井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

モーツァルトは難しいか?

2009-02-27 21:01:50 | モーツァルト

 モーツァルトのアヴェ・ヴェルム・コルプスは難しいか?

 4分音符が並ぶだけの曲なので,技術的には難しくないだろう。多分小学生でも弾ける。私が弾く訳ではないのだが,3月末の演奏会のアンコールにどうだろうか,とある人から問われ,「まぁ,前日一回リハーサルしておけば大丈夫でしょう」と答えた記憶がある。

 一方,小学生が弾くのにどうでしょうか?と質問された方がいらっしゃる。 あるヴァイオリンの先生から「こんな難しいの,曲にならない」との答えが返って来たそうだ。確かに小学生のカルテットであれば,止めておいた方が無難。小学生のオーケストラならば,それなりに良いかもしれない。大抵指揮者は大人だし,その場合,指揮者の音楽になるからだ。ちなみに3月末の演奏会も大人が演奏する。

 一体どうなっているの?と思うのも当然だ。

 私の場合,中学生の頃,先生がしきりに「(モーツァルトは)難しいね,難しいね」とおっしゃっていた。私にしてみれば,パガニーニの方が断然難しくて,それに比べれば易しいでしょ?と内心思いながら,その言葉を聞いていた。

 その難しいを連発されていた先生からモーツァルトのレッスンを通算1年数ヶ月は受けたと思う。そんなにやらなければならないということにより,確かに難しいものなのだな,という認識は生まれた。が,一方,さすがに,どう弾けば良いか迷うこともほとんどなくなったので,やはりそれほど難しくは感じなくなったのも事実。パガニーニは未だに弾けない曲もあるから,こちらの方が私にとっては今でも難物。

 という次第で,1年もやれば難しくはなくなる,というのが現在の私の率直な見方である。

 だからアヴェ・ヴェルム・コルプスも,1年もやれば・・・

 とは思わない。正直言って,小学生の室内楽ではやらない方が良いと思う。  小学生が1年やってできるのは,ヴァイオリンならば協奏曲と一部のソナタとオーケストラの曲といったところだろう。

 別の見方で述べれば,モーツァルトが流行歌(?)風に作っていた若い時の作品は何とかなりやすい(協奏曲などです)。晩年,自我が作品ににじみ出るようになってからは,子供立ち入り禁止,と言っておこう。

 モーツァルトの凄みは,アプローチによってどこまでも深い解釈に耐えられる作品だ,ということだろう。これに尽きる。その証拠に同年代の作曲家はハイドン以外みんな消えてしまった。我等がヴィオッティも同年代。消えたとは言いにくいが,ヴァイオリンを弾いていない人にどこまで知られているか…。

 モーツァルトには軽佻浮薄な作品も多々あり,別に本人だって芸術のつもりで作っていないから,それはそれで軽薄に演奏してもバチは当たらないはずだ。多分,大昔はそれで良かったのだと推察する。

 ところが,誰かがその芸術性に気づいた。軽薄な作品を芸術品として解釈すると,ほらこの通り,といった具合。それを聴いた人々は,当世風に言うならば「あれ?モーツァルトってマジでヤバくねぇ?」と思い始める。そうなると,あっちの芸術家,こっちの演奏家がこぞって芸術性を引き出し,その度に聴衆は感動する・・・。

 この感動の記憶が,20世紀の段階でかなり累積しているから,その芸術性を引き出さなければモーツァルトにあらず,と人々は思うようになってしまい,だからモーツァルト(からそれだけの芸術性を引き出すの)は難しい,と人々は口々に言うようになった,と私は推測している。

 だから,それほど深い感動を目的にしなければ,モーツァルトは難しくないだろう。という気持ちでアヴェ・ヴェルムを弾いたら,どこからか石が飛んでくるのを覚悟してほしい。あの曲の間奏までは,若い頃の作風と共通する世界かもしれない。しかし,その後の転調,和声の進行,目眩く陶酔の世界は息付く間もないほどだ。あの緊張の持続は,酸いも苦いも噛み分ける大人にこそふさわしい。

 という訳で,小学生にアヴェ・ヴェルムは難しい。ディヴェルティメント辺りはいかが?


音楽の国境

2009-02-25 18:29:15 | 音楽

 音楽に国境はない,という有名なフレーズがある。
 これは一面で真理,他面でそうではない,ということができるだろう。

 外国人と一緒に音楽経験をすると,誰もがこの片方,あるいは両方を如実に感じるはずだ。

 外国人の演奏に感動した時,逆に日本人が外国人を感動させた時,音楽に国境はない,と叫びたくなる。

 では,音楽に国境がある,と感じる瞬間は・・・。

 音楽に感動できなかった時,というのもあるにはあるが,私の場合,どうしようもない「壁」を感じることがあるのは,外国人と共演して,作ろうとする音楽の方向性が全く見当がつかない時,最も「国境」を感じる。

 我々日本人と接触のある外国人は,それなりのキャリアを積んだ人間ばかりで,そのお国の中では立派に通用している人達ばかりである。技術の優劣が多少あったとしても,音楽作りに関して文句をつけられるものではない。

 と,ここまで書いて気づいた。ここで言う外国人とは欧米人のことである。

 アジア人相手だと,大いに文句を言いたくなったり,実際に言ったことも多々あった。
 この「差」はどこから来るのか?

