井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

サイトウ・メソード・フォーエバー②

2017-09-30 09:53:25 | 指揮
現在、東京芸大の指揮科の専任ファカルティは全員桐朋学園大学出身である。桐朋と言えばサイトウ・メソードの発祥地、センターのはずなのだが、知人の情報によると「叩き」などは教えていないという。

再び勝手な推測だが、斎藤秀雄先生の弟子は徹底的な訓練を受けているから、その弟子(孫弟子)には同様の訓練を施す。
孫弟子はその訓練を受けるけど、世間では必ずしも受け入れられていない現実を見たりして、「サイトウ・メソードでなくてもいいんじゃね?」と考え、その弟子(曾孫弟子)には、叩きなど教えない。
曾孫弟子(今世紀の学生さん達)は、もちろん「叩き」の重要性などわかるはずもなく、ひたすら「指揮は難しい」と暗中模索の日々を送る。

ということではないだろうか。
それで、ひたすら音楽作りの追及をするのであろう。

良く言えば、これはヨーロッパの方式に表面上似ている。

しかし、ヨーロッパ方式には、その裏に歌劇場のシステムがある。コレペティトゥールをやりながら指揮者としての訓練を積む方式と表裏一体となっていることを忘れてはならない。(続く)

サイトウ・メソード・フォーエバー①

2017-09-28 22:32:00 | 指揮
ある若い指揮者が、様々な悩みを抱えながら頑張っている様子を偶然知った。

悩まない人はいないから、それだけだと当然なのだが、どう合図を出すべきか、みたいな話になると、私の頭の中に疑問符が増える。

サイトウ・メソード、山田一雄メソード、いずれも「叩き」という打法を一番の基礎におく。続く拍の点が常に予測できる振り方のことである。
昭和20年代から50年代くらいまでに訓練を受けた人達は、ほぼ例外なくこの「叩き」を何カ月もやらされたものである。

ところが、実際オーケストラを指揮すると、この「叩き」が全く不要、どころか、かえって邪魔になることに気がつくのである。

そして、「叩きは使わないから教える必要もやらせる必要もない」という指揮の指導をする人達が現れたようである。

そうだろうか。

確かに、この訓練は日本独自のもののようである。

しかし、私に言わせれば器楽の「ロングトーン」はほとんど使わないから、訓練不要と言っているのと同じに聞こえる。(続く)

クラシック音楽としてのラプソディー・イン・ブルー

2017-09-22 07:16:00 | 音楽
クラシック音楽を演奏する場合、どういうことをまず考えるか。

それは「様式」だろう。

現代の考え方の主流は「作曲家がどう考えたか」をまず演奏に反映させる、というやり方である。

ガーシュインのラプソディー・イン・ブルーの場合、死後半世紀近く経ってから、本人が演奏したSP盤やピアノロール(自動演奏装置の一種)が公開され始めた。

それが衝撃的だったのは、テンポが異様に速かったこと。
その頃の一般的な演奏はカットして20分くらいだったのだが、ガーシュインのピアノロールはカットしないで15分を切っていた。

もちろん、ピアノロールに記録できる時間の長さの関係もあるだろう。
しかしSP盤も16分くらいだったと記憶している。

これが、ガーシュインの想定していた音楽だ。

だから、このくらい速いテンポで演奏すべきだ、というと、それはそれで早計だと思う。

もっと味わい深い音楽のはずだ、とレナード・バーンスタインは考えたに違いない。特にホ長調の部分(5番目のテーマとでも言えるだろうか)、冒頭の2小節をガーシュインの想定より倍ほどゆっくり演奏して録音している。
これが高い評価を得て、1960年代以降は絶対的なスタンダードになってしまった。ほとんどの人は、楽譜を見ると驚く。なぜここからテンポが倍速くなるのだろうと。

ただし「テンポを倍速く(あるいはゆっくり)したのはバーンスタイン」これは推測である。バーンスタイン以前で、自作自演以外の録音を聞いたことがないので。

私が言いたいのは、そのくらい研究して演奏に臨んでほしいということである。これが即ち、クラシック音楽に接する態度であり、それを要求するこの曲はクラシック音楽であるという論拠の一つにもなっている。

ラプソディー・イン・ブルーはクラシック音楽②

2017-09-18 19:17:00 | 音楽
ジャズとして演奏されたこの曲、演奏は素晴らしいのだが、同時に違和感も感じた。

かつてバーンスタインは「テーマが終わると、リストやチャイコフスキーや彼らの友人達が堂々と入ってくる」と自著の中で表現していた(音楽のよろこび)。

確かに、テーマは十二分にアメリカ的でジャズとクラシックが融合しているのだが、つなぎになると途端にクラシック音楽でしかない。

だから、そこをジャズにしたオゾネ氏の演奏は、その意味において理想を実現したのかもしれない。

しかし、ここで感じた違和感は何か。

それは、ジャズの中でのスタイルの違いである。

今考えてみると、ガーシュインの時代はジャズが生まれてせいぜい数十年というところ、ジャズとしてはかなり初期のスタイルと言えるだろう。
一方、オゾネ氏のソロは、その後のジャズ音楽の発展を反映させた21世紀のスタイルと言っても良いかもしれない。

クラシック音楽で言えば、その昔クレーメルが演奏したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のシュニトケ版カデンツァみたいなものだろうか。

ベートーヴェンが古くさいと思われる向きにはシュニトケが新鮮で面白く感じ、ベートーヴェンを中核で考えればシュニトケは違和感の塊になるだろう。

私はガーシュインが好きで、後世のジャズのビバップとかモダンジャズとかはさほどでもない。むしろリストやチャイコフスキーやその友人達の方が好きなのだろう。
バーンスタインは批判的だったけど、私はその友人達の部分も含めて好きなのだということを再認識した。

オゾネ氏には申し訳ないが、やはりガーシュインはクラシック音楽として演奏してほしいというのが正直なところだ。

ラプソディ・イン・ブルーはクラシック音楽①

2017-09-16 17:05:39 | 音楽
②をアップしようとした途端、どういう訳か①が消えてしまいました。
なので、多少簡略化して再度書きます。

私はこの曲が大好き。

先日スラットキン指揮デトロイト交響楽団の演奏が放送された。アメリカンサウンドが素晴らしい演奏だった。

スラットキンとピアノソリストのオゾネ氏の対談が挿入されたのだが、スラットキンの
「ラプソディー・イン・ブルーはクラシック音楽だと思うか」という問いに対してオゾネ氏は
「今はクラシック音楽だと思う」と答えていた。

実際の演奏は、ソロ部分が見事にジャズ音楽化されており、さすがオゾネ氏という感じだった。