井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

先生の寿命

2010-07-30 23:54:23 | ヴァイオリン

大学生だった頃,田中千香士先生が「先生は,そんなに長々と同じ人に習うものではない」とおっしゃっていた。

千香士先生は,「スケールが服を着て歩いている」ジャン・フルニエ(チェリストのピエールの弟)に1年,ガブリエル・ブイヨン(シェリングの師匠でもある)が一番長くて3年,そんなものだ,と・・・。フランス滞在はもっと長いから,他の先生もいらっしゃったはずだが,話題にはならなかった。

えーっ,と思う反面,そうだよね,とも思ったものだ。 子供の頃は別として,大人になると,どんな先生でも師事して2年を超えると,段々中身が薄くなっていく感じがする。千香士先生は結構顕著で,2年を超え出した我々は,密かにささやきあっていたのであった。

「どうする?」

「でも,ツィガーヌ習ってないし,フォーレもまだだし,その辺りをやればまだ1年分はあるかもしれない。」

「そうやって考えれば,まだ大丈夫か・・・」

と,不謹慎な会話ではあるが,弟子は弟子で必死だったのである。

また,千香士先生の,ある特定のレパートリーに対するレッスンは,強烈に面白いものだった。それが最初からわかっていれば,それだけを受け続けて3年くらいは充分に「もつ」のだが,それだけ受ける訳にはいかないのである。やはり基本的レパートリーは一通りやるべきなので。 この先生で大丈夫だろうかという不安と,まだこの先生から学びとれていない焦り,これが3年目は続いた。

そして4年目になる少し前,新しい非常勤の先生が見えることになった。

「誰か,行きたい人は?」

「はいっ!」

と,手を挙げたのは言うまでもない。(手を挙げさせて決めるものだろうか?という若干の疑問もあったが。)

「そうか。では君はM先生に育ててもらうんだな・・・」

ここで,今度は強度の寂寥感におそわれる。千香士先生ほど,そばにいて愉快な先生はいらっしゃらないからである。新天地を求めたい,でも離れたくもない,一体どっちなんだ?と自問自答する。

結果的には,M先生に変わったことで,急速に成長できた。でも,M先生の演奏旅行の間に,千香士先生のところへ行ってツィガーヌやフォーレを教えてもらったのである。このくらい貪欲でなくちゃね。

という訳で,先生の寿命は3年くらいかな,と思っている。ただ,これは基本的な技術がある程度できてからの話である。基礎ができる前に先生をいろいろ替えるのは,場合によって無駄が多いから,あまり薦められない。

現実には相性の問題もあるから,さっさと替わって正解,というのもあるし,いつまでも基礎ができず,とうに7年を超えて教える場合もある。基礎訓練にずっと付き合うのは、教える側も楽ではない。皆さん早く上達してくれ、と祈るのみ。


理想的な音楽評

2010-07-27 23:28:00 | 音楽

感想と評論はどう違うか?

実は、筆者も20代の頃は、全く両者の区別がわからないでいた。そもそも、あまり関心がなかったのである。

その後、長じるに及んで、「書く」という行為が、演奏活動を支える重要な手段であることに気づくようになった。
書かれなければ,時間が経つと,演奏されなかったのと同じ扱いになってしまうからである。

そんなものだと思っていたけれど,音楽雑誌が売れなくなり,廃刊に追い込まれ,ということが徐々に続いている。
インターネットの普及の影響だ。このネット上での文章は、ほとんどが感想である。新聞に載っている演奏会評も、時に感想文がある。

「評論は、結局演奏と同じ時間かけて勉強しないと書けないんですよ。」と、ある先輩が語ってくれたことがある。なるほど。

感想文も「印象批評」と言って、広い意味では評論に入る。感想文も、無いよりはあった方が良い。では狭い意味での評論とは・・・

表面に現れていることと、奥に潜む考え方や文化等との因果関係を解き明かすこと、とでも言えば良いだろうか。これは確かにかなりの勉強が必要だ。

そうして書かれた評論は、かなり力のある文章だ。批判が含まれると、対象者はかなり傷つくこともあるだろう。書き方によっては、演奏家と評論家が敵対してしまうかもしれない。

しかし、最初に書いた通り、書かれない演奏は、将来的には「無」になってしまう。敵対は好ましくない。どのように評論されるのが良いのか・・・。

思い出すのは、その昔の田中千香士先生の言葉。「向こう(フランスのこと)の批評は面白いんだよ。普通に読んでもわからないんだけど、演奏した人間にだけグサッとくる書き方がされててね。」

