井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

ミュージカル映画「レ・ミゼラブル」を観て

2012-12-29 22:32:57 | 映画

ミュージカルとして作られたのは1980年、映画化されるのがこれほど後になった例は寡聞にして知らない。

日本のミュージカルとして「レ・ミゼラブル」が上演され始めたのは1980年代の後半だったと思うけれど、1年半のロングランという例も聞いたことがなかった。断続的に何年も続く例はあったけれど、これは連日、一週間8回の公演が続いていたと記憶している。

ちょうどバブル期、日本のミュージカルが本格的に普及をし始めた感があった頃の話だ。今まで録音を流して伴奏させていたミュージカルが、生のオーケストラを使うようになりだした。そのオーケストラには、多くの知り合いが参加していた。なので私のように直接携わっていない者の耳にも、ミュージカルの世界の話が入ってくるのであった。

中でも「レ・ミゼ~」は文字通り悲惨な話が多かった。

一年半オーケストラでフルに演奏すると、一千万円くらいもらえるのだそうだ。これで、みんな一旦はとびつくのだが、毎日3時間「レ・ミゼ」を演奏、昼夜公演の時は6時間になる、他のことはまるでできなくなると言う。何か他のことをやる体力、気力がなくなるらしい。

その期間にできなくなるだけならまだ良い。一年半経つと、技術がまるで落ちてしまってリハビリが必要になるのだそうだ。社会復帰するのが、また大変。

これではたまらないから、と自衛策の一環で、自分の代わりに演奏してもらうエキストラ奏者を時々頼む人もいる。こうすることで、何とか社会との接点を保てる、ということだ。

これにも問題がある。ミュージカルのオーケストラは演奏料がとても安い。連続して同じことをやる訳だから、まとめてもらえば何とか、という金額で、一回当たりに割ると、とても引き受けられるような金額ではないのだ。しかし、それではエキストラは頼めない。比較的オーケストラ相場に近い金額でお願いして、頼む側が差額を負担するはめになる。

ああ無情、ミゼラブル・・・。

しかもお話がお話なので、なおのこと観に行く気にもならず、今日にいたった次第。

その数十年の間に、数曲はオーケストラで伴奏することもあった。テレビで聴くこともあった。いずれにしても、曲だけ聴いて「すばらしい」とはあまり思わなかったのが、正直なところである。

それがいよいよ映画になった訳だ。それでも、そう気が進まないところも無きにしも非ずなのだが、知らないのも気がひけるということもあり、思い切って観にいった訳だ。

観てびっくり!

まず、知っていたと思っていたのはあくまで最初のエピソード「銀の燭台」の部分のみで、その後にこらように壮大な物語が待っていることを知らなかった。

次に、その壮大な物語を大胆にカットすることもなくミュージカル化されていたことに驚いた。しかもミュージカルと銘打ってあるが、セリフはあまりなくてほぼ歌でつながれているから、これは実質「オペラ」だった。音楽もポピュラー系の要素は少なく、クラシック音楽を継承していた。

そして、全員歌がうまい!

聞くところによると、特にミュージカルを多くやっていた人だけではないらしい。私などはこれだけ歌がうまいと悪役でも善人に見えてしまう。

正直言って、やはり音楽が「ミュージカル」として群を抜いているとは思わない。音楽そのものは「ウェスト・サイド物語」「マイ・フェア・レディ」の方が上をいっているとは思う。

が、ずっと音楽が鳴り続けているミュージカル映画は久しぶりに聞くが、つまらない箇所が無かったのは立派。とにかく細部もしっかり書けているのはすばらしい。

「シェルブールの雨傘」が、ずっとジャズが鳴っているのだが、やはり時々無理を感じた。他のミュージカルはセリフの部分で音楽が休みになる。ずっと音楽をつけなければならないのは「オペラ」なのだ。

作曲者のクロード・ミシェル・シェーンベールはアーノルド・シェーンベルクの弟の孫だという。本当はシェーンベルクもこういう音楽を作りたかったのではないか、とどうしても思ってしまう。果たせぬ夢を末裔が実現した・・・と勝手に想像する楽しみも同時に味わえて、大いに満足して映画館を後にしたのであった。


