本当は、演奏が終わってから講評したいものだが、そのような時間は許されていない。
必然的に演奏中に書き始めるけれど、特に男性は○○しながら何かするのは苦手である。聞きながら書くのはとても難しい。
書くこと自体も結構時間がかかる作業で、最初しばらく聞いたら書き始めないと間に合わない。
昔、地元の楽器店主催のピアノコンクールの審査を頼まれたことがあるが、ブルグミュラーやソナチネの1分かかるかどうかみたいな演奏で講評を書かなければならなかったのは辛かった。
いきおい「よくがんばっていますね。これからもピアノを続けてね。」式の講評を量産している自分がいたこともあったような気がする。
おまけに、最近は目が悪くなって、暗い会場では鉛筆の字が読めない。
なので、ここ数年まえからペン持参で臨むようになった。どうせ書き直す暇はないから、鉛筆である必要がないし、ペン字だと、多少暗くても読める。
なので、講評はあった方が良いという建前はあるのだが、無いと知ると正直ホッとするのが本音の自分だ。。
権威のあるコンクールは無い方が多い。
権威があっても、合唱や吹奏楽はほぼ全てある。
海外のコンクールでは寡聞にして例を聞いたことがない。
しかし、ヨーロッパの国際コンクールだと、直接審査員を捕まえて講評を口頭で聴くことができる。審査員もそれに備えてしっかりメモをとっている。
なので、講評を聴けないコンクールが問題になる…
かもしれないが、講評のないのは毎日新聞主催の二つのコンクールくらいかもしれない。
その二つのうちの一つ、全日本学生音楽コンクールが5、6年前だろうか、予選に限り講評を始めたのである。
これは歓迎すべきことだろうと一応思う。
特に、結果は悪かったけれど良い演奏だった場合、有効に働くだろう。
コンクール等の変なところは、1番良いと思った人がそれぞれ違ったりすると、その次かな、という人が逆転して1位になってしまう現象が時々起きることである。
結果、皆が不満に思うことになる。
そんな時には、講評用紙に「私はよかったと思う」と書けるのが救いになるのではないだろうか。
「こうやって訊いてくるお母さんがいるのよ。」
「どこがダメなんですか?」
「全部。」
「もう、どこがダメって訊いてくる時点でダメよね。だから全部ダメって言うしかないのよ。」
いやはや、思わず笑ってしまった。
これは某コンクールとは別のコンクールでの、ある審査員の会話。
冷静に考えればすぐにわかることだが、情熱が燃えたぎっていて、「うちの子はあれだけがんばらせたのだから、悪いはずがない」と思い込んでいる親、わからないのだろう。わっかるかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ(1975)、と私も40年間言い続けるのであった・・・。
人それぞれ、良いところ、改善すべきところ、あるはずだ。他人の演奏を聴いて、そのあたりがある程度わからなければ、向上は不可能に近く難しい。
言い方変えれば、どこが良くてどこがダメか、ある程度はわからないと、上手くはなれない。冷静だったら、誰でもわかると思うのだけれど・・・早く冷静になっていただきたいものだ。
引き続き某コンクールだが、私にとっても最大級に重要なことがあった。
途中からではあるが、私の師と一緒に演奏を聴くことができたのだ。これは生まれて初めてのこと。
こちらの師から学んだのは、ほとんどがヴァイオリンの技術面だった。しかも、恐らくはアメリカで発達したと思われる技術。お陰様で、音の出し方については根本から見直すことができたし、現在の私の根幹になっていると言って良い。
その中で、右手の小指の使い方というのがある。
フランコ・ベルギー流だと、弓先ではほとんど用をなさない小指だが、せっかく5本ある指は、しっかり使う、弓先でも手首を下げて小指が離れないように、という教えだった。
これだけだと、実際はどちらでも結果にあまり差がない。
大事なのは弓元での小指の使い方である。
約60グラムあるヴァイオリンの弓、そのまま弓元で弾いたら重すぎて音がつぶれてしまう。だから重さをのせすぎないように弾くのだが、この時、手全体で重さがかからないようにすると、必要なアタックがつかないだけでなく、弓元数センチを超えたところで、必ず音が肥大する。
それはさすがに不本意なので、持ち上げた弓を必要なだけまた押し戻すという、とても複雑なことをやる。そういう人は結構多い。かくいう私もその一人だった。
ここで小指を使う技術を使うと、弓の重さだけで音を出すことができる。
弓の根元を使う時だけ、小指でスティックを少し押す、これだけのこと。親指をてこの支点、小指が力点、弦との接点が作用点(てこの原理、覚えていますか?義務教育)
重さが必要以上にかかってしまうのは、(弓を使う速度次第で変わるが)弓もとから数センチまでなので、少し押す、これで充分。
一旦マスターすると、全然難しくないのだが、使ったことがない人には少々訓練がいるだろう。
使ったことがない人、これが存外多くて、このコンクール、滅茶苦茶うまい子供たちであっても少なくとも3割は使えていなかった。
また、使えなくてもほとんど差し支えない曲(シベリウス、ショスタコーヴィチ等)もあることを発見したのも、私には収穫。
はっきり使えているとわかる演奏は(感覚的には)3割くらいの印象。
これが、私としては気になって気になって仕方がなかった。
そして私にとってラッキーだったのは、それを伝授してくれた師匠の同席である。
審査の合間に、お伺いを立てたらば「ああ、(元弓が)使えていないわねぇ」の一言。
その一言に意を強くして・・・
このコンクールの良い試みは、終わってから審査員の講評会があること。
この場で、右手の小指が使えていないと思われる皆さんには、上述のことを教えまくった。
そのアドバイスだけでできるようになる人は、かなり優秀だと思う。
だけれど、それをきっかけにしてくれる人が少しでもいれば、将来は明るい、それを願って終わったコンクールだった。