井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

音楽療法は効果ありますよ

2013-08-30 20:58:25 | 日記・エッセイ・コラム

今月上旬だが、ある工業大学の研究室紹介のイベントを見る機会があった。

そこで興味を惹いたのが、ある院生の研究テーマ。「自動演奏を自然に聞こえさせるためのソフト開発」である。

自動演奏そのものは随分前に実用化しているのだが、楽譜をそれこそ機械的に演奏させるのでは、聞いていてちっとも面白くない。それをこのソフトが開発された暁には、人間が弾いているような緩急が自動的につけ加えられ・・・ゆくゆくは音楽療法の現場でも用いられるだろう、との説明があった。何でも電子ピアノは年間15万台作られている市場があるそうだ。一方、音楽療法については演奏者が全く不足しているという。

ふーむ、工学系人間の発想を久しぶりに聞いた。一方的な説明を真に受けると、大変夢のある話だ。しかし、その説明に使われた楽曲が、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「熱情」。もうちょっとかわいらしい曲から始めないと、いくら何でも無理でしょ、と音楽屋さんはまず思う。

そして「音楽療法」、これは日本ではまだ厚労省が認めていないので民間療法の一つになるはずだ。

音楽療法の演奏者が足りないから、自動演奏のピアノで、というのはまさに工学系の発想。そして私が半ば当然のように思い出すのは、工学部と医学部を卒業した我が旧友。以前「感動の定量評価」で本ブログでも紹介したあの人物である。

彼に尋ねると、音楽療法は効果があるという。直らなくてもベターライフになるのではと経験的な手応えがあるのだそうだ。彼自身は、音楽や芸術の医療への可能性を信じているとのこと。

診療を音楽で行えるとは考えませんが、欧米では病院でコンサートをやることは、いたって普通のことのようです。成功した音楽家はそのようなボランティアをやることが社会的に要求なのかボランティアなのか、やることが当たり前になっているようです。
医療と音楽を始めとする芸術の効果に科学のメスを入れることが、我々の役目なのかもしれません。また一方で、力を持つものなら何でも使いたいと考えるのが医者なんでしょうね。人類が生まれて以来、音楽、演劇、詩、文学、美術が続いており、常に医療以上に評価されているところからも何か理由があるのでしょう。

と彼は言うが、芸術が医療以上に評価されているってことは無いでしょう・・・。

音符通りに弾いても面白くないように、ヒトが介在する尤度のようなものがある方が心地良いのは以前、神戸で話題になったと思います。工学ではファジー理論なるものがあり、まさにロボット工学などで利用されています。

ファジーは1990年前後にかなり話題になって、その後定着した言葉だから、さすがに知っているけれど、何ですか、これ・・・

「尤度(ゆうど)」

人間を半世紀ほどやってきて、まだ知らない日本語があることに困惑したり感動したり。

尤度関数・・・簡単に言うと「もっともらしさ」を数値にしたものと言えるか?(ちょっと違うような気もするけれど、早い話が説明できるほどには理解していない。)

話を戻すと、音楽以外では写真より絵画、活字より書道のように、「完全なものより不完全なものが好き」なのではないか、とのたまう。うーむ、不完全ねえ。不完全という意識はなかったが。

将来は、新しいプログラム言語などが開発されて、自動演奏ができるのかもしれませんね。(でも人材を育成する方がヒトとして良いのではと思います。) 

最後になって、ようやく我が意を得たり。ロボットの演奏で病気が良くなるとは、あまり想像したくない話。みなさん、聴いて心地よくなる演奏を目標に、がんばりましょうね。


ダースベイダー・マーチ

2013-08-14 00:07:22 | オーケストラ

J.ウィリアムスの「スター・ウォーズ」組曲、高校生の頃、ある時期毎日聞いていた。

こうやって毎日聞いていた音楽のほとんどは、ほどなくして演奏できるものなのだが、この曲はなぜか30年以上の年月を経て、今年ようやく生で聞く機会を得た。さるアマチュア・オーケストラのトレーナーを頼まれ、二回ほど、練習ではあるがオーケストラのナマ音を聞けたのである。これは感慨深い経験だった。

ところで、この「スター・ウォーズ」の音楽は、様々な意味で特別である。

当時、映画は日本で公開されていなかったのに、音楽だけが先に輸入され、爆発的に広まった。

サントラ盤のLPはロンドン交響楽団で、信じられないほど粗い演奏だった。(推測だが、ハリウッドの演奏者だったらこんなことはなかったと思う。ロンドン響にしたのは安くあげるため。)

それに気付かされたのは、次にズビン・メータ指揮ロス・フィルの「組曲」が発売され、それがLSOと違い、俄然磨かれた演奏だったからだ。

このロス・フィルの組曲は、現在演奏されている組曲と内容が違う。

1曲目、メインタイトルはほとんど同じなのだが、終り方が簡素。(現在の組曲はエンドタイトルと全く同じ終り方になっている。)

