以前は「クリスマスの音楽って名曲が多いなあ」と感心していたものだが、ここ数年、段々飽きがきてしまった。またこれか、というやつで…。
大体、イエス・キリストは12月25日には生まれていない。ゲルマン民族が冬至のお祝いをしていた習慣にぶつけたところから由来する誕生日だ。
どうせなら夏至にぶつけていただきたかった。6月の休日は、子供の頃から切望しているのに、実現しない。
来年から始まる「山の日」は8/11だ。6月にはできなかったのだろうか…。閑話休題。
そのような中、クリスマスコンサートと銘打って、バッハのモテット4曲を演奏するものがあったので足を運んだ。キリストの降誕を祝う訳でもなく、直接神様を賛美するのが良い、などということを考えていた訳ではない。
メンバーの中に、その昔私がヴァイオリンを教えたことのあるテノール歌手が含まれていたからだ。彼の歌声を聞いてみたかったのが直接の動機。
モテットは通常合唱で歌われるが、今回は重唱、それに通奏低音としてチェロとオルガンが加わっていた。二重合唱を指揮者もなく八人で歌うのだからすごい。
両端にソプラノ、音域順に並んで内側が低音なので、両ソプラノは10メートルくらい離れて歌うことになるのだが、通奏低音まで含めて全員が、ほとんど第一ソプラノの息遣い(時々チェロの弓)で合わせていた。練達者の成せる技である。
二重合唱特有のアンティフォン(交唱)に身を委ねるのは心地良く、聴衆の頭が一斉に左右に動くのも、このような曲ならではのこと。なかなかにして愉悦の一時であった。
ただ、もう一歩踏み込むならば、内声の動きに更なる積極性があると神的領域に迫れると思った。弦楽四重奏もセカンドヴァイオリンとヴィオラがどれほど活躍するかで面白さが変わるのと同じ理屈だ。
そのあたりが完璧なのは、モテット曲間に演奏された無伴奏チェロ組曲第一番(演奏:鈴木秀美)。楽章間の間をあまり空けず、一気呵成に弾かれたのだが、拍手は一番長かった。これが聴衆の素直な反応だと思う。
テノール歌手に内声という意識を求めるのはなかなか難しいだろう。でも、近い将来そのような演奏も出てくるのではないだろうか。
またクリスマスにモテット、やってほしいものだ。
今月始め、広島大学の定期演奏会というものに、半ば無理やり参加させてもらった。いわゆるサークルの定期演奏会ではなく、授業の延長線上の催しで、第41回ということなので、かなりの伝統を持っている。(かつて開かれなかった期間もあり、実際には60年以上前から開かれていたそうだ。)
ことの発端は、私が面倒を見ている学生が「よそでも演奏したい」と言いだしたことからなのだが、私自身も以前からかなり興味を持っていたのは確かだ。
教育学部で、まともなオーケストラの授業ができているところは、今や全国に10前後しかない。
オーケストラはパートによって、あるいは職務によって、負担や責任が全く異なる。必要とされる能力もかなり異なる。
その異なる同士が力を合わせて一つの音楽を作る。
これこそ、様々な異なる能力をまとめなければならない音楽の授業の最高のモデルで、本来全大学にあるべきなのだが。
その貴重な存在、成立させるだけで大変なはずなのに、演奏した曲はというと、幻想交響曲だ、レ・プレリュードだと、かなり難しい曲の名前ばかり挙がってくるので、一体どうなっているのだろう、という興味があった。
今回の曲は、フィンランディアと新世界。断っておくが、教育学部の授業のオーケストラというのは、大半が大学に入学してから楽器を始める初心者集団である。彼らも二言目には「副科のオーケストラですから」を連発していた。
それは百も承知。その初心者集団が、フィンランディアはともかく、新世界をやる!?
正直言って、演奏水準の点では全く期待していなかった。そこをどこまで切り抜けていくのか、という様子を見たかったのだ。
ところが、予想に反して、演奏水準は結構高かった。立派に一般的アマチュアオーケストラのレベルに届いていた。これはショックだった。
私は、弦楽器が難しい曲は基本的に取り上げない。なので、今年はホルストの木星やラヴェルのボレロをやったけれど、両方とも弦楽器はかなり易しい。実質数カ月の授業では、これが精いっぱいだろうと思う。
一方、広島大学では年間を通した授業が開かれ、学生が自主的に週1回のパート練習をしているという。これが大きい、と彼らが言っていた。
なるほど、私のところの4倍以上の時間をかけて練習すれば、ここまでできるということか。
驚いたのはこれだけではない。
この定期演奏会、最初に吹奏楽があって、次に合唱があって、最後にオーケストラなのだ。
私の隣のヴァイオリン学生は、その前アルトを歌い、そのまた隣のヴァイオリン学生は、最初にサックスを吹いていた。
管楽器専門の学生も、余ってしまったら弦楽器をやるのである。
これはさすがに、それだけの楽器を保有している大学でしかできない芸当だ。
ここで思い出されたのは、かつていらしたハヤカワ先生のこと。
東大管弦楽団に所属されていた時に、全ての楽器を演奏経験したと聞いている。
そして、東大を卒業されると芸大の作曲科へ進まれた。
ところで昔、指揮者の故岩城宏之さんが「芸大を出てから東大に行くなら凄いけど、東大出てから芸大に行くやつは○○」みたいなことを、あちこちでおっしゃっていた。