これが極意ではないだろうか。

筆者も試みて・・・書き始めたのだが、そろそろ一カ月経つのに、まだ書けない。途轍もなく難しい作業である。でも、そのうち書いてみせるぞ・・・。


チューナーの効用

2010-07-19 23:50:12 | ヴァイオリン

機械類がとても好きな友人がいて,身近な家電製品のみならず,車,バイク,飛行機,何でも,と思いきや,嫌いな機械が二つだけあるという。それはメトロノームとチューナー。なるほど,己のできなさ加減を教えてくれる忠実な僕の仕事は,余計なお節介ということか。

管楽器の世界では四半世紀前から常識になっているチューナーの使用,ヴァイオリン,ヴィオラ,チェロではまだまだ普及していない。根強い懐疑論があるからだと思う。曰く、チューナーがないと音を取れないのではないか、耳が発達しないのではないか・・・というような意見が出てくるのは容易に想像がつく。

20年くらい前だったと思う。あるクラリネット奏者が「○○先生はチューナーのこと、あまり知らないんだよね。」生徒のチューナーを見て珍しがって、チューナーを見ながら吹いていた。「結構、音が外れているんだよね。」その頃、その先生は在京オーケストラの首席奏者だった。いわゆる「名手」でも、チューナー的な音感 (=平均律) からすると「外れて」いる現実を、我々は新鮮に受け止めたのだった。

その後、日本の管楽器奏者のイントネーションは飛躍的に改善された。その伝でいくと、チューナーを使わない手はないように思える。

もちろん、弦楽器奏者のイントネーションだって、かなり精度が上がった。それがチューナーの使用によるものかどうかはわからない。チューナーとは大して関係ない可能性もある。

ところで、チューナーのない昔、音高の訓練はどうしていたか。

筆者の師匠(I)はレッスン時、音階を弾くのに合わせてずっとピアノを弾いてくれていた。(なので、それは筆者も現在にいたるまで踏襲している。)

師匠II(田中千香士)は「一緒にピアノで弾いてもらって、それに合わせるのが一番いい」と教えてくれたことがあった。

(ということは、両先生の師匠格にあたる斎藤秀雄先生も、その方法だった可能性がある。)

この方法の最大の難点は、一人でできないことにある。

また、筆者が育った頃のチューナーは、いちいちダイヤルをAならAに合わせてから音を出し、それが合っているかどうかを針が教えてくれ、Fを合わせたければ、ダイヤルをFにして、という恐ろしく面倒な機械だった。こんなことをする暇があったら、耳を直接鍛えたがマシという風に考えるのが自然である。

しかし、ほどなくして音名を自動識別するチューナーが出ていたようだ。こうなると話が変わってくる。こんな便利な機械を使わない手はない。

問題は使い方である。大事なのは、音が合った時の左手・指の状態、音の聞こえ方をよく記憶しておくことである。このくらい指を拡げた時、この音の高さになる、ということを指と耳に覚えさせる、それを繰り返せば、そのうちチューナーが無くても耳は正しい音高を認識し、指は正しく動くようになるだろう。

この「記憶させる」が「上達」なのである。そんな、音高と指の状態なんて、とても覚えられない、と子供時代には思っていた。これが「間違い」である。タイムマシンがあったら、昔の自分に言い聞かせたい。「いや、絶対記憶できる!」

という訳で、チューナーを使うように常々指導しているのだが、筆者の生徒はなかなか使おうとしない。それでいつまでたってもイントネーションが怪しい。使うな、と言ったら使うようになるのだろうか・・・。


拍子と緩急アクセント

2010-07-10 01:05:08 | 音楽

 拍に乗ることによって,リズムに最小限の秩序が生まれるわけであるが,それらをさらにまとめる(整える)役目をするものに拍子があり,近世の音楽ではほとんど必須のものとされている。

 と,1960年に発行された「楽典」という本に書いてある。音楽を志す者,ほぼ全員が読んでいる本である。

楽典―理論と実習 楽典―理論と実習
価格:¥ 2,048(税込)
発売日:1998-12-10

 次に「拍子」の定義が続く。

 拍子というのは,何拍ごとかに心理的な強点(力点)を周期的に設定して,拍の進行を整理・統合する組織である。それは,何拍ごとかに何らかの点で反復を行うことによって実現される。

 「心理的な強点」「何らかの点」,このあたりで抽象的になってわかりにくくなるが,「楽典」には具体例が書いてあるので,おおよそのところは見当つくはずだ。定義はもう一つある。

