーヴェンを象徴している。旅好きで、しかも各国の文化を取り入れながら成長発展したモーツァルトと、基本的にドイツオーストリアに住んで、ひたすら思想的追求を行ったベートーヴェン。

後者のグループを眺めると、私は断然ベートーヴェンご本人が好きである。

きっと勝つ

2017-01-15 22:01:07 | 大学
センター試験の昼休み、食堂でカツカレーを食べていたら、少し離れたところに受験生がやはり食事をしていた。

そこへやってきた高校の先生。取り出したのはKitKat。
これを欧米人のように「キッカッ」と呼んではいけない。
九州弁を強調して「きっとかつと」と呼ぶべきである。

それを受験生達に配っていた。
良か先生ばい。
ちょっとうらやましかった。

みんな良い成績だと良いですね。

記名式講評②

2017-01-09 12:48:26 | コンクール
講評を書くことで救われることもあるから、一応良いことだと思うと述べたが、書くのはなかなか大変。

本当は、演奏が終わってから講評したいものだが、そのような時間は許されていない。
必然的に演奏中に書き始めるけれど、特に男性は○○しながら何かするのは苦手である。聞きながら書くのはとても難しい。

書くこと自体も結構時間がかかる作業で、最初しばらく聞いたら書き始めないと間に合わない。
昔、地元の楽器店主催のピアノコンクールの審査を頼まれたことがあるが、ブルグミュラーやソナチネの1分かかるかどうかみたいな演奏で講評を書かなければならなかったのは辛かった。
いきおい「よくがんばっていますね。これからもピアノを続けてね。」式の講評を量産している自分がいたこともあったような気がする。

おまけに、最近は目が悪くなって、暗い会場では鉛筆の字が読めない。
なので、ここ数年まえからペン持参で臨むようになった。どうせ書き直す暇はないから、鉛筆である必要がないし、ペン字だと、多少暗くても読める。

なので、講評はあった方が良いという建前はあるのだが、無いと知ると正直ホッとするのが本音の自分だ。。

記名式講評①

2017-01-05 21:50:07 | コンクール
コンクールにおいて「講評用紙」というものがある。数から述べれば講評用紙があるコンクールの方が多いだろう。
権威のあるコンクールは無い方が多い。
権威があっても、合唱や吹奏楽はほぼ全てある。

海外のコンクールでは寡聞にして例を聞いたことがない。

しかし、ヨーロッパの国際コンクールだと、直接審査員を捕まえて講評を口頭で聴くことができる。審査員もそれに備えてしっかりメモをとっている。

なので、講評を聴けないコンクールが問題になる…
かもしれないが、講評のないのは毎日新聞主催の二つのコンクールくらいかもしれない。

その二つのうちの一つ、全日本学生音楽コンクールが5、6年前だろうか、予選に限り講評を始めたのである。
これは歓迎すべきことだろうと一応思う。

特に、結果は悪かったけれど良い演奏だった場合、有効に働くだろう。
コンクール等の変なところは、1番良いと思った人がそれぞれ違ったりすると、その次かな、という人が逆転して1位になってしまう現象が時々起きることである。

結果、皆が不満に思うことになる。

そんな時には、講評用紙に「私はよかったと思う」と書けるのが救いになるのではないだろうか。