 と,ここまで書いてさらに気づいた。ここで言う音楽とはヨーロッパ起源のクラシック音楽を中心とするものを指している。

 私の経験だと,シンガポール人と中国人に,そのモーツァルトはちょっと違うだろう,と言ったことがある。なぜ,それほど「偉そうに」言えたのか?

 それは,「本物はこうだ」とか「それではヨーロッパでは通用しない」などと言われながら,ある種の「型」を叩き込まれた結果である。日本人は「本物は…」というフレーズに弱いような気がする。多分,上述のアジア人は本物っぽさよりも,自分が楽しくある方に忠実な気がする。どちらが良いのかは結論がすぐには出ない。

 日本人は,国際的に通用する方に価値を置く人が多いだろう。特に欧米で通用するのが,とても優秀であると刷り込まれている私などは,アジア流モーツァルトは受け付けられない。叩き込まれた「型」が一回でも欧米人に通用したら,これは信念に変わってしまう。

 ただ21世紀,欧米の力がどれほどのものか,新興勢力が新しい価値観を作っていくこともあり得る。なので,これを「価値観」で論じてしまうと,多様な価値観があって良い,で終わってしまうことにもなる。

 一見それでも良さそうに見えるかもしれない。しかし,私の経験からすれば,それはやはり「惜しい」。なぜか・・・?

A)多様な価値観がある
 違う価値観が同時にアンサンブルすることはできない。お互いに「違うねぇ」と思いながら終わる。違うということに対する好奇心は刺激されるだろう。

B)共通の価値観がある
 これをクラシック音楽の場合に当てはめると,欧米で一般的な演奏方法を採るということになる。お互いのいわば「共通言語」で会話をするようなアンサンブルだから,これは楽しい。

 Bの方が楽しいし,感動するのである。言葉が通じなくても音楽が通じる喜びは,何物にも代え難い。喜びのあまり「音楽に国境はない」などと口走ってしまう訳だ。

 この「共通言語」に相当するのが,いわゆる「様式」である。様式を学習することで,最高の喜びが待っているのだから,多様な価値観で終わらせてはもったいない。

 ただ,繰り返すようだが,この「様式」は言語と同じで,時代や場所で少しずつ変化する。全ての「様式」を網羅する訳にはいかない。(その必要もないかもしれないが。)あくまで伝えられるのは,そのうちのいくつかでしかない。そのあたりに躊躇がある。

 だが先頃,全く知らない外国人といきなりアンサンブルをしなければならなかった時,やはり「様式」の把握が大いに役立ち,結果としてとても喜びが大きかったのである。片言でも「共通言語」を話せると楽しいことを実感した。

 という訳で,ポツリポツリと(至極たまに)「様式」について考えることを書こうと思う。


与作とルパン三世

2009-02-01 14:08:46 | 音楽

グラッペリというジャズヴァイオリンを聞いていて、ある時のけ反った。「リトル・スター」というナンバーが、「与作」のサビとほぼ同じだったからだ。

そう言えば、与作を作った人は普段ジャズをやっていた人だという記憶がある。それを知った時は「ジャズをやっていても時々ジャパンテイストが恋しくなるのかな」などと思っていたが、そうではないのだ。与作はジャズでもあった訳だ。

ところで現在、大学は卒業研究の発表の時期。鹿児島の中学校で調査した「和楽器アンサンブル授業」の現状を発表した学生がいた。 配られた資料楽譜を見て、まず吹出した。「ルパン三世」を和楽器アンサンブルで演奏する!

ところが、演奏された録画を見て二度びっくり!和楽器に実にぴったりの曲だったのだ。あまりの違和感の「無さ」に感嘆してしまった。

サックスを篠笛や尺八に、ドラムを太鼓に置き換えるだけで、バイタリティ溢れる和楽器曲になること。それもオリジナルと見紛うばかりの曲に。

和楽器アンサンブルというのは、世間ではまだ一般的ではない。にも関わらず、学校教育では、せざるを得ない状況に追い込まれている。かつての「器楽合奏」に代わる存在と言えば良いだろうか。

その時困るのが曲選び。古典は存在せず、クラシック音楽の編曲では違和感が付きまとう。 それで、民謡やわらべうたの、あるいは「もののけ姫」「涙そうそう」などの編曲にたどり着き、何とか落ち着く訳だ。

ここで問題なのは、全てゆっくりで叙情的な曲であること。短時間なら構わないが、演奏会を構成しようとすると行き詰まる。子供がエキサイトするような音楽は和楽器では無理なのか、と思わせることが多い。

そこに「ルパン三世」。これはいい!という以上に、そういった曲の可能性を示唆するに充分。さらに上述のような問題を個人レベルでとっくに解決されていたことにも感動を覚えた。

ただ、最後の問題が残る。もし外国人が和楽器アンサンブルで「与作」「ルパン三世」と続けて聴いたとする。この2曲は別の曲だと認識できるだろうか…。