「酒場のバンド」というディキシーランド・ジャズ風の曲と、「戦闘」シーンの曲が入っていた。

この内容を、高校生の時は聞いていたのである。

現在の組曲は「ダースベイダー行進曲」と「ヨーダのテーマ」が入っている。つまり「ジェダイの復讐」「帝国の逆襲」まで発表された後に編まれた組曲なので、よりオーケストラ・サウンドに酔いしれることができる、はずだと思う。

特に「ダースベイダー」はスゴい曲だと思う。一聴して、あの凶悪な顔と結びつく。この度、生で聞いたのは初めてだったので、そのインパクトはより強烈。

ところで、J.ウィリアムスの曲は、おしなべて易しくない。特に金管楽器の負担はかなりのものだ。難しいのか、と彼らに問うと「とにかくきつい」と異口同音に言う。いくら吹いても耐えられる強靭なアメリカ人を想定しての作品、なのかもしれない。

しかし近年ではアマチュアの奏者でも、かなりのところまで演奏できる。これは本当に日本全体のレヴェルが上がったということで、めでたいことだ。

私が振らせてもらったアマチュア・オーケストラでもかなりの水準の演奏ができていたと思う。たちどころに、あのダースベイダーの凶悪な顔が思い浮かんでくる、すばらしいサウンドを聞かせてもらえた。

あまりに本物の音なので、頭の中ではダースベイダーの心境やいかに、などという、演奏とは関係ないものまでチラついてきた。エピソードIIIにある、ダースベイダー誕生のシーンまで思い出されてきた。

うーん、いかん。こうなると、もうダメだ。振りながら涙が出そうになってきた。テンポまで遅くなってしまった・・・。

早々に練習は切り上げることになる。

いやはや、この行進曲は、私にとって心を鬼にしないと演奏できない、とんでもない曲と化してしまった。

ダースベイダーって、悪役なんですかね? 皆さんはどう思われますか?




上手い伴奏

2013-08-04 08:01:50 | 音楽

これでググると

もしかして「上手い演奏」

と出る。

どこかに「上手い演奏」の定義が書いてあれば、それはそれで大変興味深いが、実際にはそれらしきものは見当たらず、核心部分の周辺をうろうろしているような文が散見されるのみ。

しかし、今回のテーマは「上手い伴奏」である。

実はこれで検索をかけた方がいらして、本ブログがひっかかった、というのがきっかけになる。

なかなか奥が深い話題だ。

まず「伴奏」の有り方が、一筋縄ではいかない。

そもそも「伴奏」とはアッコンパニメントaccompagniment(共に行動する意)の訳語。訳として全く問題はない。主従関係で言ったら決して主ではなく従、それも正しい。

問題はその受け取り方にある。従だから、主につき従っていれば良いような印象を持つ人が多い。これは、敢えて「間違い」と言っておこう。

ちょうど今放映中の「あまちゃん」、KYON2は主役ではないから脇役、だけどKYON2だとか宮本信子だとか薬師丸ひろ子が出るから面白いのだ。だから伴奏はKYON2みたいな主役級の脇役と考えればわかりやすいだろう。(あくまでも2013年的比喩だが。)

さて、ではそれが「上手い」のと「下手な」のとの違いは?

ググった方は、合唱における「上手な」伴奏を考えているかもしれない。合唱の場合、難しいのは指揮者がいない場合(校内合唱コンクールのように形だけの指揮者の場合も含む)だ。その時は、音楽のリードを考えなければならない立場になってしまうだろう。そうなったら、その時点で上手い伴奏であることをあきらめ、ひたすら自らの信じる音楽を奏でることに没頭するよりほかない。

また、声楽と器楽では、上手い伴奏の方法がやや違うところを感じる。

声楽の場合は子音と同時にピアノが出るのを良しとする、という説を聞いたことがある。
これに関して、私はまだよく理解していない。

私が思うのは、声楽の場合はテクストの内容をピアノにも雄弁に語らせるのを良しとする傾向があるのではないかということ。

一方、器楽の場合、特にヴァイオリンの場合は、二人で一つのものを作る意識が随所に出るため、その手段として「溶け合う音色」を理想とする状況がしばしばある。

換言すれば「溶け合う音色」を出せるピアニストは最高なのだが、声楽サイドから同様の意見は聞いたことがない。「きれいな音」というのはあるのだけれど。

では、合唱で「溶け合う音色」を出すピアノが良しとされるか?

幸か不幸か、合唱界からもそのような意見を聞いたことはあまりない。(溶け合わないピアノに対する批判はある。)

溶け合ってしまったら、何のためのピアノ伴奏だかわからない、と思う人もいるだろう。

しかし、と私は思う。

実際に「溶け合う音色」で伴奏してもらったら、絶対美しく感じるはずだ。なぜなら、合唱の理想を「ア・カペラ」(無伴奏)に置く考え方はかなりの支持を得ているからだ。溶け合う音色で合唱とピアノが一体になったならば、「ア・カペラ」同様の美が生まれると思うのだ。

それで「上手い伴奏」の私なりの結論は「溶け合う音色」で演奏できること、となる。

これがなかなか難しいのだけれど、ピアニストの皆さんにはぜひ目指してほしいし、共演側もそれを要求できる見識を持ちたいものだ。