すぐに忘れる女、なかなか覚えられない男

2012-12-21 22:49:12 | 音楽
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その代わり、すぐに覚える女であり、一度覚えたら忘れない男でもある。

どちらかが良いわけでも悪いわけでもないし、逆のパターンも存在する。

なので、このように類型化する必要はないはずなのだが、数日前からこの問題が頭から離れず、今日に至っている。

事の始まりは、ある学生のレッスンから。

多くの曲を準備しなければならない状況があり、その中のいくつかは、こちらが弾いてみせて要領をつかんでもらった。(そこまでは普通の話。)

いくつかは以前に弾いたことがある曲。

「やってて良かったね。ちょっと弾いてみてごらん。」

「あ、練習していないので弾けません。」

「いや、別に完全な演奏をしろという訳ではないから・・・」

「いえ、弾けません。」

無理やり弾かせたら、本当に弾けないことがわかった。え゛っ?

「これ、難しい場所で先生が何回も練習させたところですよね。」

正直言って、それは忘れていたが、難しい場所というのは一目瞭然の箇所である。

「今、どのくらい弾けるか、やってみてごらん?」

「いえ、練習していないので・・・」

「いいから」

「えーと、このくらいのテンポでしたっけ」

と、倍ゆっくりひょろひょろっと弾いたら止めてしまった。本当に弾けない。

ちょっと待ってくれ。これでは、何のために様々な曲を練習させているのかわからない。全く役に立っていないように見える。

「いえ、役に立っています!」

とその学生は主張するのだが、私には全くわからない状況が生じているのである。

彼女の説明では、やったことのある曲であっても、常に弾いておかないと忘れるらしい。
私はアルツハイマー病の患者を前にしているような錯覚に襲われた。

逆に彼女にしてみれば、知っている曲を楽譜も見ずにサラサラ弾く私の方がすごいのだそうだが、一般的にはそれを「レパートリー」と呼んでいるはずで、それができない人はレパートリーが無いことになる。

では彼女のレパートリーは何なのだろうか、と思い、矢継ぎ早に問いかける。

「愛の挨拶は?」

弾けない。

「ボッケリーニのメヌエットは?」

「どんな曲でしたっけ?」

「ゴセックのガボットは?」

たどたどしく弾くも、やはり覚えていないのがはっきりわかる演奏だった。
おいおい、全部「梅鶯林書 鶯の巻」に載っている曲だぞ。
初心者の2年生が弾く曲だよ。いつもアシスタントとして教えて回っているはずなのに・・・。

一体どうなっているのか。

すると彼女、

「先生が男だからではないですか?」

と、珍説が飛び出した。

曰く、例えば彼女のお父さんは音楽好きで、彼女より遥かに曲にも詳しく、オーケストラの曲でも鼻歌で歌えるが、彼女自身は歌えないという。

また、別の授業で「名曲クイズ」的なことをされている男の先生がいらして、でも女子学生はほとんど全く曲を当てることができないらしい。唯一の男子学生が、一番の物知りで、一人で答えているとのこと。

女性の知り合いでも、様々な曲を知っていたり歌えたりする人は何人も知っているから、即それが性別に関わってくるとは思わない。

一方で女流ヴァイオリニストの事例を二つ。

某オーケストラのコンミスを務め、数多の曲を演奏したことがあるはずの先輩。ある時、オーケストラの様々な曲をミックスした編曲を渡されて弾いた、リハーサルの時の話である。

「これ、何だったかしら」「これは何だったかしら」って言いながら弾き続けるんだけど、ついに一曲もわからないのよね。

と、その編曲者が首をかしげていた。ちなみにこの編曲者も女性なのだが。

もう一人は後輩。演奏旅行の最中、ホテルの一室からメンデルスゾーンの協奏曲を練習している音が聞こえてくる。よほど余裕がないと見えて、オーケストラの練習の合間、いわゆる隙間時間でも「メンコン」を練習しようとするが、すぐにつっかえるのである。暗譜では弾けないらしい。たまりかねたチェロの先輩「おい、メンコンだろ?そんなんで大丈夫か?」と声をかける。ちなみにそのチェロの先輩は男性だった。そしてメンコンであれば、暗譜を忘れることは私にはあり得ない。