 拍子というのは,強拍といくつかの弱拍との規則的交替である。

 問題は,これを演奏にどう反映させるかである。親切にも,いくつかの注意書きがある。

・強拍・弱拍は,直接音量の強弱で表そうとすることは少ないのであり,通常,音の長短や高低その他によって心理的に意識させるのである。

・強拍というのは,もともと「心理的な」強点なのであるから,実際に鳴る音の強さとは必ずしも一致しない。弱拍についても同様である。 拍子を感じさせる力の内在する旋律やリズムは,全部の音を,均等な音で鳴らしても,十分に,何拍子かということや,強弱関係を意識させ得るものである。そして,それらは,crescendo, diminuendo,あるいは多少のアクセントによって,簡単にくずれるものではない。

・したがって,特定の指示のない場合に,曲の強拍を強く,弱拍を弱く演奏して良い効果を発揮することもあるが,場合によっては,そのような奏法を行ったために,非常に不自然な,あるいはこっけいな,作者の意図に反する悪い結果を生むこともある。 ゆえに,強拍は強く,弱拍は弱く演奏するものと一律に決めてかかってはならない。

 ここまで読むと「じゃあ大して意識しなくてもいいのかも・・・」と思ってしまう人が大半なのではないだろうか。

 ところで「音楽上のアクセントの種類は三つある」と平凡社の音楽大事典には書いてある。

強弱アクセント

高低アクセント

緩急アクセント

 これらのアクセントは,上述「楽典」の「強点」とほぼ同じことを指していることが,この分類法でわかる。そして,一般的なイメージとしてのアクセントは「強弱アクセント」ということになろう。

 で、演奏上これをどう取り扱うか。

 そこで、前掲のCD演奏がとても参考になる。つまり、もと歌を知らないクラシック演奏家が、楽譜のみを頼りに(クラシック流に)演奏するとこうなる、という典型例だからだ。お聞かせできないのが残念。

 どうなっているのかというと、各小節の1拍目に、律儀にも必ずアクセントがついている。ほとんどが、わずかに強くてわずかに長い。つまり「強弱」と「緩急」のミックスである。そして、前述の通り、これを認識できない人も多いくらい微弱なものになっている。これが「クラシックの流儀」だと言って良いだろう。

 つまり、「楽典」に載っていたアクセントは、基本的に付けるものなのだ。付けて初めて拍子が成立する。問題は「付け方」。

 一流でなくても、欧米人の演奏には、必ず付いている。だから、とにかくいろいろ聴いているうちに、おおよそのことは見当がつくだろう。ポイントは「緩急アクセント」。強くするのがふさわしくない時、あるいは困難な時は、音を伸ばしている、これに注目していただきたい。

 「楽典」にも事典にも載っていて、かなり昔から自明のこととされている割には、全く定着しておらず、毎日のレッスンで毎回指摘している事項である。これさえ言っておけば先生の役割を果たしたことになる、という意味では楽ちんかもしれないが、やはり、早く言わないで済む日が来てくれた方が嬉しい。


「戦争を知らない子供たち」を知らない子供たち

2010-07-07 23:08:35 | 音楽

その昔、「週刊FM」という雑誌に載っていた小ネタ。

「いちご白書」・・・映画

「いちご白書をもう一度」・・・バンバン

「いちご白書をもう一度」をもう一度・・・リクエストのはがき

さて、大学院の授業で「だれもいない海」という歌を聴かせた。受講する大学院生は、ほとんどが20代前半、それになぜかアラフォー一人、現職教員でアラカンに近い、つまり私より年上が一人含まれていた。この歌を知っていたのは、現職教員の方のみ、であった。

次に「戦争を知らない子供たち」という歌を聴かせた。今度はアラフォーさんも知っていた。しかし、20代の院生は知らないと言う。

アラフォーさん「それは嘘でしょう!」

20代「いいえ、知りません。」

残念。聴かせたCDは、チェコ人による弦楽四重奏で、実にクラシックの流儀で演奏しているものである。(以前も本ブログで紹介したことがあった。)

これを通して、その「クラシックの流儀」がわかる、大変興味深いCDなのだが、元の歌を知らないと、それがすんなりとはわからない。

戦争を知らなくても良いから、「戦争を知らない子供たち」という歌は、歌い継がれていってほしいものだ。

気を取り直して・・・その「クラシックの流儀」の最たる「アクセント」を聴きとってもらう。このアクセントのつけ方が、フォークソングをクラシック音楽に変容させている大きな要因だからだ。

ところが、このアクセント、結構聴きとれない院生が多くて閉口してしまった。これではクラシック音楽の演奏は無理だ。

そのアクセントについては、また別項で述べたい。

[余談]

ようやく香川県の方に読んでいただけたようです。これで全国をやっと網羅しました。どうもありがとうございます。