井財野は今

昔、ベルギーにウジェーヌ・イザイというヴァイオリニスト作曲家がいました。(英語読みでユージン・イザイ)それが語源です。

メンタル面を強くするには

2013-07-28 22:49:24 | うんちく・小ネタ

この時期、こういうことを聞かれることが多い。精神科の専門医でもないのに。

それは、このような質問の形態をとっているけれど、早い話が「本番をうまく弾くにはどうすればいいの?」という質問だからである。練習ではうまくできているのに、本番になるとうまくいかない、どうすれば良いのか、という質問と同意なのだ。

そんなこと私が聞きたいよ、と言いたい気もするが、さすがに経験を積むと多少物知りにはなっている。

そのためのいろんな方法を聞いたことがある。

1.深呼吸をする。

2.冷たい水を飲む。

3.お客さんはカボチャだと思え。

4.アガッていることを楽しもう。

5.本番前に30秒以上瞑想をする。

6.「私は神様の僕です。どうぞ神様、私を通して神様自身の音楽を奏でて下さい」と祈る。

7.「お客さんに網を投げるの(魚を獲る要領で)。でもその網に自分もかかって(魚になって)しまわないとダメなの。」

1.は意外と効く。声楽家の錦織さんは、深呼吸で吸ったままの状態でステージに出たら、初めて「花がある」と言われたそうだ。

3.は、私には効かなかった。昔、バッハの「マタイ受難曲」を演奏した時のこと。マタイの公演では必ず眠っている人が何人もいる。ヴァイオリン・ソロのあるあたりは確実に2割以上の人が眠っている。にも関わらず、ブルブルになるのだ。眠っている人を見て緊張が走るとは、何たることだと自分でも思うのだが、どうにもコントロールができなかった。

4.は私の先生。気持ちがいい時もあるとのこと。私には未だに訪れない心境である。

6.はマーフィーの法則である。

7.は美空ひばりの発言である。

まだあったような気がするけれど、大体このあたりかな。

「あがり」を克服する―ヴァイオリンを楽に弾きこなすために

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せっかくこのような本が出版されているのだから、悩む人は読むべきだろう。

さらに私から言うとすれば、アガッている自分を否定しないことだ。

なぜアガルのかを考えてみると良い。

それは、うまくやろうとする気持ちがあるからだ。

うまくやるには、全身が臨戦態勢になければならない。心臓は速く動き、手に汗を出して持ったものが滑り落ちないようにする。獲物をしとめるには、不可欠の生理反応なのだ。

つまりアガルのは生物として至極当然のこと、それを否定してしまったら、生きていることを否定しているのと同じことになってしまう。

問題は、それが度を超えているために、かえってうまくできない状況を作っていることだ。

それを回避する手立ては大きく二つ。一つは4.のようにそれを楽しむ。もう一つは非日常を日常にしてしまうこと。

学校の先生は生徒達を目の前にしていちいち震えたりはしない。しかし、学生時代の教育実習、あるいは教員になって初日の授業は、やはり緊張が走る。

だから毎日舞台をふめば、いちいちアガルことはなくなるだろう。(逆に自分で緊張を作り出す努力が必要。)しかし、これは専門家にならないと不可能である。

となると、何でも良いから人前で演奏する機会を増やすのが有効、ということになる。

とは言え、本番をそう簡単に増やせるものではないから、やはり自衛手段が必要だろう。

上記の七つの方法は、それなりに有効と思われるので参考にしていただきたい。息をたっぷり吸って、お客さんと一緒に魚になって、神様の思った通りに演奏するのである。

そこで最後のアドバイス。成功者に共通して言えるのは、自分が成功した時のイメージしか持っていないのだそうだ。スポーツ選手であれ、財界のトップであれ同じ。またしてもイメージ・トレーニングになってしまうが、どうぞ最高の演奏をしている自分の姿を細部にわたってイメージすることを訓練していただきたい。意外と難しいけれど、難しいだけに確実な進歩が見込める。それが結果的にはメンタルなトレーニングになっているはずだ。


千歳龍の伝説

2012-11-16 22:07:01 | うんちく・小ネタ

昨日は「七五三」。その時だけ訪れる龍の伝説を教えてもらった。ちょっといい話だったので、ここで紹介したい。

河の傍らに住む、幼き子供とその母親、貧しいながらもつつましく生活を送っていましたが、河川の氾濫によって住まいを失い、母は病気になります。

幼き子は母を助けるために、この河に住まう龍神にその身を捧げ、母を助けるためにこの河に住まう龍神にその身を捧げ、母を助けるように願います。

しかし河に身を投じたはずが崖にぶつかり、その子の血のみが河に投じられました。

母はその後異常なまでの回復を見せますが、子は戻らず途方に暮れた人生を歩んでいました。

ところがその数カ月後、何と子が元気な姿で戻ってきました。

今までどこに行っていたのか?その問いに対して子は「白い龍の背で眠っていた」と…。その龍が自らと母を助けた神様だから、この河に感謝しましょう、と言います。

本当に生き返ったのでしょうか・・・

子供が身を投げた時、白き河の守護神は子供の願いを聞き入れ、母の病を救ったのですが子供を救う事はできなかったのです。なぜならば、その子は河に身を投じた途中で崖にぶつかり死んでしまったのですから…。

