井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

吹奏楽部員の哀しみ

2011-03-23 21:55:00 | スポーツ

春のセンバツが始まっている。

今年の応援では、吹奏楽を使わないことになった。

私は1989年を思い出した。平成元年、昭和天皇崩御の後である。あの時も吹奏楽は使わず、太鼓だけの応援になった。

別に吹奏楽が無くなったからと言って、野球として楽しめないことはない。

ただ、吹奏楽を使わないことが被災者に対する配慮になるのだろうか? そこがどうも腑に落ちない。

実は甲子園、出場するだけで、その高校では一千万以上のお金が動く。同窓会を中心に寄付金がどっと集まる(集める?)。

何をかくそう、野球に全く無関心の私でさえ、母校が出た時は甲子園まで応援に行ったのだ。行くと、入場券を発行する卒業生用の受付があって、「一口○○円です」などと現役女子高生から言われてしまうと、それが正規の入場料の何倍であっても払ってしまうものなのだ。

だから、そんなお金を使うくらいだったら、野球は中止して、全て義捐金に回しましょう、というのならわかる。

でも実際は、野球は通常通り、応援だけ縮小。

高校の吹奏楽部、この時期には3年生がいない。中には手伝ってくれる卒業生もいるかもしれないが、基本的には、ベテランの抜けた、結構不安定な状態というのが通例だ。その苦しい状況の中、何とかやりくりして応援にかけつけているのである。

それに甲子園ともなれば、その巨額なお金が吹奏楽部にも回ってくる。公立高校など、いつまでたっても楽器を買うお金が回ってこないと思いきや、甲子園が決まった途端に、いくつもの高価な楽器が揃ってしまったりする。よし、この期待にこたえねば、と吹奏楽部員も必死にがんばることになる。

吹奏楽以外の事情には疎いのであるが、とにもかくにも高校を挙げて甲子園に懸けているのは間違いない。それを止めさせるには、本来それ相応の理由が必要なはずだ。

吹奏楽を使うと被災者の心情を逆なでするだろうか?

巨額を投じて試合をする方が逆なでするのではないだろうか?

と、少なくとも私は納得いかないところがあるのだが、一方で吹奏楽がない野球も、それはそれで悪くない。私が小学生の頃は無かったと思う。高校の時はあった。いつから吹奏楽は導入されたのかな?

あの、太鼓だけの応援はノスタルジーをかきたてる。玉龍、佐伯鶴城、諫早などという校名は高校野球で覚えたものだ。と、野球が好きでもないのに一応見ていた変な少年だった。

ここでやっと訳がわかってくる。

野球は国技なのだ。野球が嫌いでは、この国では生きていけないから、嫌いでも見なければならないのだ。そこを感じ取っていた少年という訳。敏感なのか弱虫なのか。

国技ということは、日本の象徴でもある。野球を止めるということは、日本を止めることなのだろう。日本のアイデンティティ維持のためにも、野球は続けなければならないのだ。

だから、文部科学省が「ナイト・ゲームは中止してもらえないか」とプロ野球にお願いに行く訳だ。

一方、歌舞音曲は国技に至っていないから、一方的な中止の「命令」が下る。なるほど。

しかし、吹奏楽の応援が被災者の神経にさわるか?

この疑問だけは解けない。



スケーターの音楽センス

2010-10-27 21:18:21 | スポーツ

こんこん様
大変興味深いコメントをありがとうございました。
「曲を聴いたときに思わず体が動くほど気にいった」というのは重要ですね。誰でも、そのような曲で演技すべきだと思うのです。本人が決めたということは、やはりスケーター自身のセンスも問われるのだということが、はっきりしました。

たったこれだけ書いて、約70件のアクセスがあったので、やはりスケート愛好者は裾野が広いですね。
せっかく訪れて下さった方のために少し補則してきます。最初はコメントとして書き始めましたが、段々長くなってきたので、記事の方に変更しました。(あくまで音楽屋さんの立場でものを言いますが、感動を追究するという意味では、フィギュア・スケートとの共通点は結構あって、このような話題は面白いかもしれません。)

感動の正体は感情刺激の積み重ねだと思います。積み重ねは波状に刺激がくることで積み重なり、そのタイミングと量で感動の深さが決まると思います。

フィギュア・スケートの場合、例えばジャンプが決まれば一つ感動を呼び起こす訳ですね。つまり観ている側がジャンプの前に徐々に期待を募らせ、跳んで着氷する瞬間が刺激のピーク、それから次の滑りに無事つながっていくと高揚感が鎮静に向かうというプロセスだと思います。この繰り返しで感動が大きくなっていくことになります。

