井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

大在スクエア

2019-10-27 19:49:16 | 井財野作品
2019年11月2日17時頃、宝塚ベガホールで再演されます!

《大在スクエア》という弦楽四重奏曲を昨年作った。「大分の音楽」と銘打って、大分8地区それぞれをテーマに、弦楽四重奏曲を作曲家に委嘱し、それぞれの地域の音楽として末永く愛好してもらおう、という企画だった。

その作曲家として井財野も選ばれ、昨年作曲して、今年の2月に大分市内の能楽堂で初演された。

井財野に頼まれたのは「大在」という地区。もともと大在町、大在村という地域で合併して大分市になったため、独自の歴史がある。

古墳があるから、太古の昔から栄え、稲もよく獲れたらしく、ここだけ肥後の領地だったという。

そして、昭和の御代には「新産業都市」の指定を受け、現在でも海岸には工場が並ぶ。

その工場が、夜には煙や照明でキラキラ光り「大在ディズニー」と異名をとるほど。(しかし、実際に光を放っている工場は隣町のものとのこと。)

現在は、大分のベッドタウンとして、住宅が並んでいる。

という大在地区。正直言って、現在が一番面白みに欠ける。

だけど、それが「音楽」で面白くなったら……という意味で、作曲家の腕の見せどころである。ブランデンブルグやニュルンベルクがドルトムントやアーヘンより興味を惹くのは音楽のタイトルになっているからだろうから。

だからと言って《ニュルンベルクのマイスタージンガー》にニュルンベルクらしさはないから、何か作って「これが大在だ!」と強く主張すれば、それでも用は足りる。

しかし、それでは私が面白くない。

さんざん考えた挙げ句、大在の地図を楽譜に置き換えることを思いついた。

大在の平地の地形は台形をしている。

なので、4音を台形に配置した音形を基本モチーフにして作ってみたのである。

それだけではまだひねりが足りないので、2楽章は《あんたがたどこさ》を引用し、3楽章は《行っちきち見ちきちしちくりぃ》という大分方言を採り入れた。

初演の日は別の仕事がかなり前から決まっており、伺えなかった。
今度も遠隔地につき、簡単に行く訳にはいかないが、お近くの方は、是非聴きに行っていただきたく思います。

宝塚市民合唱祭のゲスト演奏で、大分の「川瀬弦楽四重奏団」が演奏する。
大分市と宝塚市は姉妹都市らしい。なぜ姉妹都市なのかはわからないが、とにかく、川瀬さんが私の曲を選んでくれたことはとても光栄に感じている。

重ねて申し上げますが、都合つく方は、是非宝塚まで足をお運びいただきたく思います。

Society2.9は馬ビジネス全盛だった

2019-10-21 19:53:00 | 日記・エッセイ・コラム
Society3.9で十分だ、などとほざいていたら、今日読んだ本に興味深いことが書いてあった。

1900年頃、ニューヨークには10万頭の馬がいた。
1900年には、ロンドンでタクシーが11,000台、バスが数千台走っていた。
全て馬が引いていた。バス1台に馬12頭使ったようなので、計5万頭以上馬が必要だったことになる。

しかし、その数年後、電化が始まり、内燃エンジンが開発される。

1912年には自動車の数が馬を上回り、1917年、馬車鉄道は全廃された。

馬ビジネス屋さんは、自動車や電車を見て、風変わりな物を作ったな、とは思ったが、何千年も続いた馬ビジネスが終焉を迎えるとは全く思っていなかったそうだ。

歴史は繰り返す。
2.0の馬に相当するものは、3.0では何になるのか。

インターネットとコンピュータ社会に付いていくのは大変だけど、いつまでも馬に乗るのは危ない、ということを思い知らされた感があった。

Society 4.0

2019-10-17 08:24:01 | 日記・エッセイ・コラム
人類が誕生した時を1.0とすると、農耕を始めた時を2.0、産業革命で3.0、そして、コンピュータとインターネットが本格始動した段階で4.0、という考え方があるそうだ。

Society4.0になったのは、おおよそ1990年頃。まあそう考えると、今の時代の波についていけないことがあっても、少しは慰められる。

逆に考えると、1990年頃子供、あるいは生まれていない人達には、4.0は当たり前の世界。30代以上になると、時代が変わっているのをあまり受け入れていない世代、となるだろうか。