死したものを救う事はこの白き龍の力でも叶わず、その子の亡きがらと共に龍は天に昇ったのでした。

そして再び龍がその瞳を開けた時には背にその子を乗せており、その子は生きていたのです。

さらに、水に映る自らの姿は変貌をとげており、その美しき鬢や髭は朱にそまり、瞳も深紅へと変わっていました。

それは、この龍の功績と子供の美しい心を天が認めたからなのです。天は白き龍をその子の血が染まりし紅白の「千歳龍」と変え、純粋である子の長寿を司る龍としました。

以来「千歳龍」は純粋な子供が持つ心の前に姿を現す、と言われています。

さあ、今年はどの子供の前に現れたのだろうか・・・。





MD ディミヌエンド

2011-10-15 13:55:09 | うんちく・小ネタ

ここで言うMDとは、録音メディアのMini Diskのことである。

数カ月前、MDデッキが壊れた。ディスクを取り込んだまま動かなくなってしまったのだ。その時は、急遽他の方法をとって、事なきを得た。

さて、という訳で、大分時間が過ぎたところで、ようやく修理に出した。それから随分時間がたったところで、電気店からの返事。

修理する部品がないから修理できないとのこと。えっ?

「これ、大分古いでしょ?」

よく考えると十数年というのは古いのかなぁ?一緒に使っているカセットデッキ、アンプ、スピーカー、全て昭和生まれなので、平成生まれのこれは、感覚的に新しいつもりなのだが。

「ソニーが生産を止めたんですよ。あとは各社OEM(相手先ブランド供給)ですからねえ。ソニーが止めたら市場から消える訳で。」

おぉ、何という根性無し、と言うのは止めよう。CDという素晴らしいメディアを作ったのもソニーだし。

MDが入っていた棚の上にはDATのデッキが入っている。まだ頑張れよ!

棚の下にはDCCが入っている。え?知らない?では教えてしんぜよう。 家庭で手軽に扱えて、しかも従来のカセットテープと互換性があるもの、というコンセプトでフィリップスが開発したのだ。ディジタル・コンパクト・カセット、である。

知る人ぞ知るDCC対MD戦争。結果がどうなったかは、言うまでもない。持っていて「笑える」のは、これとエルカセットくらいだろうな。

だから、勝者であるMDにはもっと長生きしてほしかった。 でも仕方ない。21世紀に生きる者は、それにふさわしく生きていくほかはない。

幸いにして、まだいくつかのMD搭載の機械を持っている。大事に扱うぞ。


砂の器

2011-10-10 23:23:25 | うんちく・小ネタ

中高生の頃、團伊玖磨のLPも買わずに、何を買っていたかというと、例えば交響組曲「宿命」というのがある。映画「砂の器」の音楽を編集したものである。

そういえば最近もドラマ化されていて、また観てしまった。多分3回目のドラマ化だと思う。ここまで何度も映画になったりTVドラマになったりという作品は珍しいのではないだろうか。

これはもちろん作品が面白いからだ。方言や戸籍のトリック、日本のあちこちを舞台にする設定、人間模様、その要素には枚挙にいとまがないが、他の松本清張作品と違うのは「音楽家」が出てくる、ということだ。と言っても全作品を読破した訳ではないので、他にも出てくる作品があるのかもしれないが、とにかく音楽のウェイトが結構大きい。

しかし、原作では「ミュージック・コンクレート」の現代音楽家、という設定なのだ。鉄筋コンクリートみたいな名前だが、訳すと「具体音楽」、身の回りにある音から電子音まで、様々な音を集めて加工して編集して作る「音楽(?)」のことである。

これを映画化してもドラマ化しても、かなり無理がある。案の定、どのドラマもそこは改変されている。改変された結果、どのドラマも「あり得ない音楽家」の設定に変わっているのが興味深い。

「あり得ない」のは、聴衆が次の新作を聞きたくて会場につめかけ、かっこいい(あ、今はイケメンと言うのだった)青年音楽家が登場して、クラシック音楽のスタイルを持つ「わかりやすい」音楽を披露する、ということ。あったらいいのに、とは思うが。

さて、「ミュージック・コンクレート」の代表選手は、やはり武満徹と黛敏郎だろう。と偉そうに書いてしまったが、実はこのお二方の作品しか聴いたことがないのである。(一時、冨田勲のシンセサイザー音楽をレコード会社がミュージック・コンクレートに分類していたが、それは間違いというものだ。)