少なくとも昔は、東大出て就職先が無いことは考えられなかった。そして芸大出て就職できないのは昔も今も変わらない。
そう考えると、何を好んで芸大へ、というのは当然の考え方である。
が、この期に及んで、このような場所の先生としては最高の人材だと言うしこないことを悟らされた。
学校の音楽の先生は何でもできるのが理想型だ。となると、その理想をさらに追求していくと、東大も芸大も出るというのが究極の姿になる。
それの後代の学生への影響はさすがに大きい。東大と芸大を卒業する意義を改めて深く考えさせられた体験だった。
例えば英語教育。英文を英文で要約せよ、などという問題を、大して読めない自分も含めて、数人で点検をするのである。
一応読むと、グーグル翻訳について、そのチームのオックという人のコメントを取材したものだった。
911の時にアラビア=英語のトランスレイターがいなくて、アメリカでは往生したらしい。そこから翻訳開発は急務になる。
やはり親戚同士のような言語、例えばセルビア語とクロアチア語みたいなものはかなり精度を上げられるけれど、アラビア=英語みたいなものは、まだまだとのこと。
最後の方に、インタビュアーが「それではいつか通訳者がいらなくなる日がくるのか」と問うと「オー、それは20年後か、いや50年後、いやいや500年後かも」
と、日本語ならば要約できるのだけれど…。
「そもそも国語とは何を教える教科なのか」とは国語教育の問題文。
例えば数学や音楽など、絶対国語教育ではないというものを除いていった残り、と消去法で考えた方がわかりやすい、とあった。
そして、まず他教科では取り上げられない「文学」が、読本の教材として主流になった…。
こんなことが問題になる分野なんだ…。
家政教育の食物学、「○○という料理を、テクスチュアまで含めて解説しなさい。」
食べ物のテクスチュア?!
ピアノ曲と室内楽曲やオーケストラ曲で、テクスチュアという言葉を時々使う。主に声部が絡み合うときに、テクスチュアが明瞭だとか透明感があるとか表現する訳だが、率直に言って、問題点を指摘する時にしか使わないような言葉だから、ちょっとドキッとする訳だ。
その場にいらした家政教育の先生に、これは何かと尋ねたら、知らない、と言われてしまった…。
が、すぐに携帯電話で調べてくれてわかったのは「舌ざわり、噛みごたえ」、いわゆる食感のことらしい。
そうか、それを文章で説明するのは難しそう。
音楽を料理に例えることは時々ある。楽章で構成されるのはフルコースの料理みたいだとか、テンポルバートは砂糖みたいなもので、入れりゃいいというものではないとか。
そしてdolce(甘く)は立派な音楽用語だ。
では、その逆はあるのか?
このレタスにこのドレッシングだとサンサーンスのテクスチュアのようでとても良いとか、この煮物の味付けではモーツァルトとワグナーのテクスチュアが混在していて良くないとか…
…ある訳ないよな。
問題点検が終わると、事故が起きない限り、超ヒマな仕事なので、こんなことを考えてしまったのであった。
私が口をはさむ立場ではないのだが。
先日放映されたチェコ・フィルの演奏会は驚いた。
30年くらい前によく聞いたビェロフラーベックも懐かしかったが、どうしても女性のドレスばかり、目が追うはめになる。(実演だったら、もっと音楽を聞いたのだろうが。)
男性は全員燕尾服なのに、女性のドレスはバラバラだったのだ。
正確に表現すると、上下で白か黒を組み合わせているところまでは統一されている。
燕尾服に合わせる場合は、通常上下黒のロングドレスで、打楽器等はパンツスーツもある。
ところがチェコ・フィルの場合、トップ・サイドの女性は上下白のウェディング・ドレス状態。隣のセカンド・ヴァイオリンのトップも同様。そうすると、ほかはどんなかそればかりを追ってしまうのだが、上下黒、白ブラウス黒スカート、という日本でもなじみのスタイル、黒ブラウスに白スカート、白いドレスに黒いサッシュのようなものを巻いた人など、なじみのないスタイルまで様々。
これも、慣れてしまえばどうということはないのかもしれないが、最初は驚かざるを得ない。
オーケストラの服装は時々問題にされる。
多分、バブル景気の頃、女性のカラードレス着用が始まったように思う。
これがどこからか支給されるのであれば、問題は少ないのだが、個人で調達する場合がほとんどなので、色彩の指定が難しい。
なので大抵は個人任せ、ふたを開けてみなければどうなるかわからないが、どうなっても気にしない、というのが大抵の主催者のようだった。
気にされた方もいらっしゃった。曰く「服装がバラバラだと演奏もバラバラに聞こえる。」
なるほど、それもそうだ。「色をつけるなら赤なら赤、青なら青で統一した方が良い。」
実際、そういうオーケストラもある。これが一つの理想。
ただ、カラードレスの狙いは「華やかさ」であろう。もう数色ほしいところかもしれない。
ところで、人間の目は、4色を超えると、同時には認識できないそうだ。そう考えると、ドレスの色も4色以内で考えた方が良さそうだ。黒を色に入れると、赤青黄色の三原色・・・これは目がちらつくだけで気持ちの良いものではないな。
そこで思い出したのが、アンドレ・リュウ率いるヨハン・シュトラウス管弦楽団。あれは白っぽい中間色で、3色くらいにまとまっていたような気がする。
結局、これが理想のカラードレスかもしれない。さすが、アンドレ・リュウ!