そして10~20代だった人達がついていけるかいけないかを問題に考える世代、となるように思う。
かく言う私がその世代。ちょっと上の人達は「時代についていかねば」という意識は希薄に感じる(違ったらごめんなさい。感じるのが良い悪いではありません、念のため。)

ぼんやり考えるのはSociety3.9くらいで十分良かったな、ということ。
しかし、こういうことを言った段階で、もう老人になったのを認めたようなものかもしれない。それも嫌なので、何とかついていくぞ、と自分を鼓舞しているところである。

しかし、あと10年か20年で5.0になるという。いわゆるAIが、本格始動する時代である。

生きているうちにそうなるのか、と思うと、また気が滅入る瞬間がある。

いや、その時は、立派に爺さんになっているので、3.9も良かったとふれてまわるジジイになろうっと。

蜜蜂と遠雷

2019-10-09 20:57:51 | 映画
音楽担当が藤倉大、そして当代一流のピアニストが4人も演奏することを知って、即、観に行った。

さすが藤倉大、ちょっと聴いたことのない類いの音楽が背景で流れている。

そこまでは良いとして、まず注目なのはコンクールの課題曲。カデンツァをコンテスタントが作って弾く設定になっている。
逆に言えば、藤倉大が4種のカデンツァを4人のピアニストに弾かせている。

課題曲本編は4回も聴く訳だから、そのうち覚えるだろうと思っていたら、全然覚えられなかった。予告編を一回見た時の方が印象に残ったという妙な体験になってしまった。

そして、映像化に凝った監督は、誰もやったことがない角度からの撮影、ということで、ピアニストのあごの下から撮っていたり、などという視覚的要素に驚いているうちにカデンツァは終わったりして、とにかく音楽を云々できる状況にはなれなかった。

藤倉大の音楽がすごい、という境地には至らなかったが、映画としてはすごいことである。はたまた、こういう音楽を忘れさせる状況が映画音楽としては理想なのか……。

コンクールを扱っているから、コンテスタント同士が異様な緊張感の中でも友人になっていく様子など、とても懐かしさを感じるところもあった。

一方で「これはないでしょう!」というエピソードもいろいろ。
コンクール直前に登場人物がやる諸事、これがないと物語が成立しない、といういろいろだが、このあたりで、私の気持ちは冷えていったのは確か。

しかし、コンクール本選、ピアノ協奏曲3曲の断片、これでまた熱くなってきた。

いわゆるピアノ協奏曲の勝負曲と言って良いバルトークの3番、プロコフィエフの2番と3番。

10年ほど昔「北京バイオリン」という映画を観た時は「ヴァイオリンはいいなあ」と改めて思ったものだが、今度は「協奏曲は何と言ってもピアノにトドメをさすなあ」と思ってしまった。

俳優さん達も、本当に上手に弾かれる。その昔、加藤剛さんの頃は手を絶対に写さなかったのとはエライ違いだ。

そして、極めつけ(と私が思う)のは河村尚子さんのプロコフィエフの3番。

少し前、N響と矢代秋雄のピアノ協奏曲を共演されていたのをFMで聴いたのだが、抜群の上手さに度肝を抜かれた私であった。

以来注目のピアニストだったが、期待に違わぬ名演を映画で聴かせてくれている。

最後あたり、主人公の心理的葛藤を映像だけで表現しようとしていて、それ自体は感じとれたのだが、映像だけ見てハラハラドキドキは正直言ってしなかった。

でも、河村さんの名演で映画が終わるので、そのような不満は雲散霧消して、良い気分で映画館をあとにできて、それはとても良い。

原作者は映画の出来に驚嘆したそうだが、私は、時間があったら原作を読んで、本来の感動を味わいたい、という感を持った。

自由に弾くか、型に入れるか

2019-10-04 19:02:00 | ヴァイオリン
まず、型に入れよ、そして型から出でよ。

多分世阿弥あたりから来ている言葉、私は当然だと思っていた。
それはまず、自分には型がないと何も表現できなかったからだ。
たまに思いつきをやっても、大抵直されるので、それなら「下手な考え休むに似たり」で、言われるまでは下手に考えない癖がついた。

これが絶対的に良い方法だと言うつもりはない。
しかし、最初から「好きなように弾いていいんだよ」という先生も、まだいるらしい。それも、立派な学歴を持った先生が、そのようにおっしゃったということを最近聞いた。
その生徒さんが素晴らしい演奏をするなら良いのだが、そうでないとなると、やはり首をかしげてしまう。
「先生の役割は何?」

私は、まず型を教えてあげることだと思うのだが。