このご両人の作品は、感動とまではいかないにしても、なかなか面白かった。特に黛先生のものは、いかにも才気煥発なユーモアと皮肉に富んだものだった。

そこで思うのは、「砂の器」の音楽家、和賀英良のモデルは黛先生なのではないか、ということ。実は私は昔からそう信じている。

私が生まれるずっと以前のことだけど、さんざんテレビや書籍等で紹介されているから、まるで見たことがあるかのように聞かされている「三人の会」。芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎という当時若手の作曲家が、お金を出し合ってオーケストラを買い、それぞれの作品発表をした会である。

そこで「シルクロード」や「饗宴」などが演奏された。こういう音楽ならば、聴衆も新作に期待してつめかけるだろう。そして花束を渡したのは、みんな当時の女優さん達。そのうち、皆さんその女優さんと結婚して・・・。と、まあ実に華やかな世界が、往時の日本のクラシック界にはあった訳だ。三人ともスターだったし。日本のクラシック音楽界が、一番賑やかだった時代かもしれない。

この情景、映画・ドラマの演奏会シーンとそっくりだ。この情景のみが生き残っている感がある。原作にそれが活写されているかどうかは、読み手の判断に委ねられるが、和賀英良と黛先生が,この点において素直に重なるのである。

ただ、和賀英良はかなり悪者として描かれているので、黛先生がモデルだなどとうっかり言えるものではないし、第一恐れ多いことだ。

私が望むのは、クラシック音楽界にも、そのような活気がまた現れる日がくること。生きているうちにそうなるといいなあ。

追記 : これを書く約1カ月前、作曲家の吉松隆氏が「和賀のモデルは黛敏郎」と断定されていました。そこには「従前のクラシック音楽と違い、現代音楽ならばろくな教育を受けなくても第一人者になれる」という皮肉が込められている、とのことで・・・。念のため、黛先生の作品は、そのような現代音楽とも違い、すばらしいものです。



タキシードは略礼服

2010-12-29 23:50:47 | うんちく・小ネタ

燕尾は仰々しいと感じたのかどうか定かではないが、アメリカではタキシードというスタイルが礼装として定着している。アカデミー賞やグラミー賞の授与式風景を思い起こしてもらえば想像がつくだろう。国語辞典には「タキシードは略礼服」と書いてあったが、アメリカでは正装である。

燕尾服とは何が違うか。一見して明らかな違いである燕尾の「尾」の部分がないほかは、ベストではなくてカマーバンドをつけ、黒の蝶ネクタイになる。あとは基本的に同じである。

それで、日本のオーケストラは夏季と昼間はタキシード・スタイルになるところも多い。が、もっと一般的なダーク・スーツ・スタイルも多い。これは世間で言う「礼服」、背広の黒い物で、一般的に日本人が冠婚葬祭に着るおなじみのものだ。この場合、ネクタイは銀または白になる。タキシードとは襟やズボンの形状が違ったりシャツも全然違う。で、オーケストラにおいて「黒タキで」と言われた場合、本来は黒のタキシードで、の意味なのに、そこは日本(?)、ダークスーツに黒蝶ネクタイでも許されている。

アメリカの影響の強いオーケストラを中心に、夏は白タキシードというところもある。これが黒のタキシードよりも厚い生地で作られていることが多く、甚だ迷惑なスタイル。昔は薄い生地で作られた白タキも売られていたのに、最近はオーケストラ以外で使うことがほとんどないらしい。

昔はホテルやレストラン等のウェイターが白タキシードを着ていた関係で、探せば売っていたのだ。オーケストラも含めて、これらの祖先を遡ると、王侯貴族の従者だったという共通のルーツがある。他業界が徐々に止めていったのに、オーケストラだけが「しもべスタイル」を頑なに守っている訳だ。

白タキは、手に入れるのが難しいが、ウィング・カラーのシャツや黒のタキシードは20年ほど前から急に手に入れやすくなった。いわゆる「バブル」の影響である。あの時は、訳もわからず、ただ黒のタキシードを着てサントリー・ホールにオペラ・ガラ・コンサートを聴きに行く「非」音楽愛好家がいたのだ。変な時代だったが、音楽の仕事が多いという意味では良い時代だった。

さて、夜は燕尾、昼はタキシード、というのも多分諸外国にはない習慣だろう。それが変だから、という訳でもないと思うのだが、「15時は夜だよ」という強引な説を唱えるオーケストラもあった。

ヨーロッパで昼間の正装は「モーニング」になる。これは学校の校長先生を始め、結構出番があったからか、既製服があった(今はないかも)。燕尾との違いは、まず「しっぽ」の形状。モーニングは半円形にカットされている。ズボンは縦じまで、遠くから見ると灰色に見える。そしてネクタイは普通の縦長のものになる。これで演奏する光景は滅多に見られない。昔、ウィーン・フィルが「モーニング息子。」になっていたのを見た記憶があるが、それ以外に思いつかない。

さあ、このくらいの知識があると、テレビで映るオーケストラも、また別の興味が湧こうというものだ。今度のニュー・イヤー・コンサート、服装にも注目していただくと、新発見があるかもしれない。

そして、この習慣を継承すべく、若い人々に「燕尾服はねぇ」と言うべきなのかどうなのか、迷うところだ。