どちらも20年以上前の話。前者は現在もコンミスを続け、某音大の教授でもある。後者はベルリンに本拠地を構えるオーケストラの団員にその後なった。

要するに二人とも一流の、しかも日本を代表すると言っても過言ではないヴァイオリニストになっているのだ。

常日頃「上達は記憶だ」と、私は説いている。覚えていないのは上達がないのとイコールだ、というのが持論のはずなのだが、一方で「記憶」とは疎遠の方々が一流のポジションにいらっしゃる現実が、私を混乱させるのだ。

この現実をも知っている以上、「ゴセックのガボットも弾けないようでは」とは言えない。

私など、例えばオーケストラの曲を鼻歌で最初から最後まで歌えるのは少なくみても200曲はあるだろう。別に自慢するほどのことではなく、そこら辺の中学生でもできることだ。現に、中学の頃、吹奏楽部の先輩達がチャイコフスキーの交響曲第4番のフィナーレをずっと歌いながら町を歩くのについて歩いていった経験もある。(その頃私はそれを歌えなかったのでよく覚えている。)

でも、上述のお二方はできなさそうだし、下手するとゴセックのガボットも弾けない可能性がある。

それが全く問題にならない現実の前に、私は何をしているのか、正直わからなくなっている。教えても教えても、片端から忘れてくれる学生達。こういうのを教えていると言ってはいけないのではないかとすら思えてくる。

ただ、救いは、言葉の方は何回も言うと覚えてくれているようなのだ。以前にも「念仏効果」として書いたが、とりあえず覚えている言葉があるようで、私が以前に言った言葉が、そのままオウム返しに出てくることがある。

なので、私の教育行為、全く無駄にはなっていないのだろう。

ただ「こうするべきだ」と知っていても、それが行動に現れているとは言えないことも多い。

知っているのならば、ぜひそれを実行に移していただきたいものである。

そして、音楽そのものもぜひもっと覚えておいてもらいたいものだなぁ、というのが本音かな。


理想のレッスンを追究して

2012-12-14 00:17:05 | ヴァイオリン

中学生の時、ブルッフの協奏曲の第2楽章の出だし一音を何回もやり直しさせられたのを良く覚えている。後で書き出してみたら7種類の注意を受けたことになっていた。今考えると、7種類注意を思いつく先生も大したものなのだが、当時の私は、これにうんざりしていた。

その後、大学にはいる訳だが、当然のようにいろいろな先生の「品定め」みたいなことをやる。しかし、音大生の分類は極めて大雑把。「細かい」か「自由にやらせてくれる」かの二分法であった。

その時、初めて知る訳だ、細かくない先生の存在を。

そう言えば、その「細かい」先生は、いわゆる「自由な」先生を評して「それはレッスンではない」と断じていた。それは、レベルの低い先生の話だと思っていたのだが、音大の先生でも、そのような先生がいるということが新発見だった訳だ。

他にどのような先生がいらっしゃったか?

大学2年の時に着任された浦川先生、当初はレッスン時間がべらぼうに長くて一人2時間かかっていた。一方の田中先生が30分できちっと終っていたのと好対照だった。

2時間も何をされていたのかよくわからない。シュラディークをさせられていたのは聞いていたが。

ただ、その頃の「音楽の友」誌上のインタビューで「名教授と言われる人は、少ない時間で最大の効果をあげているときくので、反省しています」とかわいい発言をされていたので、それが良いと思っていたのではないことがわかる。事実、数年後には1時間のレッスンになっていた。

この「少ない時間で最大の効果」という言葉が、私をずっと拘束し始めたのである。これが理想かもしれない、と。

ピアノの故安川加寿子先生のレッスンは、極めて即物的だったとピアノ科の学生からきいたことがあった。「ここは短く、そこは長く・・・」

なぜそうなのかがちっともわからなかったけれど「その通り弾くと、かっこうがつくのよねぇ」とのこと。その後、しばらくしてわかったのは「おとなしい先生だと思っていたの。そしたら、ある時フランス人がレッスン室にはいってきた時ね、先生突如フランス語でまくしたてるの。すごいおしゃべりなのよ。要は日本語が話せないみたい。」

一瞬、そのピンポイント表現法に心動いた私だったが、これが理想ではないことがはっきりしたと言えるだろう。

その安川先生の後輩にあたる田中先生は・・・

君が何も考えていないみたいだから、一応全部ああだこうだと言っておくけれど。

(いえ先生、自分なりに考えたら全て否定されまして、それならば下手な考え、休むに似たりかと思った次第で。)

自分でいろいろ考えて、これ以上考えられないところで「いかがでしょう?」というものを持ってくるのが大人のレッスンではないか?

