井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

少子化にナルト

2009-05-20 18:52:27 | ヴァイオリン

某大学のレッスンにて。

シェフチークの重音をやらせていたら、気分が悪くなってうずくまってしまった学生がいた。こちらも気分が良いとは言えないが、うずくまる程ではないというか、重音を聞かずに済んで、気分が良くなったというか…。

これくらいは大したことではない。

他大学のレッスンにて。

1ヵ月経ってもスケールをやってこない1年生がいる。 入学前にスケールというものをやったことがないのだ。

最初できないのはやむを得ない。そこで怒ってはいけない。要領を覚えさせるために、上学年と一緒にスケールを弾かせてきた。

1ヵ月半経った。そろそろ良いだろうということで、一人で弾かせてみた。

まるで弾けない。

大学でなければ「お宅のお子さんは…」と、親に責任を取らせる方法もあるのかもしれないが、大学ではそれはできない。もしそれをやると墓穴を掘る。最近ではモンスター・ペアレンツが大学に怒鳴り込み、一体何をやってるんだ、という例もあるそうだ。これを墓穴とモンスター、ボケモンという。

しかし注意しないのは職務怠慢である。つまり「怒らないで」注意する。

今回は注意もせず、質問を一つ。「どうしてこの大学に来たの?」

すると案の定…

「最初はパティシエの勉強とかしたかったけど、大学行かないのなら、このヴァイオリンを売る、と言われて…」

その後は顔を向こうに向けて、鼻をグスグスし始めた。

このように、自分の意志でなく大学に来てしまうケース、少子化時代、とても増えている。

学校というシステムは、学ぶ意欲があることを前提にしているから、このようなケースには苛酷である。

だから、この先の選択肢は限られる。

・学校を辞める。

・心機一転、勉学に励む。

・私が適当なレッスンをする。

学生の選択肢は最初の二つしかないはずだ。 が、ここはとぼけて「来週まで考えていらっしゃい」と言っておく。

私も、とボケた者、ボケモンになり、レッスン室を去った。来週は意欲満々に「ナルト」いいなあ。


カネオクレタノム

2009-05-13 19:00:10 | 音楽

これを知ったのは小学生の頃だったから、有名な電文だと思っていたが、今では電報そのものも非日常の世界のものになってしまったこともあって、あまり知られていない。ソルフェージュの授業で時々紹介するのだが、少なくとも学生は誰も知らない。

金をくれ、頼む。 金送れ、頼む。 金をくれた、飲む。 金遅れた、飲む。

と、区切り方によって、まるで意味が違ってしまう文である。

音楽の世界でも似たような話があって、シューベルトの歌曲「死と乙女」の前奏は、3種類の区切り方が考えられる、とリーマン(音楽学者)が事典に書いていた。 それを長い間、私は誤解していた……。

「そのリズム」は3通り、分け方が考えられるのであって、「死と乙女」が3通り、ではない。

フレーズの分け方は、複数あるものではない、と考えるのが原則だ。

奇想天外なフレージングをする超一流、イヴリー・ギトリスのような例もある。音楽は法律ではないから、やっていけないと簡単には言えない。

実はギトリスの初来日の頃、私は学生で、ちょっとしたセンセーションが巻き起こった。目眩く名人芸と共に、全く新規なフレージングが頻出したからである。

でもA先生は 「気違いおじさんの真似をしないように」 B先生は 「そういうことは君が一流になってからやってくれ給え」

少なくとも、私達には禁じられた遊びだった訳だ。

ということで、正しいフレーズ分けは必須の技術なのだが、これが難しい。自分でも、昔の書き込みを見ると、とんでもないことをしていることがある。

だから難しいのは承知だが、正しくやってくれないと困る。

先週、イザイのソナタ第2番の2楽章を持ってきた学生がいたが、フレージングが違うせいで意味不明の音楽になっていた。

今週は意味の通る音楽になっていますように……。


ドゥダメルの「エスタンシア」(ヒナステラ作曲)

