井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

「理論的に」作るか「感じて」作るか⑤

2016-10-25 23:11:41 | 音楽
今日たまたまモーツァルトの演奏指導をしたのだが、一カ所「ここはVの和音でドミナント、次はVIの和音でトニックだから、ドミナントの方に重さを置いて歌って」と説明をした。

しかし、主となったのは、やはりイメージを伝えるのと、技術的な手段を伝えることだった。
曰く「聞いている人がワクワクするように」とか「はっきりしたアタックをつけて」などである。

これがごく一般的なやり方だと思う。

それに疑問を持たなければ何も問題は生じない。

しかし「私はそうは思わないのだけれど」となった途端、このやり方だけでは辛くなる。

そういう時「理論的な説明」があると、とても納得しやすいのである。
なので、時々上述のようなドミナント云々も説明しておくと効果的だと考えている。

「理論的に」作るか「感じて」作るか④

2016-10-16 07:22:00 | 音楽
西洋発祥の音楽を日本人が演奏する。そこに齟齬が生じるのは当然だと思う。
だから「感じて」と言われて素直に表現できなくて不思議はない。

「自由に歌っていいんだよ~」とレッスンしている先生がいらっしゃった。「そうか」とばかり、適当に思いつくままに演奏している子供を見かけたものだ。
まあ、滅茶苦茶な演奏で、誰からも評価は受けない。

そんな演奏はしたくない。しかし、滅茶苦茶でなくと言われると、何をどうしたら良いのか全く見当がつかない。結果的に無表情な演奏に…。

結論から述べれば、結局大多数の人が「良い」と思う「型」のようなものがあって、その「型」にまず入れること。それが重要になってくる。

その型が「理論的」になって、それを教えるのが先生の役割、ではないだろうか。

「理論的に」作るか「感じて」作るか③

2016-10-13 07:17:00 | 音楽
ところで「理論的に」作ると言えば「バロック音楽」である。
楽譜があまりに簡単に書かれているから、理論的裏付けが無いと演奏できない世界だから、と言って良いだろう。

かつては、その簡単な楽譜を「自由に」解釈して演奏されていた。カラヤンしかり、フルトヴェングラーしかりである。

これを猛然と批判するかのごとく「古楽派」の演奏家達が台頭してきた。
最大の急先鋒はアーノンクールだろう。何だか知らないけれど、古楽派の皆さんは誰もかれもが理論武装して演奏されるので、世間もそれが「正しいもの」と受けとるようになってしまった。

逆に言えば、それ以外は「間違い」という評価、に近い状態になり、一般的なシンフォニー・オーケストラはバロック音楽を演奏できなくなってしまったのである。
それはそれで窮屈な話ではないだろうか…。

「理論的に」作るか「感じて」作るか②

2016-10-10 21:59:00 | 音楽
さて、演奏をする場合「感じる」心は不可欠と、多くの人が考えていると思う。
しかし、この「心」は千差万別、論拠にするには、あまりにも曖昧である。

とは言え、万人が大方感じる、という事象も多くあるのも事実。
30℃は暑く、10℃は寒い。

では24℃はどうだろうか。

夏の冷房ならば涼しく、冬の暖房ならば暖かい。春や秋ならば何も感じないのが普通だろう。

このように「感じる」とはかなり曖昧、しかし状況を限定するとかなり明確にすることができる。

これを音楽に当てはめると、「今は夏だから」と言ってあげるのが先生や指揮者、そう考えて演奏するのが演奏家ということになろうか。

「理論的に」作るか「感じて」作るか①

2016-10-08 08:26:00 | 音楽
日本の西端、長崎でバロックの演奏会をやった。端っこということで、多少気が解放されて、本音トーク炸裂?!だったかもしれない。
以下、その時の雑談から…。

バロック以前の音楽を演奏する時は、必ず理論的な裏付けを必要とする。

普通に考えれば、音楽大学に行って、その「理論的な裏付け」を学ぶのだろうと想像されるだろうが、さにあらず。

「古楽科」のように、それを専門と銘打つているところ以外では、バッハを例外として、バロック以前の音楽はほぼ扱わない。

とは言え、バッハをある程度深めれば、他のバロック音楽は応用範囲内で考えられるだろう。

問題は、ある程度まで深められないこと。

そんなことをしていたら、4年間でまがりなりにも一人前、の技術は身につかない。
理論的なことは、多少後でも間に合うのだ。

で、後で何とかしてくれれば問題ないのだが、どれだけの人が「何とかした」だろうか…。