そして、それがおかしければ指摘するし、おかしくなければ何も言わない。

(ほとんどおかしかったようで)

その方法が、君が考えた結果良いと思うことなのならば、こちらは「悪趣味だな」と思って黙って見ているだけだけど。

この方針は、現在私は継承しているのだが、なかなか大人のレッスンというものはできるものではない。少し大人になったかなと思って、考えさせてくると「悪趣味だな」を連発するはめになるし。

一方、何も教えていなさそうなチェロの先生もいらした。その先生は、まずご自分の演奏の録音を学生に渡すそうだ。その昔、N響と演奏したドヴォルジャークの協奏曲のカセットテープである。これは本当に上手いらしい。

そしてレッスンは「自分の音をよーく聞いてごらん?」でおしまい。

これはレッスンだろうか?

同じチェロの斎藤秀雄先生の講義録では「高校生までは7割教えて、残りを考えさせる。大学生になったら逆に3割教えて、あとは自分で考えてこいと言う」となっていた。

このあたりが理想かもしれないと思う。

しかし私が教える大学生は、7割教えないとあさっての方角へ歩きだすものが大半である。

第一、バックボーンたる知識がまるでない。

しばしば例えに出すのだが「鰻の蒲焼の味を説明するとしたらどうする? アナゴを知っているならまだしも、醤油の味さえ知らない外国人に説明できると思うか? 」

食べれば一発でわかるのである。

音楽でも、ブラームスを聞いたことのない人にブラームスの演奏法を教えるなんて、上述の醤油の味を知らない外国人に蒲焼の説明をするようなものなのだ。とにかくブラームスを知らないならまず聴け。聴くだけでわかることは山のようにある。話はそれからだ。

まずよーく聴いてごらん。

あれ? 私、さっきのチェロの先生と、もしかして同じ?



結構不評なピアノ伴奏ニューアレンジ

2012-12-10 23:50:36 | ヴァイオリン
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クラシック系の楽譜出版社、以前は十年一日のごとく百年前からの同じ版を、繰り返し印刷して売っていたりしたものだが、最近はかなり工夫して新版を出して、何とか買ってもらう努力をしているように見える。

その一環だと思うが、原典版を出す際に、ピアノ伴奏譜を新しい編曲にするケースが増えてきた。

私は基本的にその試みに対しては歓迎だ。これまでの版は、ロマン派の時代に編曲されたものが多く、現代的感覚からすると音が厚すぎる場合がほとんどだからだ。

と思っていたのだが、そう思っていない人も結構いることを最近知った。

「何、あのショーソン(詩曲)!」

「ベーレンライターのベートーヴェン!」

「そうそう。何、あのつまんないやつ。」

「そう! だから私、音を一杯足して(ピアニストに)やってもらっているの。」

「私も!」

特に仲が良いとも思えない先輩達が、この話題で盛り上がっているのを黙ってそばで聞いていたのだが・・・。

旧来の版は、何も考えずに弾くとピアノの音量がヴァイオリンをはるかに凌駕してしまうことが多い。これを、そうならないように演奏するにはピアニストにかなりの技量とセンスが必要だ。

皆さんよほど良いピアニストとしかお付き合いないのか。はたまたかなりピアノも弾けるということか?

そんなことはないだろうと思う。

よく見ればわかるが、例えばショーソンのピアノパートは、相当難しい。この編曲は恐らく作曲者自身と思われるので、他人が新しい編曲をすること自体、勇気のいることだ。

新しい編曲は、音をかなり少なくしたすっきりしたもので、これならピアニストにも頼みやすい、と思ったのであるが、長年親しんだ響きと違うのには、随分抵抗を感じる、ということなのだろう。かわいそうなヘンレ社。

しかし、時代は21世紀。こんなことを言っているのも今だけかもしれないな。