2009-05-12 18:12:11 | オーケストラ

 昨年の音楽の友10月号に,ウィーン・フィルの座談会が掲載されていた。そこまで言ってよいのか,というほど,古今の指揮者が俎上に上げられ,本音で語られていた。

 その中で気になったのが「ドゥダメル」についてのコメント。

F:彼はもの凄い才能を持っていて,他の若手とは次元が違うところにいます。ティーレマンを除いて,今最も有名になっている若い指揮者と一緒にすべきではありません。
A:ドゥダメルのCDを聴きましたか?信じられないような広いレパートリーを持っている素晴らしい才能で,今売れている他の若い指揮者とはカテゴリーが違います。つまり比較にならない段階の才能です。

 つまりベタ褒め。これがムーティ,アーノンクール,オザワにケチがついた後に出てくるのだからたまらない。

 それから半年して,ようやく録画を見る機会が訪れた。ヘルリン・フィルのヴァルトビューネ・コンサートで,曲はヒナステラの「エスタンシア」。

 この曲は井財野,気になって仕方がない曲である。井財野版を出したい誘惑に駆られるのだ。しかし,なぜそれをしないかというと,やはりこれは大した曲ではないのではないか,と思ったからだ。

 「エスタンシア」は農場の一日を描いたバレエ音楽。バレエだから,音楽としてさほど充実していなくても用は足りる。でも音楽として多少なりとも面白いとコンサート・レパートリーに加わる訳だ。4曲の組曲だが,4曲目の「マランボ」が独立して演奏される機会が多い。

 さて,この「マランボ」は面白いのか?

 20代前半の頃,浦和の音楽鑑賞教室のオーケストラで10回弱演奏したことがある。忘れもしない,指揮のアルガ先生の話によるとクラリネットのアライさんの提案でプログラムに加わったことになっていた。

 2拍子と3拍子の交錯するリズムが,ラテン的熱狂を巻き起こす。この手の曲は,基本的に私は大好きなはずだった。最初は面白がって弾いていた。しかし,その満足感が一向に押し寄せてこないのである。隣で賑やかにやってはいるが,自分が参加できている実感がなく,終わったら疲れだけが残る。

 賑やかにやっている人達は満足かというと,それはそれで疲れ果てている。一見,面白そうで,ちっとも面白くない,変な感情が残る曲だった。

 何かが悪い,ということを漠然と感じながら時間が過ぎていった。その後,何年おきかにテレビで様々な演奏を見ることができた。デュトワ指揮のモントリオール,同指揮のN響,バレンボイム指揮のベルリン・フィル等が思い起こされる。

 共通していたのはオケメンの「つまらなさそうな」表情!どのオケも「お仕事,お仕事」という顔で弾いていた。これで一つの結論を得る。
 「オーケストレーション(管弦楽の楽器配置法)が悪い」

 アンサンブルの楽譜は各パートを興味深く書く,というのが鉄則である。そうしないと,どこの一流でも「お仕事顔」でしか演奏しない。「エスタンシア」のオーケストレーションは各パートあまりにも同じ繰り返しパターンが多い。

 という訳で,配置を変えると面白い曲になるかも,とは思った。だけど,大変な作業である。そこまでの価値があるかなあ,やはり無いかもなあ,という風に思っていた。

 そこへ,今回のドゥダメルの演奏である。

 最初に演奏されたチャベスの交響曲からして響きに独特のスパイスを感じた。これは違う,確かに違う。ひょっとして「エスタンシア」も・・・

 面白い!やはり良い曲かも・・・2曲目など実に美しいではないか・・・

 そして終曲「マランボ」

 速い!これをゆっくり演奏する人は皆無だが,それにしても1割方速い。ちょっとのことだが,演奏は数倍難しくなる。なのに打楽器などは奇跡のアンサンブルと呼びたくなるほど,ピタッとはまっていた。
 この速いテンポのこともあって,演奏者全員が緊迫感あふれる表情なのだ。決して「お仕事」ではない。ベルリン・フィルだからと言うなかれ。前述の通り,バレンボイムが振ったのもベルリン・フィル,同じヴァルトビューネだ。この時は「お仕事」なのである。バレンボイムだからと言うなかれ。別の曲ではあるが,この時のピアソラを超える演奏はそうあるものではなく,私はDVDを買ったくらいなのだ。

 終わってから客席から歓声がわき上がるのは当然,演奏者もパユを始め「やったぞ!」という笑顔に満ちあふれていた。つまらない弦楽器パートを弾いていた弦奏者でさえ,つまらない顔はしていなかった。オーケストラをその気にさせるのは一流指揮者であることを証明している。