このような高揚感と鎮静の繰り返し、クラシック音楽にもとても多く現れます。ユヅル君の使った「ツィゴイネルワイゼン」もその一つ。だとするとピッタリ、かと思いきや、大抵はミスマッチになります。それは、音楽の高揚する場所とスケートの見せ場を一致させることがまずできないからです。今回も案の定、音楽が休符に入った(つまり無音状態の)瞬間にジャンプが入ったりして、全くチグハグでした。

では、スケートの高揚感や鎮静度に合わせてオリジナルの音楽を作ればピッタリか、というと、そうでもないのです。劇の伴奏音楽や映画音楽の世界でミッキーマウス何とか、という名前がついているそうですが、実は一歩間違うと滑稽なものになる危険性があります。トムとジェリーを思い出してもらえばわかると思いますが、あのようにピッタリというのは「笑い」を誘う可能性大です。

笑いも感動の一種、スケートで笑わすことができたら、それはそれですごいかもしれませんが、少なくともユヅル君はお笑いを目指しているとは思えないので、とりあえず敬遠しましょう。

じゃあ、何が良いのか。

高橋選手のピアソラはタンゴの親戚(これがタンゴかどうかは何十年も論争が続いた歴史があるので、ここでは深く追求しないでください)、マオー選手が昔選んだ「仮面舞踏会」はワルツ形式のバレエ音楽、というようにいずれもダンス曲でした。ダンス曲は元々躍動感を含んでいるものなので、一番問題が起きにくいでしょう。その線でいくと、本ブログでなぜか人気の「エスタンシア」(ヒナステラ作曲)などは良いかもしれません。

でも、高橋選手がオリンピックで使用した「道」(ジェルソミーナ)はダンスとは言い難いです。しかし大成功でした。なぜでしょうか。

どんな音楽でも、高揚に向かっていく箇所と鎮静に向かっていく箇所があります。これを感じ分けることさえできれば、問題はほぼ生じないと言えるでしょう。

スケートのジャンプの前、滑りとしては単純になりますが、いわゆるジャンプのための準備をしている箇所になります。ここでは絶対、高揚していく音楽でなければなりません。観客は無意識に音楽を聴いています。音楽で徐々に観客の心が高揚していって「ジャンプ」、これは確実に感動します。選手が美しく見えます。

逆に鎮静方向に向かう音楽の中でジャンプしたら・・・スケートとしての評価に変りはありませんが、観客の心をつかむ度合いがかなり減り、美しいと感じる人も減る、ということになるでしょう。選手としても自らを鼓舞するのに、余計なエネルギーを使うことになっているはず。このケース、実は結構多いのです・・・。

高揚か鎮静か、このほんのわずかな曲調の変化に気を配るだけで、ずっとメダルが近づく、私はそう信じています。日本のスケーター達が、早く音楽に敏感になりますように・・・。


祝!NHK杯金メダル

2010-10-25 19:40:30 | スポーツ

バンクーバー・オリンピックと同じことを書くのは気がひけるけれど、相変わらず変っていない事態に、やや物申したい気分なので・・・。

高橋大輔選手の演技は、相変わらず感動的だった。ジャンプを失敗しても素敵だった。ここが重要な点である。その要因に音楽との一体感を挙げたい。

バンクーバーでもそうだったけれど、高橋選手の選曲が良いのだ。それが高橋選手のセンスなのか、ブレーンのセンスなのかは存じ上げないのだが、とにかく良い。聴いて心地よいところに美しい演技なのだから、感動するのである。

一方ユヅルくん、弦を結ぶなどという名前だから、弦楽器奏者にとっては気になって仕方がない存在だ。それで、という訳ではないだろうが、選ばれた曲は「ツィゴイネルワイゼン」。ここで音楽屋さんとしては「アウト」である。ヴァイオリンが名人芸を見せるタイミングとスケートのジャンプ等のタイミングが合う訳がないので、どうやってもチグハグになる。

世界のフィギュア・スケートが「美しいものへ」と、時流が方向転換しているのに、相変わらずジャンプがどうこう言っているテレビ局も問題を感じる。このままだと高橋選手の後を継ぐことはかなり難しいのではないか。

私は日本人の「美しい」スケートを観たいのである。美しいスケートには美しい音楽が不可欠だ、という認識をユヅル君のチームには一日も早く持ってもらいたいものだ。がんばれ、日本!