 一割速くするだけ,と思うかもしれない。しかしこれが簡単ではないのは,やってみればわかる。「あんたねぇ,バレンボイムでもこれでやってんだよ」と普通は睨まれておしまい。

 今後,このテンポが標準になることは考えられる。でも,コロンブスの卵だ。バレンボイムでも発見しなかったのだから,やはり偉業と言って良い。

 デュトワ,バレンボイムが成し得なかったことを,やってのけたドゥダメルは,やはり冒頭のウィーン・フィル・メンバーの言葉通りの存在となるしかない。要注目である。

 という訳で,井財野としては,井財野版「マランボ」にまた食指が動きかけている。

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モーツァルトの特徴は?

2009-05-11 09:33:49 | モーツァルト

 モーツァルトを考え続けて,演奏上何が特徴で気をつけるべきかを洗い出そうとしてきた。が,結局,クラシック音楽の特徴をふまえていれば,大方解決するのではないか,という風に考えるようになってきた。

 はっきりモーツァルトに特徴的なのは,

・短い単位で「言うこと」が変わる

・若い時の作品には「ギャラント・スタイル」という流行を取り入れている
(以前にも書いた通り,スラーに従って発音をはっきりくっきり分ける)

・基本的発想はピアニスト
(ヴァイオリン協奏曲の第4番はモーツァルト自身が初演したけれども,あの分散和音はピアニスティックだろう。パガニーニやヴィエニアフスキの分散和音は左指をあまり動かさずに弾ける)

 なので,クラシック音楽の特徴を考える方がより有益だと考えるにいたったから,モーツァルトの項はこれで終了。実践をご希望の方,ぜひ福岡教育大学の公開講座「ヴァイオリンとピアノのためのモーツァルト講座」に来て下さい。今週までが受付期間です。


賑やかVS寡黙

2009-05-02 12:44:54 | ヴァイオリン

 毎年,新入生を迎え,生まれて始めてヴァイオリンを手にする人達にヴァイオリンの弾き方を指導する。グループ・レッスンである。当然ながら毎年反応が違う。

 今年の1年生は半分がやたら賑やかである。これが少々心配なのである。あくまで「おしなべて」であるが,賑やかなグループはあまり上達せず,寡黙なグループの方が上達する傾向があるからである。実際,あと半分の「寡黙グループ」が2週間で差をつけ始めた。上達が速いのである。

 「賑やか」グループが口を開く前に,どんどん先に進めるようにすると,一応はそれほど賑やかではなくなる。それでうまくいったように一見思われるが,期末にアンケート(最近は学生による授業評価がある!)をとると「進度が速すぎた」「難しすぎる」などという「マイナス評価」になって,結果が出てくるのである。

 少しは難しいことをしないと上達はないのに,これを「マイナス評価」とするアンケートも変だと思うのだが,それはさておく。

 「賑やか」グループが口を開くことが,必ずしも悪いことではないのが,問題を複雑にしている。というのは,彼等は一種の感動をしているからである。これは音楽をやるにあたって必要不可欠のことだ。これを封じ込めて先に行くこと自体に「私の」抵抗がある。ジレンマである。

 結局,少しは適当にしゃべらせておいて次にいく,ということをするのだが,その間「寡黙グループ」はひたすら練習しているので,やはり差は出てくる。これは致し方ないだろう。

 高校生までの話だが,ヴァイオリンのレッスンにおいて,おしゃべりをする子に上達するケースはほとんどない。自分の経験では,ヴァイオリンを弾く頭の回路と,話をする頭の回路は,かなり共有部分があって,ヴァイオリン・モードの時に口は動かないようになっている。例えば先生から質問されても,なかなかしゃべれないものだ。回路が「しゃべり」に切り替わらないのである。

 私だけではない。私の知り合いのおしゃべりなヴァイオリン弾きは一杯いるのだが,彼等も異口同音に「高校までは一言もレッスンでしゃべったことなんてなかった」と言う。
 これが大学にはいると,なぜか口が動き出すのである。自分もそうだった。

 新入生を見ていると,そんなことを思い出してしまった。感動を内に秘めて,寡黙にひたすら,というのがいいなあ・・・。